見出し画像

豊かなる学びの地平へ

*『外国語のすゝめ』(2017年度版、九州大学大学院言語文化研究院)に寄稿した、新入生に向けたエッセイ。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1787931/tsujino_1787931.pdf

=======

 これから新たなることばを学ぼうとしているきみへ。
 まず、ことばはなかなか通じないものだ。母語でも非母語でも、ことばは絶望的に通じない。情理を尽くして語っても悲しくなるほど通じない。音は簡単に意味になってくれない。意味は常に振幅する。ことばにすることで、個々の特殊性が一般化され、陳腐化し、ディテールが殺ぎ落とされていく。言語と事態は必ず乖離する。〈環世界〉に生きるぼくらは、ことばが分かれば人と疎通できるなんて思ってはいけない。それが母語でない言語であればなおさらだ。言語学習は「ことばは通じない」という諦念から出発しよう。
 ことばをコミュニケーションの道具へと貶めてはいけない。言語に道具的側面もあることは否認し得ないが、それがあたかも全部であるかのような言説は警戒しよう。他者の言語を学ぶことは畢竟、自分自身に帰還する営みだ。母語とは異なる世界の分節の仕方を内面化し、新たな自分になるための行為であって、ただ単に他者とコミュニケーションを図るためではない。ことばを学ぶ者はいつも可塑的な存在で、なんとか語を学んだきみはもうなんとか語を学ぶ前のきみではないのだ。そういう意味で、ことばを学ぶというのは再帰的な営為であって、本来的に内向きの行為だ。「コミュ力」が高く、外国に出たがる外向き志向が称賛されるのが世の趨勢だが、単に外向きなだけでは、他者の言語を学ぶ真なる愉悦は享受できない。この点、拳拳服膺しよう。
 いま、他者の言語といった。でも、少し思考を巡らせてみると、生まれたときは母語だって誰も話せなかった。母語も含め、ことばはすべて、他者から学んだものという意味で、圧倒的に他者性を帯びた存在だ。母語がもともと自分の所有物だったような錯覚に陥っているきみ、母語に対してちょっとだけ謙抑的になろう。きみが母語に愛着を感じるのは、単なる偶然を、関係性の蓄積によって、必然と読み替えているだけであって、もしかすると、きみのことばは別のことばだったかもしれない。世界中のありとあらゆる言語はきみのことばになりうる可能性があった。母語以外の言語はすべてきみの〈潜在的母語〉だ。そういう想像力をもって、学習言語と向き合おう。母語と学習言語を同一水面上に布置して舫い、そのあわいを揺蕩いながら、双方を同時に「他者の言語」として学ぶ。そうすることで、きみの母語と学習言語は螺旋的に鍛え上げられていくだろう。
 「外国語」ということばは慎重に使おう。例えば、韓国語=朝鮮語は在日コリアンの人たちにとって外国語だろうか。「外国語としての韓国語教育」などと言った瞬間に在日コリアンは言語学習の場から巧まずして排斥される。あるいは、書店や図書館で、アイヌ語や琉球語の教科書が外国語のコーナーに並んでいるのをよく見かけるが、アイヌ語や琉球語は外国語だろうか。それから、一見自明のような「日本語」という概念だって、本当は再考の俎上に載せねばならない。日本語には様々な方言があるし、個人差もいろいろある。どう考えても日本語は決して均質な存在ではないのに、「日本語」と一括りにしてしまうとき、その日本語とは、一体誰の日本語を指しているのだろう。それに、「外国語」とか「日本語」とか言うが、ことばってそもそも国のものなのだろうか。このように、当たり前に使っていることばひとつひとつに対して敏感に反応することも、実はことばを学ぶということだ。
 「正しいなになに語」という物言いにも安易に肯ってはいけない。ことばに「正しい」とか「正しくない」とかいったことは、本来的にはない。ことばの正しさはその実、恣意的なものだ。言語学習において規範は大事だが、規範が羈絆になってはいけない。言語事実を注視し、時には方言や古語、流行語等も視野に入れつつ、楽しく明るく鷹揚に学ぼう。言語の襞に深く入りこみ、ありのままのことばをまるごと受け容れる悦び――ラカン風に言えば〈他者の享楽〉――を味わいたい。
 なになに語の響きが美しいから、なになに語を学びたいというきみ。実際に学び始めると、ちょっとがっかりするかもしれない。なぜなら、言語学習とは、音が後景化し、意味に繋縛されていくプロセスのことだから。逆に言えば、言語音を純粋に音楽のごとく楽しめるうちは、まだそのことばがきみのものになっていないということだ。何かを得れば何かを失うじゃないけど、言語学習は必ずしもいいことばかりじゃない。知ることによって失われる世界もある。
 ことばを学ぶことは、新たなる知の世界へと分け入ることでもある。せっかくことばを学ぶのなら、その言語圏の知への正の走性――走光性ならぬ〈走知性〉――を涵養しよう。分野を問わず、知的なものには即座に飛びつき、追尾しよう。まだフラットなきみの知の平野が少しずつ粒立っていくだろう。韋編三たび絶つまで書物を耽読し、神韻縹渺たる文学の世界にどっぷりと浸ろう。そうすることで、きみのことばは厚みがいよいよ増していく。本もろくに読まない言語学習など、ちょっとありえない。少なくとも大学においては。
 メリットだのコスパだの効率だの、陋劣なことを言ってはいけない。あさましさは学びの敵だ。愛と想像力を連れて、言語を正面から見据え、人間を考えよう。希わくは、功利性を超えた、真の豊かなる学びで、きみの心がいつも幸せに満ち溢れんことを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?