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眩暈 VERTIGOを鑑賞して

 鑑賞するきっかけは、2022年の河童忌(個人的には、澄江堂忌のほうがしっくりとするが、この記事では河童忌と記載する)にて、展示された詩や映
像を観た記憶からだった。

 撮影する技法に、惹かれた。 


 くどくど理由を書くのはくどい気がするので

 簡単に言えば、面白そうだと感じたから鑑賞することにした。

 魂は、いつまでも行方知らず。
 精神は、その街と、人と人との間を漂う。

 錦糸町駅から住吉駅まで歩いた時に、浮かんだ言葉だ。

 錦糸町から、徒歩で芥川龍之介氏の由縁を歩く。僕は、先を歩く御二方の後ろをついてゆく。この御二方とは、SNSの芥川龍之介氏関連が縁でお会いした。SNSとは、便利だなと、思う。その反面で、狂気を帯びているとも、思った。良くも悪くも、便利すぎる。それが個人的な所感であり。しかし、それに対しての改善案は、全くと言っていいほど思い浮かばなかった。

 錦糸町駅にて最初に煙草休憩をした。喫煙所は、減少しつつある。そんな話をしながら石燈籠の場所まで歩く。その間の会話は忘れてしまった。会話に加わることなく空想に耽っていたこともあるが、何気ないことしか話さなかったからかもしれない。眠気がピークになるあたり、石燈籠のある法性寺にたどり着き。それから、大川の水の文学石碑を拝見した。時代が変わり、それでも流れ続ける川。川の音と街の音が複雑に混ざっている。川といえば、水。水の都。小説の作品、ヴェネツィアの少女が微笑んだ、あの作品。三尺ばかりの光の円、月を連想して。来る前に観た文学仲間であり実況者の文藻ケノヒさんのONLY UPの実況動画で「月」について話したばかりだった。
 月にはいろいろな思いがある。例えば、その時に話したことで言えば、夏目漱石が翻訳したと言う『I Love youを月が綺麗だとしなさい』と言う俗説のことについてだった。他は世界の料理についてくっちゃべっていて楽しかった(声でなく、チャット)
 話を戻すが「愛している」という感情は、最期まで言葉としては、きっと表現し得ない感情があるのかもしれない。それが、微笑にあらわれると思う。

 劇場内で、しばらく席でもったりとしていたが、自分は鑑賞ぎりぎりで御手洗に行った、空気がひりついていてなんとなく嫌だったらだ。即座に戻り。席に沈み込むと、やがて、その壁にもたれたり、頬杖をつきつつ、その心臓のような爆音といくつものフィルターの重なったような不思議な視点を鑑賞した。

 印象に残ったのは、ジョナス・メカス氏の息子であるセバスチャン氏の沈黙だった。

 あの表情に、僕は見覚えがある気がした。

 亡き者について、抱えるように思い出を語ろうとする目をしている時の表情に、とても似ていた。
 自分が知る限り、魂の揺らぎのすべてを語ることは不可能に限りなく近いことだと思う。
 それでも、書く。書くことに取り憑かれていることを自覚して書く。

 鑑賞中のすすり泣く聲、くしゃみ、うん、うんという頷く聲。スクリーンからすれば向こう側。
 僕らの座った席から音とスクリーンからの音が混ざり合う。これは、ただの映画ではない。

 弔いだ。祈りだ。
 そして、、、と、書きかけて止した。

 向こうから、映像にのせられる音の向こう側。

 そう、遠くから、なにか聞こえた気がするけれど電車の音でかき消された。その瞬間、何故だか、すこしだけ悔しいと思った。

 その悔しさは、惜別だったのかもしれない。

 セバスチャン氏の沈黙に戻るが、沈黙のなかにも音がある。いや、聲になる前の調律なのかもしれない。楽器の調律についてすこし調べたことがある。
 惹かれていたからだ。

 調律の整った楽器からは、調和のある音楽がうまれる。人間の言葉も、そうなのかもしれない。いや、不明瞭。すべてを理解したわけじゃない。故にか、見えないところで、人と人とが織りなす時間が複雑に螺旋状に絡み合っている気がした。

 もうすこし、時間が欲しいと感じた。2022年の7月9日の午前8時。

 まだ、勉強不足を感じた。
 少し足りないので追記をした。

2022年7月9日(日曜日)
追記:2022年8月6日(日曜日)
辻島 治

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