【小説】オリキノ
暗闇の無人ホームに、記憶をなくした少女が一人立ちすくんでいた。
ここがどこかも、自分の名前も、家への帰りかたもわからない。ただ一つその手に持っていたのが、グレーのカバーに包まれた一冊のノートだった。厚めでB6ほどのサイズで、表紙をめくると鉛筆かシャーペンかの筆跡で「うたのしょ」とだけ書かれた頁がまず出現する。きっとこれがこのノートの名前なのだろう。ノートの中身は、全体の半分ほどまでびっしりと書かれた様々な歌の歌詞だった。頁の上のほうには作詞作曲者の名前もそれぞれに明記されていた。全て、誰かの手書きのようだった。自分で書いたものなのだろうか。どうにかして、これらの歌を聴くことができたら、なくした記憶は戻るだろうか?
でも、どうやって? 少女は普段音楽を視聴しているYouTubeというものや、自分が音楽を聴ける端末を所持していることも忘れてしまっていた。ただ、ここに作曲者の名前があり、歌詞が書かれているのだから、これらの音楽は実在するのだろう。常に音楽が流れているようなどこかへ行けば、めぐり合えることもあるかもしれない。
そんなことを考えながら、駅のホームの薄明るいライトだけを頼り、ノートをぱらぱらとめくっていると、ある頁に一枚の葉書が挟まっているのを見つけた。そこにはこのように印字されていた。
『獅子田雀子・織作品展』
……とある手織りアーティストの個展の案内状であるようだ。日付と日時が明記され、場所も地図でわかるようになっていた。
少女はそこに書かれていた地名にハッと目を留めた。「泉内旭川駅」——どこかで見たことがあると思っていたら、それは少女の目の前の看板に書かれている名前。さっきから視界に入ってきていた、この駅の名前なのだった。
少女は弾かれるように決心した。聞いたことのない作家なのか、記憶を失う前には知っていた方なのかはわからない。けど、もしかしたらわたしはこの個展に向かっていたのではないか? この展覧会へ行ってみよう。そこで織物作家のこの人と出会って、何か話をしてみよう。記憶を取り戻すすべが見つかるかもしれない、と。
やがて一夜明けた。たどり着いたそのギャラリーの外観は一軒家のようだった。朝の六時頃に、青い玄関扉の横のインターホンを押した。建物の中から出てきたのは、背が高くひょろっとしていて、短いぼさぼさの髪をした、男性のような女性だった。
その女性を見て少女は、しまった、早く着きすぎたと悟った。この人はきっと寝起きたばかりだ。少女は自分がどう振る舞えばよいかわからなくて、戸惑ってしまった。
「あ……あのっ。獅子田さん……の展覧会にお邪魔したくて……」
「ああ……いらっしゃいませ」
その作家は自分の展示室に彼女を通し、室内の中央のテーブルについて、お茶とお菓子を出してくれた。
勧められるままに椅子にかけ、少女は、
「ごめんなさい、早すぎましたよね。ここに、十時からって書いてあったのに」
「ああ……いいのいいの。お客さんが来てくれることがありがたいから」
少女はあたりを見回して言った。「とても素敵な作品展だと思います。近くで見てもいいですか」
「ぜひどうぞ」
少女は一点一点を近くでよく見て回った。大きいものは長さが一メートルにもなる。とても緻密で綺麗な作品ばかりだった。見ていると、心が弾んで、魂とか、内なる何かが高揚する。
「とても素敵です。みんなが欲しがるんじゃないですか」作家のほうを振り向いて少女は尋ねた。六十点ほどの布作品に囲まれたその真っ白な展示室で作家は、寂しそうにかぶりを振った。
「誰にも認めてもらったことはないよ。誰に習ったわけでもなく全部独学だったし、そんなわたしを知っている人もあまりいないから。しかも歩いて来たからわかるだろうけど、ここ、どこにでもあるようなありふれた住宅街でしょう。駐車場もないし、わたしの住んでいる住宅の一部だからギャラリーだとわかりづらいし、通りかかった人がフラッと寄ってくれることもない」
作家は複雑な心持ちで苦笑いを作った。
「あなたが手に持っているその葉書に書いている通り、わたしが織物作家の獅子田雀子(ししだ・すずめこ)だよ」
「わたしたちは初対面なんですね?」
少女が尋ねた。
「え? そうだろう? 何を言っているの?」
「実はわたし、記憶喪失なんです。昨日の夜、駅のホームにいた時以前の記憶がなくて、その時のわたしの持ち物は、うたのしょ一冊だけでした」
獅子田は「ん?」という顔をした。
「あ、うたのしょって、これです。覚えていないけれど、多分わたしが書いたんだと思います。歌詞や作詞作曲者の名前がたくさん書かれたノートなんです。あなたの個展の案内状は、このうたのしょに、挟まっていました」
獅子田は、少女の言ったことを理解すると驚きの表情を浮かべた。
「そうなのか! 記憶喪失ってマジであるんだね。名前もわからないの? 親は?」
「わかりません。わたし、もしかしたらあなたの個展を見に行くところで記憶をなくしたのかなって思うんです。泉内旭川駅にいたから……泉内旭川駅って、葉書の地図を見ると、このギャラリーの最寄駅でしょう? そうでなくてもあなたの案内状がわたしの道しるべでした。ここにくれば、何かわかるかと……」
獅子田「うたのしょか……見せてくれる?」
少女「はい」
獅子田は、そのノートをめくりながら時折「うん……うん……」と頷いていた。
そして獅子田は、展示室の奥からラップトップを持ち出してきて、テーブルでひらいた。そして、書かれている歌を検索し、YouTubeで流した。
少女「これ……!」
獅子田「聴いたことある? 前にね、記憶を呼び起こすのに音楽が有効だってテレビで見たんだ。これを聴いていたら何か思い出せそう?」
少女「……いいえ……」
獅子田「他の曲もやってみよう」
試行錯誤した。どれも聞き覚えがあったり好きな曲だったりしたが、どの曲も記憶を思い出すのに効果はなかった。
獅子田「じゃあ、とりあえず交番だな」
少女「えっ、交番?」
たったいま少女は一つ思い出した。昔、自分には兄がいて、兄は万引きをして警察に捕まった。優しい兄がそんなことをするはずがないと、少女は最後まで信じていた。それなのに、警察は兄を自分から引き離してしまった。それ以来、警察には恐ろしいというイメージがつきまとっていた。
少女がどういうわけか心配しているのを察したのだろう、獅子田は「大丈夫、わたしが小学生だった頃から馴染みの警官が近くの交番にいてね、優しい人だから」と言って少女をなだめた。
だんだんと日も高くなり、二人は住宅街の一角にある交番へ歩いて行った。少女はうたのしょを持って。
獅子田「清輝さーん」
警官「お! 秋留じゃないか」
少女(アキル……?)
