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政治講座ⅴ1893「大東亜戦争における特攻」

以前、大日本帝国軍人の英霊が眠るパラオ諸島に旅行に行ってきた。激戦地の現地を目の当たりにしました。命を落とした方々の英霊を弔ってきた。セスナ機で平和なパラオ諸島を青空から見てきた。

同型のセスナ機
パラオ諸島


その後ハワイの真珠湾にも現地を見学した。その時のブログも掲載した。
政治(歴史)講座ⅴ383「真珠湾攻撃、トラ・トラ・トラ」|tsukasa_tamura (note.com)

政治(歴史)講座ⅴ384「戦艦ミズーリと神風特攻機。 涙が止まらないお話」|tsukasa_tamura (note.com)
観光旅行にハワイに行ったら、常夏の行楽地に浮かれることなく、日本兵が生死をかけて戦い命を落としたことをも知るべきであろう。
今の平和の礎となった英霊に改めて安らかに眠らんことを願う。
今回は「特攻」の関連報道記事を目にしたので紹介する。

蛇足:日本では、8月15日を「終戦の日(終戦記念日)」と呼びますが、世界的には9月2日が終戦の日とされています。日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国に通告した日が8月14日、玉音放送で日本の降伏が国民に発表された日が8月15日ポツダム宣言を受諾し調印した日は9月2日であるためです。また、「終戦の日」と「終戦記念日」は同じ意味で使われますが、国営の放送局では“記念日”の表現はお祝いのイメージがあるため、「終戦の日」を用いています。しかし、その齟齬(そご)により武力解除が早すぎて日本の無抵抗の間(8月15日から9月2日の間)にソ連が北方領土を不法占拠して今現在まで実効支配をしているのである。今も、ロシアとは話がかみ合っていない、食い違っていて話がうまく進まない原因を作ったのである。

     皇紀2684年8月14日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

特攻に「志願したか」と聞かれて、「まだです」と答えた戦闘機乗りに対して飛行隊長が「独り言のように言い残したひとこと」

神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家) によるストーリー

75%が戦死するという激戦地で生き抜いたパイロット

大原亮治・元海軍飛行兵曹長は、昭和17(1942)年10月、第六航空隊(11月、第二〇四海軍航空隊と改称)零戦隊の一員として、ソロモン諸島のガダルカナル島、ニューギニアのポートモレスビー攻防戦の二正面作戦の最前線だったニューブリテン島ラバウル基地に着任。

主に零戦隊の名指揮官として知られる宮野善治郎大尉(昭和18年6月16日戦死)の三番機を務め、投入された搭乗員の75パーセントが戦死するという激戦地で1年以上にわたって戦い、記録に残るだけでも10数機の敵機を撃墜して生き抜いた。

大原亮治氏。平成16年秋(撮影/神立尚紀)© 現代ビジネス

昭和18(1943)年11月、海軍航空の総本山ともいえる横須賀海軍航空隊(横空)に転勤後は、各種新型機のテスト飛行などに任じている。

昭和19(1944)年8月中旬、横空でも「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者の募集が行われた。これは、開発が決まった人間爆弾「桜花」のテストと部隊編成のためだった。隊員たちの知らないところで、すでに「特攻」が海軍の既定路線となっていたのだ。

「生還不能と言われてもね、こっちは戦闘機乗りで、敵機を墜として生きて還るのが仕事ですから。横空では特攻志願の募集が昭和19年の12月にもあり、志願する者は隊長室を一晩開けておくから、名前を書いた紙を置いておけ、ということだったんですが、誰も志願しなかったらしく、数日後にもう一度話がありました。

当時、横空の飛行隊長は、ラバウルでも私の隊長だった小福田租少佐でした。二度めの募集の訓示が終わった晩、航空隊庁舎の廊下ですれ違ったとき、『大原、お前志願したか』と訊かれ、『いえ、まだです』と答えたら、隊長は『するなよ』と独り言のように低く言い残して士官室に入っていった。結局、私は志願しませんでした」

と、大原は私に語っている。

超大型爆撃機B-29との激戦

すでに米陸軍の超大型爆撃機・ボーイングB-29による日本本土空襲は始まっている。
昭和19年11月24日、サイパンからはじめて東京に飛来したB-29を邀撃した横空の山本旭少尉は、千葉県八街上空で敵機の後上方から攻撃をかけたが、敵防禦砲火に被弾。落下傘降下したものの敵弾を体に受けており、戦死した。

