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人類の向かう未来は

藤子・F・不二雄先生の「老年期の終り」という1978年発表の短編を読ませていただいた。ものすごく感銘を受けた。そして、この作品の中にあるメッセージ性と、私が過去にDTMで作った楽曲のメッセージ性が、ほんの少しだけ通じるものがあると感じた。

ぜひ、樋口さんに届けたいと思い、このnoteを執筆するに至った。

きっかけ

きっかけは、コテンラジオの樋口さんのツイートだった。

樋口さんのおすすめ。しかも無料。これは読まないわけにはいかない。

「老年期の終り」とは

Wikipediaの紹介を引用させていただく。もう40年以上も前に日本で描かれた作品であるとは信じがたい内容だった。

「老年期の終り」(ろうねんきのおわり)とは藤子・F・不二雄(発表時は藤子不二雄名義)の短篇漫画である。初出は1978年(昭和53年)『マンガ少年』08月号であり、単行本には1980年(昭和55年)には『藤子不二雄SF短編集 創世日記』(サンコミックス)を始めとして8つの短篇集に収録されている。(Wikipedia)

感想(ネタバレあり)

この作品では、植民地など労働力や資源の搾取によって成り立っていた資本主義社会の終焉のその先が描かれているように思った。資本主義社会の終焉が議論されている、まさに今の時代の文脈でこの物語を見ると、非常に考えさせられるものがあった。有限な地球の中で成長し続けた人類が向かった先は、やはり宇宙だった。

この作品で描かれているように、私たち人類は地球から搾取を続けて、資源を使い果たし、新たな搾取対象を探す未来に向かうのか。はたまた人新世の「資本論」の中で語られているような資本主義から脱却して脱成長のコミュニズム社会に向かうのか。選択が迫られるような気がした。

そして物語の最後、主人公とヒロインは、地球に戻らず、次なる可能性を信じ、新たな惑星を目指した。その光景は、アダムとイブを彷彿とさせ、人類が神の領域に近づいていくようにも思えた。

藤子・F・不二雄先生とは何者か

今まで、ドラえもんやハットリ君といった数多くの子供向け漫画を生み出した漫画家という認識でしかなかった。しかし、この作品を読んだ時、その認識が間違っていることに気がついた。

以前、Podcast「新型オトナウィルス」の中で、吸血鬼の話を樋口さんが語っていたことを思い出した。その話も合わせて考えた時に、もはや藤子・F・不二雄先生とは、未来への預言者の領域になっているのではないかと思った。他の作品も、しっかり読んでみたいと思わざるをえなかった。

嘆きと希望の曲

ここまで読んでいただいた方には、ぜひ、この曲を聞いていただきたい。

私が5年前にDTMで作った曲である。私の曲の中では珍しく、フルコーラスで歌詞がついていてVOCALOIDが歌っている。しかも、ギターが打ち込みではなく、実際に演奏してもらったものである。

なぜ、そこまでにこの曲を聴いてもらいたいか。それは、「老年期の終り」の世界観とシンクロしていると思ったからである。

私たちはディストピアに向かうのか
それとも諦めずに未来に向かって飛び立つのか

もう取り返しがつかない世界に対する嘆きと希望の曲なのである。

翼の壊れた日 -the day wings broke-

words & music : tsukanoMa ✴︎

闇の中 息を吐いて 凍えてゆくような街で
何も見えずに震えてた

ここまで辿り着いても 誰にも触れられなくて
虚しさだけを抱きしめて泣いていた

やがて消えゆく墓なき星の運命の鼓動が響く
もう戻れない 償いきれない犯した罪も
いつからか錆びついた鎖 絡み合って飛べない

壊れかけた翼で空に堕ちて これで最期なんて no no それは違う
さあ 両手を広げて 舞い上がれ僕らの想い 高く高く声を上げて

アスファルト濡らしていく 冷たい雨に打たれて
ただ眺めてた赤信号

全てのものが止まって 何も聞こえなくなって
モノクロの夢 凍りつきそうな景色

この世界からどこに向かえば 安らげる場所があるだろう
愛した花も 名前さえすっかり忘れていた
いつからか 散らばった記憶 絡み合って 見えない

壊れかけた歯車 空回って すべて止まるなんて no no それは違う
さあ 扉を開いて 軋む音を立てて回せ 動け 動け 動き出せ

壊れかけた翼で空に堕ちて これで最期なんて no no それは違う
さあ 両手を広げて 舞い上がれ僕らの想い 高く高く高く

もう壊れかけた翼で空に堕ちて これで終わりなんて no no それは違う
さあ 翼を広げて 向かい風を受けて進め 高く高く舞い上がれ

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