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アダムとエバは、
必ず死ぬと言われた禁断の実を食べた。
そのあと、裸を恥じて隠した。

「偽善」と訳される言葉が、
「to hide」隠すという意味を持つことを知った。
偽の善さ、本当の自分を隠してよく見せること、
それが偽善らしい。

アダムとエバはなぜ隠したのだろう。
それは、
「わからないことが怖く」なったからだと思うのだ。

それまでもわからなかった。
でもそれは怖くなかった。
だから自分を隠す必要がなかった。
正直に見せることができた。
相手も見せてくれた。
だから「知る」ことができた。
「知って」「信じて」「安心する」ことができた。

しかし禁断の実を食べたあと、
人は「賢く」なってしまった。
善悪の知識がついた。
相手が悪である可能性を持った。
そこから「わからないことが怖く」なった。

わからない、
だから相手が怖い、
だから自分を隠したい、
自分の弱み見せるのが怖いから。

失敗は傷になる
傷はトラウマになる
トラウマは弱みになる
弱みは恥になる

恥を隠すために人は支配する。
相手の目を背けるために。

支配するために嘘をつく。
嘘をついているうちに、
自分を見失う。

人の内から出てくる「こうしたい」
それを潰して支配する「こうすべき」
それをイエスは殺人と呼ぶ。のではないか。

小さな殺人は大きな殺人を生み、
殺された人格は固く固くなっていく。
つけられた傷を隠しながら。

どんどん「わからなく」「信じられなく」「不安」になっていく。

愛は恥を覆う。
愛するとは恥を乗り越えること。
愛されなかった分、
寂しかった、悲しかった分、
「不幸」を感じた分、
「神に愛されてない」と感じた分、
人は恥を増す。
この事実を隠し、「幸せ」の膜を張る。

愛は恥を覆う。
愛するとは、恥をかくこと。
恥のところに行くこと。

恥が癒されるのは、
それを見せて受け入れられた時。
かわいそうな僕を、
大好きって言ってくれた時。
それを心から信じられた時。
一緒に恥をかいてくれた時。

癒された恥は、誰かの恥を癒す。
その恥はもう、恥じゃないと知っているから。
その恥がもう、誇りに変わったことを
知っているから。



人の根底にあるもの。
人が逃げ続けているもの。
差別を生むもの。
争いを生むもの。

キリストが一番、
愛を見せてくれたもの。

恥が報われる時、
その恥に意味があると知った時、
恥の鎖は砕け、
恥をかける自由に飛び込んでいける。

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