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【小説】ネニコとシーザ(改)

ネニコという名前の老婆が一人、とある国の田舎町の、山の麓にポツンと建つ一軒家で静かに油絵を描いて暮らしていた。

ある満月の夜、シーザと名乗る二十代後半くらいの男が一人、ネニコの家に突然やってきた。玄関先に立つ、長髪に大きな荷物の彼は、「突然ですみませんが、この家に居候させて欲しい」とネニコに頼み込んだ。優しいネニコは素性の知れぬこの男から、一体何があったのか話を聞き出した。

シーザはもともと、この国が所有する離島のマンションに住んでいた。ところが島の方針の変更で、肌の色が黄色の人種はこの島を追放されることになってしまった。シーザは黄色人種であったので住んでいた故郷の島を追われた。国が決めたという、勝手な話だった。

「いまあの島には白人と黒人しか住んでいません。俺はもう二度と、自分の家に帰れないんだ……」

居候させてもらえる家を探して何軒も渡り歩いてきた。そのシーザは途方にくれたように話した。ネニコは、「そうね……でも、この月の光の中で見るあなたはとても美しいわ……あなたは美しい人のように見えるの。ぜひ、わたしの絵のモデルになってちょうだいな。そのことを条件に、あなたをこの家に住まわせてあげるから」そう言ってシーザを家の中に招き入れた。

それからいくらかの月日が経ち、若い男を描いた油画の枚数が増えていくにつれ、二人の仲はだんだん深まっていった。この家ではいつも早朝に起きて、夜は遅くても九時には眠る。シーザのかつての暮らしとは大きく違うのだった。


そして、ある日の夕食どき。
「俺はもともと薬学者でね。島にいた頃は研究所に勤務していたんだ」 
酒を飲んでいた勢いか、シーザは自分の身分についてこのように告白した。

「そりゃあもう、いろんな薬を作ったさ。嫌な記憶を消す薬とか、寿命を延ばす薬とかね」
「だからね、ネニコさん。もしあなたがどこか具合が悪くなったらさ、ここから町の病院まで行くの、大変でしょう。俺の持っている薬でなんとかなりそうなら、俺が診てあげるよ」

本当はシーザの作っていた薬は、どれも開発途中段階だった。『ああ、追放されるまでに、これらの薬を完成させたかったなあ』と内心では思うものの、人前で格好つけたいというシーザの心の根底にある見栄が、彼にその話をさせなかった。


そして、シーザがネニコの家に来て一年が経とうとする頃だった。ネニコは突然、病の淵に倒れた。

駆けつけたシーザは、状況を理解してさっと青ざめたが、もう、そうするしかないようだった。

寿命を延ばす薬を飲んだネニコは、やがて自室のベッドで眠るように死んでいった。シーザは立ち尽くし、静かにその亡骸を見下ろしていた。シーザは一瞬逡巡したあと、手持ちの、未完成の「嫌な記憶を消す薬」を大量に服薬し、意識を失った。


目覚めると、シーザは見慣れない病室の白いベッドの上に寝かされていた。病室に訪れた女の看護師に、自分に何があったのかと尋ねたところ、「ネニコさんというかたが、あなたを心配して入院させてくれたのです」と告げられた。「ネニコが? ネニコは死んだはずじゃ……」

あの時ネニコは、実は死んだのではなかった。彼女はあの時、薬の強さによって一時的に眠り込んだだけだったのだ。目が覚めて大量に薬を飲んだらしいシーザに気がつくと、すぐに状況を理解して救急車を呼んでくれた。

「ネニコさんも同じ病院内に入院していますからね」と看護師は言った。ネニコはやはり大病で、今回は一命をとりとめたとはいえ、また危なくなる可能性があるらしい。

シーザは、入院しながらでは清潔を保てないかも知れないという理由で、肩まで伸びていた髪を頭の付け根のあたりまでの長さに切られた。そしてその後、服薬自殺未遂者であることを証明するかのように、当たり前のように胃を洗浄された。シーザは、胃洗浄がこんなに苦しいのなら、もう二度と服薬自殺はしないと心に決めた。

