【小説】シーザの旅路
元薬学者の男シーザは故郷の島を追われて本土の田舎町にある老女ネニコの家を終の住処に決めたわけではあるが、そのネニコの家にネニコも、シーザも居なかった期間が一年あまりある。
それはシーザがネニコの家に来て五年目の春。ネニコは六十八歳、シーザは三十三歳になっていた。
「ねえ……シーザさん。わたし、あなたを描くのもう何回目かしら? あなたはモチーフとしてとても美しいんだけど、なんか最近、もう少し何か刺激がほしいの。わたし、何か心躍る別のモチーフを探しに一人で旅に出るわ。」
それは唐突な話だった。夕方の食卓でのことだった。
「だからあなたも……この家で留守番なんてしないでちょうだい。何かを探しに冒険しましょう。人生の内で一番若いのは今なんだから。何かやりたいことはないのかしら?」
向かいに座るシーザは特に驚いた様子を見せなかった。最近のネニコがどこかうずうずしていたのはその考えのせいだったのかと腑に落ちていた。彼はその言葉を受け止め、咀嚼していたねぎ味噌炒めを飲み込むと、少しだけ考えてからこう言った。
「実は俺……前々から会いたいと思っていた奴がいるんだ。幼なじみで……でもそいつ、ここから遠い、国の中心部の城下町に住んでいるんだ。LINEは繋がっているから、時々やりとりはしてたんだけど、それだったらこの機会に会いたいな……」
「いいわね! 城下町だったら新幹線を使えば行けるじゃない。ぜひ行ってらっしゃいよ。わたしもすぐにはこの家に戻らないつもりだから。わたしは北の大地へ、あなたは南の都市部へ行くの。お互い、いい旅にしましょうね。そして、絶対に帰ってくるのよ」
☆
この国の幼い王子の名前は、アルスといった。キャサリンはアルス王子の世話係として城に勤務しているため、城下町に住処をこしらえて都会の中で生活していた。
ある休日、キャサリンは車で駅へ行って幼なじみのシーザを迎えた。旅疲れた様子のシーザは、島を出る前から使用していた、古ぼけたキャリーケースを引きずっていた。
シーザは車の運転とは無縁だった。だから、キャサリンの運転する乗用車の助手席で、彼は大層驚いた様子だった。
「キャサリン、車運転できるんだ!?」
「できるし、得意だよ? 免許とってから何年も経つのだし」
「へええ。性別だけじゃなく、色々なことが昔とは変わってしまったんだなあ……」
「シーザだって、変わったじゃない。最初見た時、わからなかったよ。何、その髪型?」
「ああ、色々あって入院した時に、ばっさり切られたんだよ。母さんに、あなたの髪は美しいから伸ばしたらって言われて肩まで伸ばしていた髪を。なんか、入院中にロン毛だと清潔を保てないからって言われて。それ以来このままこの長さにしてる」
「代わりにボクの髪が伸びたね!」
車は城下町のとある集合住宅の駐車場に止まった。
二人は集合住宅の外階段から二階に上がり、通路を歩いてひと部屋過ぎたところの赤紫色の扉を前にした。
「さあ、入ろう。ここがボクの家……」
「お邪魔します……」
玄関は芳香剤の匂いがする。キャサリンはパチッと、電気をつけた。
玄関からまっすぐ向かうとキッチンつきのダイニングがあり、その手前の左と奥の右にそれぞれ部屋が存在する。右の部屋はキャサリンの居室であるようだ。キャサリンの部屋は、物が少なくて少し広く感じた。
シーザは左の部屋にも案内された。そこは、
「この部屋、自由に使っていいよ。実は一人で暮らすには余るなあと思っていた部屋なんだ。」
シーザの部屋となる部屋だった。キャサリンがパチッと電気をつけると、そこに見えたのは、何の家具も置かれていない、がらんとした四畳半ほどの広さの洋室だった。
シーザとキャサリンはこの狭い部屋に、近くのホームセンターで急遽買ってきた棚と衣装ケースと一人用のこたつ、床に敷くラグとそして寝具を運び込んだ。すると部屋は一気に狭くなったが、快適さはぐんと増した。今日から、できれば一年間くらいはここで暮らすのである。短期で勤められる仕事も探すつもりだった。色々変わったとはいえキャサリンとは相変わらずの仲で、彼女はシーザによくしてくれた。楽しく暮らせそうだ。
