聖書っぽい空とはしご

(聖) 神様以上の生き方を目指して疲れちゃってませんか? (聖書の学び 1)

聖書の学習日記第1弾ということで。まず、どこから読んだら良いの?を調べてみた。
http://seishonyumon.com/movie/1138/
とりあえず、上記サイトの紹介に従って、「マルコの福音書」と「ヨハネの福音書」を読んでみた。iPhoneアプリを使って、新共同訳のものを、音読付で見たり聞いたり。(アプリの紹介はまた今度。)

神様って何だ?

分かりません(笑)ですが、イエス様が神様をこの世で体現するためにやってきた、ということらしい。なので、イエス様の言動=神の言動であり、イエス様の言動から学んでそれを生き方に組み込むことによって神に近づく=良く生きることができる、ということなのだろうというのが今の私の解釈です。読み始めたばかりなのでよく分からん。だが、信じる気持ちだけあれば十分だとどこかに書いてあった気がする。

というわけで、マルコの福音書とヨハネの福音書の中から感じ取った、イエス様の言動について咀嚼してみることに。

神様って、以外と人間的というか、思ったよりも神様っぽくないぞ?

無宗教のときの自分の考え方だと、神は偉大、尊大、怒らない、世界平和を体現する、穏やか、優しい、平静、そんなイメージだった。

が!

上記2つの福音書に出てくるイエス様は、結構人間的だぞ?印象を書き出すので順不同だが、

・たま怒る
・たまに嫌気が差した態度を取る
・たまに「まだ分からないのか?」とも言う
・必要に応じて大声で叫ぶ
・状況に応じて曖昧なことを言うことが多い
・ただし、重要なことを言う前に「はっきり言うぞ」という予告をする
・嘘はつかないが、戦略的な言葉の使い方をする(祭りには「今はそのときではない」と言いつつも、「後から」こっそりと祭りにGoしている。だが嘘は言っていない。)
・問いに対して問いで返すという、一種のタブーを時々使う
・「分からない」という答えを返す(ただし条件付きだが)
・禁酒宣言をしている場面がある
・必ず問答に応じる(弁論から逃げない)が、常に相手を説得しているわけではない。(だから周りの人ががいつも解釈について議論しているw)
・説得できない相手(納得しない相手)に対しては諦めてさっさと移動する

だいぶ印象が違うw

イエス様の振る舞いなので、これは人が生きる上で、このようにしてもいいよってことなんだと理解した。私の生き方に影響を与える項目は、

・たま怒ってもよい
・たまに嫌気が差した態度を取ってもしかたがない
・たまに「まだ分からないのか?」という不満を口にしてもよい
・必要に応じて大声を出してもよい
・状況に応じてほどほどに仕上げてエネルギーの節約をしてもよい
・はっきり言う前には、「はっきり言うぞ」と予告すべし
・戦略を取る
・たまには問いに対して問いで返すという戦略も可能
・「分からない」と言っていい
・禁酒がオススメ
・基本的には弁論から逃げない(当然だが、ぶち切れて逃走してはならないw)
・だが、面倒くさい相手については相手をしなくてもいい(義務ではない)

状況に応じてほどほどに仕上げてエネルギーの節約をしてもよい

常に1から10まで仕上げる必要はない。いつも何事についてもバカ丁寧な仕事が最良だと思っていた自分はやり過ぎていたのだ。

はっきり言う前には、「はっきり言うぞ」と予告すべし

いつもはっきりと言ってばかりでは、まるで抜き身の刀みたいで怖いぞ。コミュニケーションが難しくなる困ったちゃんになっちゃうので。言うべき時に「はっきり言うぞ!」とすればいい。つまり、言いたいことがある場合には「はっきり言った方が良い」ということなのだ。The 居合い斬り。

戦略を取る

流されるがままではだめ。相手を信じて何もしないのもだめ。神様でも戦略は取るのだから。つまり、自分にとって物事を都合良く運ばせるためには
戦略を取っていいよ、と神が言っている。
なので、戦略を取らないほうがおかしい。
戦略をとることは正しいのである。
これは驚いた。

しかも、このとき、人目を避けてこそこそと移動していたのである。
神様でも戦略によってはこそこそと行動するのだ。これも正しいということになる。何でもかんでも正面突破ってのは正しくないってことなんだな。よく考えると、正面突破ってどこかに正義感があるような印象だが、んなこたぁない。よりよい戦略を選択をした方が良い。

「分からない」と言っていい

これも意外だった。今までの自分は、分からない、という言葉を極端に避けてきた。だが、神様も言うことがあるんだから、本当に自分にとって分からないときには、分からないと言ってもいいんだな。もちろん条件付きなので、○○が××なので分からない、くらいの補いは必要だろうが、ゆえに「分かりません」という答えは、答えとして成立しているのだな。

「分からない」ことに対する不要なストレスを抱え込む必要などない、ってことだな。(ただし、いつまで分からないままにするかは本人次第だが)

禁酒

神様でも、これからは飲むのはやめるよ、という禁酒宣言している位なので、禁酒は正しいことになる。確かに、毎日飲んだくれている描写などないので、酒の常用は避けた方が良いってことなんだろうね。何か特別な場合を除いて、晩酌はやめた方が良いのかもしれない。イエス様でも禁酒宣言する位なので、それにならって禁酒をきちんとしてみようと思った。飲んじゃったら懺悔して反省しよう。……ほろよい1本はお酒でしょうか?

結論

というわけで、なんだか、だいぶフランクなのが神様だな。無宗教時代の私の考えだと、お釈迦様や儒教の考え方などが入り交じって、共通項で仕上がった無敵の存在が神様ってことになっていたが、聖書の教えにある神様は、そんなに完璧じゃなかった。

だから、そんなに完璧人間を目指す必要はなかったのだな。

私にとっては、聖書の教えをコアとして、やって良いこととやってはいけないことが明確に線引きされたので、今まで無駄に不安に感じていたことのいくつかがスッキリと解消されたのである。心が軽くなったのだ。

やはり、自分以外にも一つ、心から信じられるものを作っておいたほうが、良く生きられる気がした。ぶれない自分を作りやすくなる気がしたよ。

今日も一日幸せに生きることができました。感謝。
明日も皆様が幸せでありますように。




(133回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