【映画感想】哀れなるものたち

映画「哀れなるものたち」(監督:ヨルゴス・ランティモス)

前半は、やたら下ネタ多いなぁ、ちょっと前に自我が芽生えてイヤイヤ期を迎えたばかりの幼児の脳を持つベラ(主人公)がこんな感度のいい性欲モンスターか?という首を傾げる印象だった。
若くて美人で無垢で無知、性に奔放ってただの男の理想の女像じゃん…と面白くない気持ちに。

ただ、ストーリーが進み、ダンカンがベラに関わった男たち(マーサもいるから女もか)への嫉妬に狂い破滅していくあたりで、これは意図的な描写なんだなと。自由奔放な女に惹かれておきながら、自由奔放で在り続けることは許せないという皮肉。

後半はベラの台詞に「進歩」の言葉が頻出するようになり、彼女の成長は一人の人間の成長だけでなく、人類の歴史のメタファーなのでは、と思えてきた。
最初は生きるための快・不快の区別しかない。次に外へ出て自由に行動したいという自我の芽生え。そして性欲という種の繁栄のための欲求。言葉で家族以外の他者と交わりコミュニティを形成し、文字で記された本を読み知識を得る。広い世界を見て、自分以外の他者の不幸を嘆き助けたいと願う。世界をもっと良くするにはどうしたらいいか考え、「人道的な目的のため」といって身体と時間を資本家に差し出し、「進歩のため」といって科学・医学で自然界の掟に手を加え始める。

私は最初こそベラが人の形をしているのに人ではないような薄気味悪さを感じていたが、彼女が危篤の父の元へ戻り愛を伝えたとき、マックスに結婚を申し込んだとき、自分を監禁する元夫を引きずって「手術して」と言ったとき、信念を持って自分で行動するようになった彼女がとても頼もしく思えて好きになっていた。

ラストシーンでは、奇妙でありながら皆が集い笑っている幸せそうな家族を形成していて(誰も血が繋がっていないが確かに家族に見えた)、満ち足りた気持ちに。が、“将軍”と呼ばれたモノの姿を見て、え、これで良かったんか…?という寒々しさが残った。
音楽の盛り上がりでいい感じのラストに見えていただけでは…!?

血の繋がらない者たちが集まり、支え合い生きていく家族の形は、多様性・ダイバーシティが叫ばれる今の時代に即していて実に理想的で現代的。(男女が子をもうけ血縁で繋がった旧来の家族とは違った新しい形。)
だが一方で、「進歩」と称して生・死・性の自然の形に手を加えることはどこまでが許され、どこからが許されないのか?とも問いかけられているような気がした。
(この生・死・性に対する素朴な疑問の問いかけ方/理想と行き過ぎのせめぎ合い/ディストピア的にも見えるハッピーエンド、村田沙耶香さんの小説「地球星人」「殺人出産」を読んだ時の感覚に似てるかも?)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?