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学びの愉悦を共にしたい

*九州大学には2012年4月に大学院言語文化研究院の専任教員として着任したが、2017年からは同大学大学院地球社会統合学府の兼任教員となり、そのときに自己紹介も兼ねて書いたエッセイ。『CROSSOVER』42に掲載されている。ちなみに、2019年からは同大学韓国研究センターの複担教員も務めることとなり、3つの所属を掛け持ちしている。(写真は九州大学伊都キャンパス)

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正子を少し過ぎた,ノクターナルな私の静謐な時間。何冊かの本と微かに聞こえるボサノヴァ。眼前には,意味になったりならなかったりする日本語と韓国語が交叉し,耳朶には意味にならないポルトガル語が明滅する。      

暗号にしか見えないハングルをどうしても「解読」したくて小学生のころ韓国語を独学で学び始めた。シャンポリオンになりたかった。所謂「韓流」が起きるずっと前のことだ。ことばや外国に興味があり,長ずるにつれて,その気持ちは弥増していった。数学者や医師になりたいと夢見た時期もあったが,言語学の産土として,また,哲学思想の言語としての興味もあって,大学ではフランス語を専攻し,他にもいくつかの言語を学んだ。しかし,韓国語の麗質に再び心を領され,大学院からは本格的に韓国語学の道へと進んだ。多士済々の教授陣の講筵に列し,学問的な基礎を固めた。その後,韓国の大学に専任講師として採用される僥倖に恵まれ,日本語や言語学を韓国語で講じる経験も積んだ。ソウルで生活しながら,プラクティカルな韓国語の膂力も徹底的に鍛え上げた。

九州大学には2012年4月に着任し,言語文化研究院の専任教員として,主に韓国語教育に携わってきた。言語をコミュニケーションの単なる道具へと矮小化する,所謂〈言語道具観〉を峻拒し,ことばそれ自体を目的とする言語教育を実践している。英語ができないことが言語全般に対する苦手意識へと心理的に汎化しないよう意を用いつつ,母語と非母語の間を倘佯することの法悦を受講生たちと日々共にしてきた。

研究面では,韓国語音韻論を一応の専門領域として標榜している。しかし,ひとつのことに執心し追尾するタイプではない。この点では研究者らしくないのかもしれない。顧瞻してみると,学生のころから常に複数の事柄,それも互いに無関の領域に同時に関心を抱いてきたように思う。あるテーマについての論文を書きながらも,それについてひねもす考えるということはあまりなく,全く別の分野の本を平行して読むという生活を続けてきた。大学の教員になったのも,特定の学問を極めたいというよりは,学ぶということ自体が好きで,漠然と好きな勉強を続けたいという気持ちのほうが遥かに大きかった。正直に表白すると,文章を書くのは好きだが,学術論文を書くのはいつも億劫で,執筆の段階で既に当該テーマへの関心が稀薄になってしまっていることも少なくない。一頻り研究に淫し,自分なりの解が仄見えてくると,興味は瞬時に湮没し,関心の対象は目眩くばかりに余所へと移り飛んでいく。いつまでも冥冥として分からないのもある種の悲劇だが,真には分かっていないにもかかわらず分かった気になるというのも懼れるべきことで,分からないという自覚がさらなる学びへの呼び水になるということを日次反省と共に実感している。ボサノヴァのあまやかな旋律を倦まず聴いていられるのも,きっと私がポルトガル語を解せないからで,ポルトガル語が完き意味となった瞬間に憧憬は霧消し,爽涼なボサノヴァは暗澹としたエレジーへと化してしまうだろう。

とまれ,私自身がこのように定処なき学究生活を送っているので,私の研究室には,狭小な関心に頓着せず,選らず何でも学ぼうという気概ある学生に来てもらいたいと考えている。学位論文のテーマに関連したものにしか興味を示さないなどというのは問題外だ。専攻という拘縮した枠に内閉せず,目先の評価や研究業績など歯牙にもかけず,役に立たないことを幅広く泥臭く吸収し考える。こうした,学ぶこと自体に深い悦びを見出せる学生たちと私は知情を共にしたい。学びは内発性に拠ってはじめて豊かな営為となる。学びは功利性や有用性を超えた彼岸に位置付けられねばならない。もし自らの研究を衒いや栄利聞達に結び付けることしかできないのであれば,それはどうしようもなく陋劣なことだ。学ぶことは圧倒的に愉しい。面白そうだという,あえかでも好奇心の萌芽を察知したら,それを大切に育ててほしい。反対に,もしつまらないと感じたら,その判断は一旦留保したほうがよい。学びの愉悦を享受するための感性が鈍麻しているせいか,あるいは,面白いと感じられるだけの知識がまだきみのなかに蓄積されていないせいかもしれないから。学びは著効を示さない。知層の肥厚には時間が必要だ。この意味で,学びのベクトルは常に過去にも向かっていて,つまらないという,今の刹那的な感情は,学びを継続することによって,いつか書き換えられるかもしれない。そして,こうした感情の反転それ自体がまた別の意味での学びの愉悦になりうる。

これから,あさましさとは無縁の,真に志高き学生たちと,日々知的な議論を上下(しょうか)できるとすれば,私はとても幸せだ。

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