殺してはいけない。殺されないために
殺してはいけない、とは
旧約聖書の十戒の中の一つ。
それは神の知恵。
人が幸せになるために、してはいけないこと、すべきことを、輝く知恵の中に示す。
では、どうして殺してはいけないのか?
殺すと何が起こるのか?
十戒をよーく見ていくと、
すべての戒めが相互に繋がっているのがわかった。
すべては神を神としないことから始まり、
すべては貪ることから始まる。
神を神としないから、神が愛する人を愛せないし、
神を愛し、信頼できないから、与えられたもの以上を求めて、貪り、盗み、殺す。
そして「殺す」とは、肉体的な死を指すわけではない。
肉体的なことは精神的なことの先にあるのだ。
「もう、終わった、、、」「死んだ、、、」「地獄や、、、」これらはある意味それを表す。
イエスキリストは十戒の奥の意味として、
殺すことは兄弟に馬鹿者と言うこと、と言った。
これは「馬鹿」って言葉をやめさせたいのではなく、人格の否定を殺すことだと教えている。
「あなたは愚か者だ」
「あなたの人生は無駄だ」
「あなたは滅びに向かっている」
そんな風に、神がその人に与えた人生を、否定することを指すのではないか。
キリストはまた、こんな戒めを言う。
新しい戒めではなく、十戒の奥にある戒めであるとおもう。
「裁くな、あなたが裁かれないためである。」
さっきの殺すことの解釈は、裁くこととほぼイコールではないかと思う。
「あなたはダメだ」と裁くこと。それは神がすべてのわざを美しく行われていることの否定だから罪なのではないか。
「境界線(バウンダリー)」という本を読んだ。
「モンテッソーリ教育について」の本を読んだ。
(モンテッソーリ教育についてはここから!)
それはまさに、相手を殺さないための知恵だと思った。
そしてそれは自分を殺さないための知恵なのだ。
誰かを殺すこと、それは自分を殺すことなのだと思う。
例えば、こんな心理学の絵がある。
一つのテッペンの開いた卵がある。
内側から外向きに「〜したい」の矢印
外側から「〜すべき!」の矢印が入ってくる
そのぶつかるところが「コンプレックス」なんだ。
という絵である。
これは、殺された気持ちがコンプレックスになるということではないか。
モンテッソーリ教育は、「〜したい」が出てくるのを見守る方法だと受け取っている。
それはまさに、上の絵のコンプレックスを減らすための教育法なのだ。
「殺すこと」は世界中で巻き起こっている。
それは人を傷つけ、自分を傷つけている。
しかしそれは、癒しの時のための備えであると、神の計画の大きさを信じたい。
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「なぜ殺してはいけない」を深く考えている今日この頃。うまくまとめられたかしら。感動を伝えられたかしら。
気持ちを殺されることに我慢して、もはや麻痺して、忘れていた自分がいた。
殺してはいけない。殺されてはいけない。それは悲しいことだ。
癒されなければいけない。
「殺すこと」と他の「罪」との関わりの深さも、閃いた時には感動だった。十戒は深い。
十戒の相互関係、
感性について(殺されてきた感性)、
といった記事も書きたいなぁ
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