聖書

(聖) 自分以外に信じることがきちんとあると心が揺らがない、安定していられる(聖書の学び 19)

(約 1,600文字の記事です。)

引っ越し後に色々あったのだけれど、私は聖書を人生のコアとしてよかったと思っている。詳細は、後日、書くかどうかは分からないけれど、今はっきり言えることは、「失敗を否定して罵声を浴びせる人」と「失敗を前提として受け入れて次の善き一手を検討できる人」の2種類の人がいるってこと、これは間違いない。

聖書には、人の不完全さを認める記述が沢山ある。最初から人は「不完全であり、最後まで不完全であることが分かっている」ことが指摘されているのだろう。だから聖書では「誓ってはならない」と言っているのかな、とも思っている。

今回の記事では、根拠となる聖書の記載か所までは明記していません。なので、若干曖昧ですがご容赦ください。note執筆復活記念と言うことで(笑)

失敗から学べることは沢山ある。だが、失敗したいわけじゃない。でも、失敗からは立ち直らなければならない。ではどう考えればいいのか。この「考え方のアプローチ」一つで、人生は良いほうに行ったり、悪いほうに行ったりする。聖書を信ずることに限らず、宗教、つまり自分以外に信ずる何かをきちんと持っているってことは、この「考え方」をよい方向に修正しやすいことだと思っている。だから、信仰心を持つことは、心の安定性にとても重要だと思うのだ。

聖書がいいのは、その理屈の根拠が日本語に翻訳されて本になっている点。沢山の宗教があるが、謎の呪文を唱えて幸せになれるならそれでもいいかも知れないが、その内容を理解できるほうが納得度が高いのは間違いない。聖書はその点、日本語になっているので幾分理解しやすい気がする。

聖書の教えを信じるようになってから、私の心に大きな変化があった。それはまぁ後日書くとして、心が荒れなくなった。すさまなくなった。乱れなくなった。どんな状況になっても、心が穏やかだということはとても幸せなことだ。冷静な判断ができる。罵声や罵倒にも心が乱れない。言わせてあげればいい、それを言うのは自由だし、私は他人の行動までは制御できないことだから。でも、罵声や罵倒を言った人は、きっと気分が悪く心が荒れているのだろう。でもそのことについて私が何ができるだろうか?できるとすれば和解だろう。なのでその和解のための努力は惜しまない。それでだめなら決別でいいのだ。聖書でも、布教に際に粘りまくれ、なんて書いてないし、さっさと次の村に行くべきだと言うことすら書かれているくらいなのだから。

ま、結局何が言いたいかって言うと、自分以外の何かをきちんと信じて人生の活動に取り入れることは、自分によい影響を与えるばかりか、周りにもきちんとよい影響を与えることができるんだ、ってこと。和解のための行動は、周りにきちんとよい影響を与える。無理だと思ったら諦めればいいだけのことだ。それはそれでいい。結末は主が決めて下さる。できることは今日一日でベストを尽くすことだけだ。明日はまた新たな一日の始まりである。

無宗教の害悪は、以前の記事で書きました。

今の時代、混沌としていて、カオスで、何を信じて良いか分からない時代だと思っています。いつの世もそうだったかも知れませんが、今の私にとっては、聖書の教えを信じること、キリスト教を信じて自分の人生を豊かにしようと決めたことは、幸せなことだったと思っています。宗教がうさんくさいというのも分かります。私もそうでした。宗教が何かをしてくれる、というのもうさんくさい。でも、無信仰であることよりも、信仰心を持っているほうが、「自分自身の心が安定していられる」ことは間違いないと思います。

自分以外の何かを信じてみたいと思った時には、聖書(新約聖書)を開いてみるのも良いかもしれません。あるいはこちらも良いかもね。

久々の聖書のお話でした。

今回の創作活動は約30分(累積 約867時間)
(311回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