「私は田中寅吉少尉と機上作業練習機白菊に同乗し、八街の陸軍飛行場へ遺体収容に飛びましたが、山本さんの片脚は飛行靴ごと焼け落ちてしまっていました」

と大原。B-29は、これまで日本の戦闘機が苦戦を強いられた大型爆撃機・ボーイングB-17やコンソリデーテッドB-24と比べても、異次元ともいえる高性能と重武装を備えた爆撃機で、零戦や紫電では追いつくことさえままならない。大型爆撃機の迎撃機として開発された局地戦闘機雷電でも、まともに戦うのは困難な相手だった。

局地戦闘機雷電© 現代ビジネス

「昭和20年のはじめ、そんなB-29を撃墜したことがありました。このときは雷電に乗って出撃、『敵編隊伊豆半島北上中、高度5000』との地上からの無線で、高度を8000メートルまで上げ、八王子上空で機首を西に向けると、ちょうどその季節はジェット気流がものすごい風速で吹いていて、200ノット(時速約370キロ)の巡航だと地上から見てほとんど凧のように浮かんでいる状態になります。

この頃になると戦闘機の無線電話も使えるようになっていましたが、『ワレ八王子上空高度8000』と報告したら、10分経っても同じ『ワレ八王子上空高度8000』。それで、敵編隊が富士山を目標に東に変針し、東京方面に向かってくるのが見えたら切り返して急降下、敵機の弾幕の薄い直上方から攻撃をかけるんです。

狙いを定めて一撃し、いったん敵機の下に出てもう一度高度をとり、二撃めは東京上空で後上方から攻撃、撃った敵機が煙を吐いて遅れだしたので、さらに態勢を立て直して後上方から三撃めをかけると、搭乗員が次々と落下傘で脱出するのが見えた。それを6人まで見届けたあと、B-29は大きな螺旋を描くように降下して、鹿島灘の海岸近くの松林に墜落しました。3回攻撃する間に、八王子、東京、鹿島灘と移動したわけです」

米軍の記録と照合すると、昭和20年1月27日、茨城県鹿島郡神栖村居切浜(現・茨城県鹿嶋市居切)に撃墜されたB-29がこれに該当すると思われる。同機は11名の搭乗員のうち5名が戦死、脱出した6名は日本軍の捕虜になったという。

2000機もの敵機が関東ー静岡に来襲

昭和20年2月16日、17日、25日には、米機動部隊の艦上機のべ約2060機が、関東一帯から静岡県にかけて来襲した。これは米軍の硫黄島上陸作戦に呼応し、日本本土から硫黄島への救援を封じるためのものだった。3日間で海軍だけでものべ約500機の戦闘機がこれを迎え撃つ。日本側は40数機を失い、米側の損失は58機だった。

大原は、2月16日早朝、「敵艦上機館山を空襲中」との報を受け、紫電に乗って出撃している。この日、横空戦闘機隊は零戦、紫電、紫電改、雷電など10数機をもって邀撃した。

局地戦闘機紫電。大原亮治上飛曹搭乗機。© 現代ビジネス

「私は単機で離陸しましたが、横須賀沖でF4Uコルセア(戦闘機)、TBFアベンジャー(攻撃機)の編隊を発見、そのまま突っ込んでアベンジャーを1機、江ノ島の近くに撃墜しました。このとき『敵戦闘機大編隊厚木上空』の無線電話が入り、そちらに急行しようとしたら、その途中、横浜の本牧上空で味方の対空砲火に狙い撃ちにされた。

ずんぐりした形の紫電をグラマンF6Fと見間違えたんでしょう。幸い被弾しなかったのでそのまま厚木上空に向かい、敵機の一部が相模湾に逃れようとするのを追いかけたら、葉山上空で、戸口勇三郎飛曹長機ほか1機が低空でF4Uに追われているのを発見。

F4Uと対戦するのはラバウル以来だったから、この野郎、久しぶりだな、と。それで戸口機を追尾していた1機を撃墜しました。F4Uはスピードは速いですが、ダッシュが遅くて比較的捕捉しやすく、苦手意識はなかったんです」

この日の横空戦闘機隊の未帰還機は1機。しかしその1機、下士官兵搭乗員のまとめ役である先任搭乗員だった山崎卓(たかし)上飛曹の最期は悲劇的なものだった。横浜市の杉田に落下傘降下をした山崎上飛曹は、敵と思い込んだ地元の警防団に撲殺されたのだ。

