『高田松原津波復興祈念公園・気仙中学校』
高田に初めて行ったのは震災後2年くらい経ってからだろうか?津波の到達点が平地の市街地を奥まで襲った。6キロ?以上と聞いたこともある。もっとか?感覚的に足利の河南の50号から南区域全域が水没したような、それくらい広大な面積が被害に遭った。とうぜんその頃はまだ盛り土もなにも始まっていなかった。松林の松はすべてなくなって1本だけ奇跡的に残っていた。のちの奇跡の1本松。その時はもう根元も腐り始めて保存に向けた動きが活発になっていた。近くで見たのはその時だけ。数年後、同じ高さ・形にカーボンかなにかで再建されて同じ場所に置かれた。
行ったのがお盆のためかそこそこ人が多い。前に書いたシラスの中で山内さんが語っていたのと同じ印象をぼくも持った。土地の広さを生かした圧倒的な建築物。正面の水場を越えると海に向かってまっすぐ。でも、これが非常に圧迫感を覚えて少し怖くなった。防潮堤の先に広田湾が広がっているのは知ってる。でも、そこからはなにも見えない。
階段を上って橋を渡る。その先に「海を望む場」がある。山内さんはその橋の下の川を 三途の川を渡っていくような と比喩した。その先は海。
三途の川とかまでは思わなかったけど、なにかあの昇華していく感覚。あまり好きにはなれなかった。
防潮堤の上から建物を見ると、逃れられないなにかを感じてしまう。ちょっと息苦しくなってあまり長い時間いられなかった。
祈念館、反対側には道の駅。
祈念館もなんというか、震災の施設はこういうフォーマットがあるのか?と思わずにはいられなかった。2011年の東日本大震災だけでなくずっと前からの津波被害の歴史を展示していて、いや、うん、わかるんだけど、、、。やはりそこもすぐに出てきてしまった。観光客、学生生徒たちの研修のばとしてはいいのかもしれない、きっと記憶に残らないだろうな。「行った」ってこと以外は。
「海を望む場」から1本松の方向を見ると学校の校舎がある。以前は45号線から高田市内に入っていったのだが、そのすぐ脇にその校舎は建っていた。当時、校庭にも流されたものが残置され教室内にもそれが見えていた。遺構として残されるのが決まって、ここも行かなきゃと思っていた。
祈念公園にあれだけ人がいたのにこちらには誰一人いなかった。ずいぶん片付けられているけど草もあちこち生えていて(いや、今年は雑草の勢いがすごいよね)、震災遺構って震災の風景を残しておかないとだめだからこうでいいんだよな。と、自分で納得した。
RC3階建ての校舎の屋上まで津波が襲ったが、教師と生徒は屋上ではなく高台に避難したため全員が無事だったそうだ。釜石の奇跡と同じ岩手でもいわれていたけれど、こちらでは全員で避難して全員無事。その土地の特性に合った避難が大事なんだと思わされた。
高田松原の「海を望む場」で若いお父さんが小学低学年であろう子供に 「津波がここの堤防を越えて町の中に流れていったんだよ」 と説明していた。特に何も言わなかったけど、そんな間違ったことを子供に教えるのならすぐそばの気仙中学を見せてやればいいのに。その津波の高さで怖さを覚えるだろうから。
調べると、気仙中学も高田松原津波復興祈念公園に含まれるらしい。だったら、そこまで誘導する動線を作るとか、館内に気仙中学も見に行かせるようななにかがあってもいい。「観光」として行く人たちは震災を「見せられる」事になれている。考えさせる展示でなければいけないはずなのに 見せられる ことに疑いを持たない人たちばかりになっているのだ。だから、ひと目で津波被害がわかる気仙中学のような遺構に誘導しなくてはいけないはずなのに。
陸前高田市に脳性麻痺をもった田崎飛鳥君という画家がいる。友人と一緒に一度伺ってお目にかかったことがある。彼の絵にあらわされる悲しさや希望、そういうことを理解しないでいては、「祈念」の施設などつくれないんじゃないだろうか?石巻ほどとはいわないけど、やはり「これでいいのかなぁ?」と思わざるを得ない施設ではあった。とはいえ観光客の誘致には成功しているかと思うので、多くの人に行ってみてほしいとおもう気持ちはある。
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