スマホを持っていないネニコには時々手紙を書いた。が、ネニコも今は旅に出ていて手紙を読むのはいつになるかわからない帰宅後だ。色々不便だなあ、とシーザは思う。「いっそみんなで城下町に住んだらいいのに。キャサリンもネニコも一緒に。そうしたら、買い物や病院にもすぐ行けるし、バスや電車を使って町の中を移動できて、楽しくより便利に暮らせるのに。」そこまで考えたが……「いや、だめだ。ネニコの家はまだローンがあるんだ。あの家を空き家にすることはできない」このことについてよく考えると、結局同じこの答えに帰結するのであった。
初めてキャサリンの家に泊まる日の夕飯時。二人は電灯の灯る明るいダイニングテーブルに向かい合ってついた。
キャサリンは改まった態度で言った。
「島のことは災難だったね……ボクももう故郷に帰れないんだね」
「ああ……そのことか。もう五年も前だなんて、信じられないな」
「でもシーザのほうが辛いよね。同じような時期に息子さんを亡くしているんだもの……」
「ああ、辛かったな……」
テレビの中では色々な人たちが楽しそうに笑っていた。キャサリンはテレビを消した。
シーザ「仕事も失ったよ。いま俺が世話になってる田舎は仕事も少なくて、あったとしても会社が家から遠くて、運転ができない俺には無理だし、薬学者としてのキャリアはあっても就職がまずできなくて、ネニコの貯金で生活している。それが少し心苦しいんだ……」
キャサリン「そうだよね、苦しいよね」
その後数分間、振り子時計の揺れる音だけが聞こえていた。
キャサリン「ねえ……ここに住む?」
シーザ「……ちょっとはね、それも考えた。でもだめだった。俺は、ネニコを独りにできない……」
キャサリン「優しいんだね」
この日は、そのまま静かに終わっていった。
☆
城下町での生活は、田舎慣れしたシーザにとっては新鮮で刺激的な毎日だった。ネニコを連れてきたい、と何度も思った。仕事は、一社受けて、なんとすぐ決まった。シーザは城下町の市役所のパートタイム職員として、日中六時間働くようになった。キャサリンは相変わらずの忙しさで、平日は毎日城に通勤。朝は早く、夜は遅くに帰ってくる。週二日の休日は、シーザもキャサリンも「土・日」が休みとなっていた。
キャサリンは、教育って難しいな……と、事あるごとに言っていた。シーザは、自分より難しい仕事をしているキャサリンを尊敬していた。いつも尊敬しながら、談笑をしていた。
そんな日々を重ねて、四ヶ月が経ったある日のことだった。
「ねえ、シーザ、パソコンは持っている?」
不意にキャサリンが聞いた。
「持ってるよ。さっきも部屋のこたつでノートパソコン開いて、ネットサーフィンをしていたところだ」
「それなら」
キャサリンは腕を組んで言った。
「仕事がないし車も運転できないって言っていたけど、パソコンがあるなら在宅の仕事とかできるんじゃないかな? ネニコさんのお家に帰ったら、職場と離れていてもできるそういった仕事を、探してみるのもいいと思うよ」
それは画期的な提案だった。
「そうだ、この町にいるうちに転職先を探そうよ! 城下町なら、より多くの求人を見れると思う」キャサリンは言った。
シーザは市役所で働きながら、仕事上がりにハローワークへも趣き、在宅勤務ができる城下町で募集している求人をたくさん探して回った。相談員の女性はシーザの希望を丁寧に聞いてくれ、いくつかの事業所を紹介してくれた。シーザは薬学者としての経験を活かせるかもしれないと、ある薬局のデータ入力の求人に応募し、面接を受けると、なんとその場で採用が決まった。その頃、キャサリンの家にきてから一年が経とうとしていた。
☆
新しい生活が始まる。シーザは田舎のネニコの家に帰り、ネニコの二階建ての家の中に仕事部屋をひとつ設けて、城下町の薬局の在宅勤務を担うことになるのだ。
「寂しくなるね」
車で駅に送ってくれたキャサリンはシーザに言った。
「あの部屋、あのままにしておくから、またいつでも泊まりにきてよ。ネニコさんによろしくね。自分を大事にしてね、シーザ」
「ありがとう。きっとまた来る。キャサリンもね」
ネニコは二週間前に、色とりどりのたくさんのキャンバスを抱えて北の大地の旅から帰ってきていた。届いていたシーザからの手紙は全て読んだ。城下町のにぎわいに想いを馳せてはため息をついた。
「まるで、いまのわたしは元の一人暮らしね」
そうやって寂しく過ごしていたところに、ある日シーザが帰ってきた。それはシーザが初めてネニコの家の戸を叩いた夜によく似た、春の日の夜のことだった。