嫌いな方の祖父の話

 ひとから又聞きしたひとの話って、大体は極端で醜悪だ。

 母方の祖父が今年の一月、正月過ぎに亡くなった。何歳生きたかも知らないし、亡くなったのが正月過ぎの何日だったか、ほんのこの前、母に教えてもらったのに今はもう覚えていない。物凄く薄情な孫だと思う。私は遠方に住んでいるからと理由をつけて、葬式にも出なかった。私にとって祖父は、真冬、私の知らないところで、いつのまにかぽやっと死んだことになっている。

 中学生くらいまでは、毎夏、祖父母の家に帰っていた。煙草をばかばか吹かしながらテレビの前に一日中寝っ転がってニタニタ笑う祖父のことを、なんとなく小さい頃からずうっと嫌いだった気はするのだけど、決定的に嫌いになったのは母から幼少期の話をされるようになってからだと思う。

 祖父の生まれは地主の長男で、小さい頃から甘やかしに甘やかされて育ち、父親同士が友人だったことから祖母と結婚した。生来のものだったのか、「お坊ちゃん」として育てられたことで形成された気質なのかは知る由もないが、祖父は結婚してからも相当の浪費家で、折角持っていた土地を売って売って金にして、家族を顧みず方々遊びまわっていたという。祖父の放蕩ぶりを補うには土地を売っぱらっただけでは足りなくて、家に借金取りが押しかけ、私の母は彼らをやり過ごすために布団をかぶって泣いていたというから、私からしたら、もうなんか映画の中の話みたいだ。

 母の幼少期は「そういう」思い出で塗りつぶされているらしく、他の兄弟を差し置いて、母から祖父への当たりはものすごく強かった。私は母からそういう嫌悪感をモロに継承していて、私の抱いている祖父像にバイアスが掛かっていることはなんとなく理解しつつも、やっぱり祖父のことが大嫌いである。祖父の外見的な記憶への嫌悪感と、母からの伝聞が恐ろしくマッチしているのもあると思う。こんなに「嫌い」と言い切って罪悪感の湧かない人間も珍しい。

 そんな「大嫌い」な祖父は、二年前、介護施設に入った。祖母はそれよりもう一年前に亡くなっていて、祖父だけが田舎の一軒家、要らない置き土産みたいに生き残り続けていて、そこから施設に移ったのだった。母は兄弟の中で一番祖父のことが嫌いだったのに、兄弟の中で誰よりも頻繁に祖父の元に通って世話を焼くことになっていて、これもなんだか因果だなあと思う。私はそういう母がほんとうに可哀想で、でもやっぱり薄情なのでたった一度だけ、母を手伝うつもりで施設に行った。

 祖父は施設でも自分勝手をして職員さんたちに迷惑をかけているらしく、人として全然ブレないので寧ろ感心してしまったのを覚えている。死ぬまで問題児だ。字義通り。母と一緒に祖父の部屋に行って、私はそれが数年ぶりの祖父との再会だったから、びっくりした。私の中でテレビの前に横たわった化け猫のまま時を止めていた祖父は、ガリガリに痩せていて、完全に知らない人だった。祖父も数年ぶりに会った私のことをわからなかった。なんか、この時から嫌な予感はしていた。

 祖父はもう自分では歩けなくて、移動は誰かに抱き上げてもらって車椅子に乗らなきゃダメで、溢れる声は息ばかりだ。そんな「これから死ぬ人」感満載の祖父のことを、数年ぶりの私と違って毎月か隔週くらいで見ていた母は、やっぱり当たりが強くて、ちょっとやり方を間違えばうっかり殺しそうな剣幕だった。殺意、塩ひとつまみ分くらい(いや、もっとかな……)はあったと思う。そんな母のことを見て、こっちもブレないなと私は少し引いてしまった。そう、引いちゃったのだ。私は母から聞かされた祖父のクソ野郎伝説を、じっくりことこと憎悪として胸の中で煮詰めており、完全に母の味方のはずだった。それなのに。そこまですることないんじゃない……? と、私はこの時点で祖父の弱々しさに懐柔されかけていた。ちなみにこの記事、とても不謹慎ですが、読んだ方に笑ってほしいなと思いながら書いています。今更ですがご案内差し上げておきますね。

