少し大人になれたよ、の報告。
有難いことに、年上の女性と仲良くなる機会が私はとても多い。
その関わりの中で、彼女たちを見ていて、一度も老いを悲しいものだと思ったことはない。
しかしここ最近、自分の老いについて考えると、とても寂しい気持ちになる。
老い=悪いことだとは考えていないのに、どうしても今まであった幸せなことが零れ落ちていくようで、可能性がなくなっていくようで切ないような残念な気持ちになってしまう。
むしろ若い頃よりも、やりたかったことや叶わなかったことへの執着が大きくなったように思う。
人は、死や病を恐れるのは何故か、その答えが、「その状況に置かれた時に自分がどうなるかの想像がつかないことに対してはとても恐怖心を感じたりするものだ」という推察が、今とても身に染みて納得ができる。
ただ、最近歳を重ねたことで許せることも増えてきた。
例えば、怒りについて。
今までは怒るということは、一次元的なことであって、その二次元先には、「やってほしかったことや叶わなかったこと、伝わらなかったことへの憤り」を上手く表現出来ない人が怒るものだと、今でもそう認識している。
だから、怒るということはとても未熟なことに思えていた。
それ以上に、自己中の人と思われたくない。
身の程知らずだと傷つけられたくない。
自分の美学に反している。
優しい人間でいたい。
そのように、今までは自分の本音というものを押し殺してきた。
傷つきたくない一心で押さえつけてきたものが、結果的に自傷していたに過ぎない。
―だから、怒ることを許容した。
最近は良い意味で、もう誰も私を止めないで!というか止められないよ!多分ね!というような真新しいコートを羽織っているような、強靭なベールに包まれている気がしている。
これは別に自身の生き方や、母の教えてくれた思いやり至上主義の生き方に反するものでは一切ない。
現在進行形で怒ることも滅多にない。
怒ることを自分の中で許容しているからこそ、やり合おうとしない。
伝えればいいのだ。若しくは、自分の世界からすぐさま削除。
これはもう、強くて温かな自分軸の誕生といっても過言ではない。(まだまだ脆い乳歯みたいなものなので、油断禁物だけれど。)
嫌なことは絶対に嫌だし、無闇矢鱈に嫌なことをされた時にやさしく許容したり傷つく必要は無いのだ。
痛い思いを沢山して、やっっと気づいた28歳。笑
諦めることを許してしまうと、夢も輝きもまるでない残りカスのような大人になってしまう気がしていた。
けれど、少し弛めてみると、何だか軽くなるような気がした。
私は完璧主義な面があるので笑
まだまだ「捨てたくないやい!」というしぶとさは健在しつつも、
「今の着地点はここだよね。」と真っ直ぐ捉えることや、「相手が悪かったよね。タイミングや相性もあるよね。」と整理をすること。
「仕方ないことは仕方ない!笑」と切り替えられることってなんて大人なんだろうと思ったのだ。
総じて、これらを出来る大人達は皆優しくカラリと笑っていた。
この晴れやかな転換力が、諦めることで起こる湿っぽさを感じさせなかったのだ。
むしろ、輝かしささえ憶えた。
私はとりわけ早く大人になりたい!とは思わないが、こうした「あぁなんて自分は幼いのだろう…!」と思えた時や、こうしたメンター的女性に出逢えた時の心の掴まれた時の興奮度合いだったら、日本代表になれる自信がある。笑
鏡に映った自分を「いい顔つきしてるじゃん♪」と肯定できるような生き方を、焦らず、嫋やかに、強く歩みを進めていきたい。
季節は師走。
風邪や、流行り病に気をつけて
お身体ご自愛くださいませ。
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