獅子田「獅子田って呼べっつーの」
警官「悪い悪い。獅子田、どうかした?」
清輝、と呼ばれた大柄な男の警官は、獅子田が連れている少女に目を留めた。
獅子田「この子なんだけどね、記憶がないんだって。夜のホームで急に記憶なくして、帰り方もわからなくて、ひとまず持ってた葉書の地図に従って歩いてきて、わたしのギャラリーに来たらしいよ」
警官「それは大変だったな! 夜通し歩いていたのかい? すぐに身元を調べよう。秋留は、もう帰る?」
獅子田「いや、手伝うよ。あの頃のようにな」
三人は机を囲んで座り、少女を中心とした三者面談のような空気になった。
獅子田「そういえば制服を着ているよね。この制服って……見覚えがあるけど、どこの学校だったかな」
清輝「そうだ。最近別の交番に、隣町の高校からとある生徒の捜索願を出されていたらしい。居なくなったのが四日前で、それ以来連絡とれずの女子生徒……名前は、田宮夏月というみたいだ」
少女はガタッと前のめりに立ち上がった。その拍子に椅子が後ろへ倒れた。
「それ! それです、わたしの名前!」
その後、展覧会があるからと獅子田は帰り、ここには清輝と夏月だけになった。清輝は捜索願が出されていた交番と学校と両親に連絡した後、夏月に向き直って話しかけた。
清輝「覚えているところだけでいいよ。よかったら教えて。どうして家出なんてしたの?」
夏月は自分の名前がわかると、一気に他のことも全て思い出していた。
夏月「学校が……全てが嫌になったんです。家にいても、ストレスしか溜まらないんです。それで、わたしにとっての天国に……他の何もかも投げ出して、憧れの獅子田雀子さんの展覧会に逃げ込もうと」
清輝「獅子田のことは知っていたのか」
夏月「はい。ファンなんです」
織物に興味のあった夏月は、ある日のネットサーフィンで、獅子田のブログにたどり着いた。以来、獅子田雀子のファンだ。
清輝「あいつね、ずっとこの町にいるんだよ。実はさっき言いかけたんだけど、十歳の頃から、あいつは警察官になることを夢見て、ある日の学校帰りかな、この交番に直々にやってきて『警察官の仕事の手伝いをさせてください!』ってね。……小学生に警察の仕事の手伝いをさせるなんて、普通はそんなことしないだろう? でもね、うちの交番ではそれを受け入れた。あいつが本当に本気で、必死だったから。でもその後、高校から大学に上がった後かな、いろいろなことがあって、あいつは将来の向かっていく方向を変えた。八重山秋留だったのが、今じゃ獅子田雀子なんて、名前も変えて、もうこの町で一番誇れるアーティストだよ。収入はなかなか厳しいらしくて、パートタイマーの仕事もしているそうだがな」
一番誇れる。その言葉に夏月は違和感を覚えた。
夏月「獅子田さんは、誰にも認められていないって言っていました」
清輝「それはあいつがそう思っているだけさ。ここいらの連中はみんな知っている。それに、何より、夏月さん。あなたというファンがあいつにはいるじゃないか。獅子田のことはどうやって知ったの?」
夏月「その……ネットで……」
何台か、車の走る音が通り過ぎた。
夏月「清輝さん、わたし、警察は怖いと思っていました。だけど、わたしの尊敬する獅子田さんが、憧れた職業だったのですね……」
清輝「警察が怖い? なんで……?」
夏月「お兄ちゃんを、連れて行っちゃったから……」
車の走る音が近づき、やがて止まった。ばん、と扉が開く音も聞こえ、その後、この交番に女性が駆け込んできた。
女性「娘が見つかったって、本当ですか!」
夏月「お母さん……」