 母が施設の方とお金の話をしに行って、私と祖父が部屋の中でふたりきりになったとき、私のことを「知らないお姉さん」だと思っている祖父は、私に向かって「あれ(私の母)は、いつも突飛なことをして俺を驚かせるんだ」とヘラヘラ笑って言った。「俺を驚かせるんだ」と何度も繰り返して、でも笑う。母は祖父のことをあんなにも嫌っていて、あんなにもあからさまにそれを示しているのに、祖父は母を恨むこともなく、「変なやつだ」と冗談めかして笑っているのだ。私は相槌をうちながら祖父が話すのを聞いていたけれど、祖父はその後すぐに眠気が来てしまい、ベッドに横になって目を閉じた。やがて身じろぎして、「寒い」と言う。年の暮れだった。祖父の「寒い」は、独り言なんだけど、独り言ではなくて、実際は横に立っている私に向かって「布団をかけてくれ」と言っているのだった。私はそれがすぐにわかって、私は腰あたりまで下がっていた布団を首元まで引き上げてやった。ああ、この瞬間だ。決定的だったのは。

 私に布団をかけられた祖父は、口元を満足そうにもごもごさせながら、子どもみたいに微笑んだのだ。その表情が、もう、完璧だった。私はその顔つきに対応しきれなくて、なんだこいつ、と思ったし、その瞬間、胸の中につかえていたわだかまりみたいなのが、あんなに丹念に積み上げてきた嫌悪の城塞が、あっけなくがらんと崩れ落ちたように思えて、なんだかぼんやりしてしまった。確信を持って言えるけれど、祖父はずっと「この表情」で生き抜いてきたのだ。どんなに憎まれることをやっても、どれだけ他人に迷惑をかけても、このひとはこの顔に免じて人生のあれやこれやを許されてきたのだ。そう納得がいってしまって、今となってはものすごく悔しい。その時の私も、祖父のことをあれこれ恨んだり憎んだりしていたのが、馬鹿らしいなと思ってしまったから。祖父の顔に匂っていたのは、そう思わせる類の微笑だった。

「ひとに布団をかけてもらうことが好きなのよ」と、施設からの帰り道、母に言われた。「大好きなんだって」と言う。間違いないなと思った。あれは世辞も社交辞令も知らない人間だ。祖父はその日から、私にとってなんだかよくわからないひとになってしまった。祖父はその約一年後、真冬に亡くなった。その時のことは、冒頭に書いた通り。

 亡くなってから約一年経った今現在、私から祖父への嫌悪は元気に復活している。やっぱり最悪の人間で、最高に幸せな人間だったんだろうな、と家族間でやたらと話題に上るので、サンドバッグとして活用されているのに違いはないんだけど、「よく思い出される死人」としての地位は、亡くなった先祖の中でもダントツ一位である。強烈に跡を濁して清々しく旅立っていったから、もうなんならその生き様が羨ましい。

 私も人間なのでいずれは死ぬんだけど、天国に行っても地獄に行っても、祖父には絶対会うような気がしている。会いたくないと思うほどに、絶対に、にたにたあの嫌な笑顔を浮かべて私に手を振ってくるのだと強く思う。でもそうしたら、地獄編になるのか天国編になるのか知らないけれど、しばらく一緒に歩いて話をして、今度こそ心から自分の目で見た祖父のことを嫌いになりたい。母の目から見た伝説のクソ野郎としての祖父像も私は面白くって結構好きなのだけど、実際話して血の池なんかを見ながら一緒にお酒でも飲んだら、もっと生々しく嫌いになれると思う。というか、嫌いになりたい。もしかしたら好きになってしまうかも、という恐れもちょっぴりあるから、尚更心から嫌いになりたくてたまらない。あの微笑なんかで彼の勝手な人生を許してしまいたくない、と闘志もみなぎってくる。

 まあ、天国とか地獄があればって話なんですけどね。