山崎上飛曹の不慮の死を受け、新たな横空戦闘機隊先任搭乗員には大原が指名された。

高熱に悩ませられながらも敵機を迎え撃つ

B-29は、昭和20年3月10日から、東京をはじめ全国主要都市に対する夜間の焼夷弾攻撃を開始した。さらに硫黄島が陥落したことで、新型の米陸軍戦闘機、ノースアメリカンP-51ムスタングがB-29の護衛につくようになった。P-51は、最高速力は時速700キロ超と零戦五二型より150キロ近くも速く、運動性能、航続力などあらゆる点で従来の戦闘機をしのぐ、次世代の機体ともいえる優秀な性能を誇っていた。

P-51が、はじめて日本本土上空に飛来したのは、4月7日のことである。

「この日の午前、『B-29大編隊伊豆半島北上中』の情報で、横空からは飛行隊長・指宿正信少佐率いる紫電改6機が、新兵器の27号爆弾を両翼下に1発ずつ搭載して邀撃に上がりました」

ボーイングB-29© 現代ビジネス

二十七号爆弾は、従来、爆撃機との戦闘に使われていた空対空爆弾、「三号爆弾」をロケット爆弾としたもので、発射すると一定の秒時ののち、時限信管により炸裂する。炸裂すれば、黄燐を使用した135個の弾子が60度の角度で敵機を包み込むというものである。

「私はこの日、第二小隊三番機の位置についていましたが、原因不明の高熱に悩まされていて、高高度飛行ができない状態でした。それで、7000メートルの高度をとったほかの5機からは離れて高度5000メートル付近を飛んでいたんですが、まもなく『B-29編隊小田原上空高度5000』の情報が飛び込んできた。

頭痛に耐えながら照準器、ロケット発射装置、機銃のスイッチをオンにし、戦闘準備をととのえていると、はるか水平線上にB-29の編隊が見えてきた。さらによく見ると、そのなかに小型機の群れが見えます。液冷エンジン、胴体の下のふくらみ。陸軍の飛燕だ、陸軍さんやるね、と思いながら反航してきた飛行機の星のマークを見てびっくり、飛燕だと思っていたのは米軍のP-51だったんです」

P-51は左急旋回で大原機の後ろに回りこもうとする。大原はちょっと迷ったが、P-51が攻撃してくるまでには多少の余裕があると考え、接近してくるB-29の攻撃を優先することに決めた。

同高度正面からB-29が接近する。ロケットの発射ボタンを押そうとしたまさにそのとき、後方から機銃弾を浴びせられた。反射的に操縦桿を左に倒し、右側にチラッと目をやると、大原機を撃ったP-51がものすごいスピードで上昇してゆく。想像以上の性能だった。大原は二撃めを回避するため、こんどは右に切り返してP-51の真下に入った。

P-51は、なおも攻撃の機会をうかがっているようだったが、やがてあきらめたのかB-29の編隊を追って飛び去った。

「エンジンと右燃料タンクに被弾、そのうち、自動消火装置の液化炭酸ガスが燃料に混入したため、エンジンが止まってしまいました。電気系統もやられて、ロケット弾を処分しようにも発射できず、主脚も出ない。落下傘降下か?いやだめだ、高度が下がりすぎている。

紫電改は低翼ですが、主翼に上反角があるから、機体を左右に傾けずに胴体着陸すれば両翼のロケット弾は爆発しない、と判断して、そのままグライドしながら間近に見えた陸軍相模飛行場の草原にいちかばちかの不時着を試みました。

ノースアメリカンP-51D© 現代ビジネス

接地すると、空転していた4翅のプロペラがドドドッと地面を叩いて『く』の字に折れ曲がり、半分出ていた主脚が吹っ飛んだ。エンジン下部が地面をえぐり、ゴトゴト土ぼこりを飛ばしながら突っ走る。ロケット弾が爆発しないうちに止まれ、止まれ、と口走るうち、ガクッとショックを感じて止まりました。

急いで肩バンドをはずし、落下傘を背負ったまま飛行機から飛び降り、一目散に後方へ駆け出した。すると機体の尾部の少し先のところで、なにかに引っ張られて仰向けに地面に叩きつけられ、その瞬間、轟音とともに顔がボッと熱くなるのを感じた。

轟音が遠ざかる様子だったのでおそるおそる頭、顔、体に手を触れ、異常のないことを確かめて『助かった!』と思ったら、上空で大爆発。ロケット弾が打ち上げ花火のように飛んで炸裂したんです。紫電改を見ると、左翼下のロケットは残っていて、右のロケットが不時着のはずみで発射されたのがわかりました。

