「自分のここ嫌い」は成立するか
人には各々「嫌いなもの」があるだろう。
食べ物でも飲み物でも仕事でも家事でも。
基本的にそれらは生きていく上で避けることができるものだ。災害時等緊急時を除けば食べ物飲み物は口にしなければいいし、ほとんどの場合仕事や家事もやらなくていい方法がある。
避ける方法が(探せば)あるこれらに対し、「自分」はどうだろう。
「自分が嫌い」と一口に言ってもその対象とその程度は様々だ。
容姿かもしれないし、性格かもしれないし、不意にとってしまう行動かもしれない。
「嫌いなもの」と「自分」の違いは、「自分」からは避けられないということである。
嫌い、とは避けられるものに対して可能な限り関わり合いにならないとする立場のことではないかと私は考える。
だとすると、「自分が嫌い」は成立しないのではないか。
「自分が嫌い」という部分とは自分の中で改善したい点のことではないだろうか。
そうすると、取るべき選択肢は2つだ。
「自分が嫌い」なところを受け入れるか、それを改善する(または気にならないようにする)かである。
自分が嫌い、と言うと極力関わらないでいようとしているように感じるがそれは不可能である。だとすると嫌い、とするのではなく改善しよう、とすれば前向きに行動できるのではないだろうか。