病室のベッドに横たわりながら、シーザは島にいた頃の生活を思っていた。白人であるため島に残った妻のフィーリアは、いまどこで何をしているのだろうか? 二人の息子たちはどうしているだろうか? 泣いたり、ひもじい思いをしたりしていないだろうか? ……そして、シーザは大変なことを思い出してしまった。

「ああ、そうか……ルートはもう、この世にいないんだった……」

難病の息子ルートを救いたい。その一心で、「寿命を延ばす薬」の開発に取り組んでいた。八歳の息子のために、薬学者のシーザにできることはそれしかなかった。やがて、ルートが死ぬと、まだ開発途中段階の「嫌な記憶を消す薬」を一日一回、必ず服薬して息子が死んだことを忘れようとしていた。ネニコの家に来てからは、その薬を飲んではいなかったけれど、ネニコという新しい家族と、あの緑豊かな山の麓という環境が、かつての島での出来事を思い出さないように働いていたらしい。そしてそれらの効果が切れたいま、息子が死んだ悲しみがシーザの胸に、とてつもない痛みを生じさせるのだった。

「多分もう、ルートはもちろん、フィーリアにも、ルイザにも会えない……それじゃあ、死んだのと同じようなもんか。俺には家族がいない。家族は全員、もう会えないから、死んだんだ」

     ☆

「きっといまごろ、家の周りの山の木々も赤く色づき始めているわね」ネニコは微笑んで言った。山には、病室の窓から見えるこの木と同様、秋になると紅葉する種類の樹木が生えていた。

「家の中では、絵筆とキャンバスが、わたしがいなくて寂しいって言っていないかしら」
話し相手の看護師は優しい目をして、「そうですね」と言った。

その頃シーザも、ネニコとは別の病室の窓から、同じ樹木を眺めていた。晩夏の頃に入院したのに、もう季節はすっかり秋に変わった。退院ももうすぐだと言われていた。ネニコさんと一緒に退院したいですと言うと、それができるように主治医に話してみますと看護師は言った。

ネニコは、この病棟で、きちんと医師から処方された正しい薬を飲んで闘病した結果、退院できることになったようだ。二〇二二年の秋、シーザとネニコは二人揃って退院し、あの山に抱かれた麓の一軒家に二人で帰った。


それから何日か経ったある日の就寝前、心地よい夜風に当たりながら、二人は縁側に座って話し込んでいた。

「まあ、本当ですか」

「本当。本当。いままで言わなくてごめんなさい。俺も忘れていたんだ」

「まあ、お子さんを亡くされていたかただったのね……まだお若いのに」

「でもね、ネニコさん。俺は、その長男だけじゃなくて、妻も、次男も死んだもんだと思って生きていくことに決めたんだよ。二度と会えないのだから、死んだのも同然だって。そうしないと、俺は心が、平静を保てない気がして」

「あら……でも、もしかしてあなたのいた島が、また黄色人も住めるように体制がいつか変わるかも知れなくってよ? そうなったら、また島にあるあなたのお家で、あなたはいままで通りの生活を送れるじゃない」

「ううん……ネニコさん。俺は、言い方を変えると、捨てようとしているんだ。まだ生きてるフィーリアとルイザを。たとえ、また俺が島に戻れるようになったとしても、きっと戻らない……家庭を持っていたという過去と、中途半端な薬学者だった過去を、俺は捨てたいんだ」

「あら、どうして……?」

「俺の長男が死んだっていう辛い現実を丸ごと忘れるためさ。家族と一緒に島にいたら、この現実と向き合わなくちゃいけなくなるだろ? それは俺にとって何よりも辛いことなんだ。だからいっそ何もかも捨ててしまうことにした。俺の居場所は、ここにするって決めた」

ネニコは思った。(それでも、いつかは、その悲しみと向き合わなくちゃいけないと思うけれど……)そして、ややあって言った。

「そう、あなたがそうしたいのなら、そうするといいわ。ここにはいつまでもいていいからね。……そして、できれば、今度はわたしの家族の話も聞いてちょうだいな」

ひんやりとした風が吹き抜けていった。


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