ホッとして急に力が抜けるのを感じ、そのまま草原に倒れ込むと、自分の体から落下傘の曳索がピーンと飛行機の操縦席まで延びているのに気づいて、思わず苦笑しました。これは、脱出時に自動的に落下傘が開くよう、座席内にフックで留めてあるものでしたが、あわてていて外さずに飛び降りてしまって、転倒したんですね」

その日の午後、迎えに来た九三式中間練習機に乗って横空へ帰った大原は、さらに高熱を発し、軍医の診断を受けた。診断の結果はまさかの「腸チフス」だった。そのまま長浜海軍病院に入院することになる。大原は幾度か生死の境をさまよいながら、6月30日に退院するまでの約80日間、入院生活を余儀なくされた。

日本海軍戦闘機最後の空戦

やがて終戦。横空では、8月15日、天皇の玉音放送で戦争終結が告げられてもなお、燃料満載、機銃弾全弾装備の戦闘機が列線に並べられ、搭乗員はやる気まんまんで指揮所に待機していた。玉音放送は停戦命令ではなく、この時点でまだ停戦命令は出ていなかったからだ。

大本営が陸海軍に、自衛をのぞく戦闘行動を停止する命令を出したのは8月16日午後のこと。だが「自衛のための戦闘」、つまり来襲する敵機を迎え撃つことはまだ認められている。

8月17日、日本本土の偵察飛行に飛来した米陸軍のコンソリデーテッドB-32ドミネーター爆撃機4機を厚木基地の第三〇二海軍航空隊の零戦12機が邀撃し、翌18日には同じくB-32爆撃機2機を横空の零戦、紫電改、雷電、計10数機が邀撃した。

日本海軍戦闘機隊と最後に交戦したコンソリデーテッドB-32ドミネーター© 現代ビジネス

「『敵大型機、千葉上空を南下中』との情報に、みんなそれっと上がったんです。私は零戦五二型に飛び乗って単機で離陸、相模湾上空で敵機を発見し、そいつを追いかけてとりあえず浅い後上方から一撃をかけた。機を引き起こすとき、あれ、これはいままでのB-29とは違うぞ、と思いました。

敵機の動きを注視しながら高度をとり、こんどは伊豆大島上空で直上方攻撃。敵機は逃げるばかりで、三撃めは『もういいや』と思い、遠くから撃ってとどめを刺さずに引き返しました」

横須賀基地に帰投してはじめて、先ほどの敵機が初見参のB-32であったことを知る。B-32はかろうじて墜落を免れたものの射手1名が戦死した。この件について米軍からの咎めはなく、これが日本海軍戦闘機隊最後の空戦となった。大本営から支那方面艦隊をのぞく全ての部隊にいっさいの戦闘行動を停止する命令が出されたのは8月19日、その刻限は22日零時である。

終戦後も飛行機に乗ることを諦めない

停戦命令が発効した8月22日、大原は准士官の飛行兵曹長に進級した。そして搭乗員は23日には隊を出されることになった。兵曹長の退職金2400円を受け取って横空をあとにした大原は、その足で群馬県太田に交際中だった女性を迎えに行き、宮城県の郷里に復員した。

「終戦で日本は一切の航空活動を禁じられ、この先どうなるか見通しはつきませんでしたが、このままアメリカに潰されてしまうことはないだろうと思っていました。そして、いつか必ずまた飛行機に乗れるようになると信じていました」

昭和20年の大原上飛曹© 現代ビジネス

郷里に帰った大原は、兄に「5年経ったら飛行機に乗るから、それまで遊ばせてくれ」と頼み、米軍キャンプで働いたりしながらその機会をうかがった。

「昭和25(1950)年頃、日本航空が運航されるというのを新聞で見て(昭和25年6月、日本の航空会社による運航禁止期間が解除される)、そらきた、と、翌年仙台にできた日航の事務所に行ってみましたが、『戦闘機の人は旅客機にはちょっと』と断られました。

これは中央に出ないといかんな、と思い、昭和27(1952)年、横須賀に出て、民間機のライセンスをとるため有り金をはたいて藤沢の飛行連盟に通いました。そしたらある日、藤沢飛行場で、終戦時の横空戦闘機隊飛行隊長だった指宿正信さんに声をかけられたんです」

指宿は、

「昔の海軍戦闘機隊がまたできるぞ。俺は今、海上警備隊に入っているんだ。いま、飛行機を領収に来たところだ。手続きをしてやるからお前も入れ」

と大原を誘い、飛行機にも乗せてくれた。

教官として数々のパイロットを訓練する

こうして大原は、昭和28(1953)年、海上警備隊(現・海上自衛隊)に入隊、1年間の艦船勤務を経て、昭和29(1954)年、鹿屋基地で第一回操縦講習員(海曹)として3ヵ月の訓練を受け、卒業すると同時に教官になった。教官を教育する立場の、海上自衛隊で4人しかいない「スタンダード・パイロット」の資格を持っていたという。

昭和60年8月12日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した日航ジャンボ機の高濱雅己機長も、海上自衛隊在籍中に大原の指導を受けた1人である。昭和30(1955)年、航空自衛隊の発足にあたっては、浜松第一操縦学校に教官として派遣されている。

昭和31年、航空自衛隊に教官として派遣されていた浜松基地で。バックの飛行機は1機だけが日本に輸入されたデ・ハビランド・バンパイア© 現代ビジネス

大原は昭和34(1959)年から海上幕僚監部の本庁勤務になり、昭和46(1971)年、3等海佐で退官するまで自衛艦隊司令部作戦部運用班長や羽田連絡所長などを歴任した。

その後は運輸省の外郭団体である航空振興財団に勤務、各航空会社からの委託で民間パイロットの地上訓練を指導する傍ら、航空教室などを通じて、一般への航空知識の普及につとめた。

自衛隊を退官してからは多くの戦友会に出るようになり、大原が卒業した丙種予科練(内部選抜)出身者で組織する「丙飛会」会長、全予科練出身者が集う「(財)海原会」顧問、元戦闘機搭乗員で結成された「零戦搭乗員会」事務局次長などをつとめ、運営の実務を取り仕切った。

「戦後しばらくは目の前の仕事に精一杯で、遺族や戦友のことまで頭がまわりませんでした。しかしある時期から、戦死した戦友たちに思いを馳せ、けっして自分一人で戦ってきたわけじゃない、と思えるようになりました。昔のことは忘れたい、という人もいますが、なんで忘れられるんだろう、と腹立たしく感じます。私は死ぬまで、戦争の記憶をひきずっていきますよ」

「最後まで航空界に恵まれた人生でした。」

大原の家の神棚には、大原が敬愛してやまなかったラバウルの二〇四空飛行隊長宮野善治郎大尉が祀られていた。平成16(2004)年、83歳になった大原は、私と一緒に大阪府八尾市にある宮野大尉の墓参りをしている。

「隊長、私もこんなに歳をとりました……」

遺骨なき宮野大尉の墓に、大原はしみじみと語りかけた。


平成15年、復元された零戦の操縦席に座る大原亮治氏(撮影/神立尚紀)© 現代ビジネス

私が大原と初めて会ったのは平成7(1995)年だったが、その頃、

「激戦を生き抜かれた理由をどのようにお考えですか。運がよかったんでしょうか」

と訊いてみたことがある。大原は少し考えて、

「いや、運だけじゃないね」

と言い、自分の右腕を左腕でポン、ポンと叩いてニヤリとした。「ここ(腕)だよ」というのである。確かにその通りなのだろう。

「戦争中は飛行機のことしか知らなかったし、『死』はべつに怖いとは感じませんでした。自分がやられるとは思ってもいなかったですけどね……。しかしこんなに長生きするとは思わなかった。長生きして、いろんなことを知るほどに死ぬことが怖くなってきます。ただ、ほんとうに飛行機が好きでパイロットになって、最後まで航空界に恵まれた人生でした。戦争で辛いこと、悲しいこともあったけど、悔いなし、と思っていますよ」

大原の居室には最後まで、多くの亡き戦友たちの写真が飾られ、大原は物言わぬ彼らの若い笑顔を見つめながら、言葉に尽くせないさまざまな思いを語りかけていた。

平成30(2018)年、死去。享年97。

戦後79年となる令和6年夏、生存する元零戦搭乗員の最年少は昭和3年10月生まれの95歳。いまや実戦経験のある人はほとんどいない。砂時計の砂は無常に落ち続ける。

参考資料・参考文献

特攻に「志願したか」と聞かれて、「まだです」と答えた戦闘機乗りに対して飛行隊長が「独り言のように言い残したひとこと」 (msn.com)

神風特別攻撃隊 - Wikipedia

政治(歴史)講座ⅴ383「真珠湾攻撃、トラ・トラ・トラ」|tsukasa_tamura (note.com)

政治(歴史)講座ⅴ384「戦艦ミズーリと神風特攻機。 涙が止まらないお話」|tsukasa_tamura (note.com)

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