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事の終わり、朝に帰る──『ドライブ・マイ・カー』雑記と感想

 濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』(2021年)は、家福(西島秀俊)という妻に先立たれて間もない壮年の劇作家が、ある若い女性ドライバー・みさき(三浦透子)との出会いと交流を通して、ふたたび舞台に立つまでの時間を描いた映画である。ヘミングウェイの短編集に由来して『女のいない男たち』と題された村上春樹の短編集に収められた同名の原作小説は、ごく短い短編作品であった。実写化をするにあたって濱口は、同短編集から、『シェエラザード』『木野』というふたつの短編と、作中で言及されたチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』を取り入れ、大胆に翻案している。
 特筆すべきは、青年団、チェルフィッチュ、地点といった、日本の現代演劇の第一線に位置する劇団の協力のもとに示される、およそ娯楽映画には不向きとされるストイックな演劇観であろう。作中のワークショップのような稽古の場面では、いわゆる「本読み」を役者たちが何度も繰り返し、余分な情感などが削がれてくることで際立ってくるテキストの潜在的な可能性が模索されているのだが、これらは作中のやり取りや会話へも関わってくる。

 本項では映画『ドライブ・マイ・カー』における「演劇的営為」とはどのようなものであるかを検討してゆく。「演劇的営為」とは、一般的な意味での「演技」「演劇」に加えて、本作で示される様々な「演劇的な」所産や身振りを含めた広い意味での「演技」を指す言葉である。それらは、劇中劇や稽古の場面だけではなく、広く作品世界での「日常」にも現れている。そこで、ここではまず今作を大まかに、家福の視点で進行する「日常パート」と、稽古の場面を主とした「演劇パート」に分けてみたい。その上で、第一節では、日常パートにおいて「事後の生」を「生き抜く術」として様々な演劇的営為が現れていることを確認する。続く第二節では、演劇パートが、「本読み」を通して「役と役者の境目がない演技」を立ち上げていることを確認する。第三節では、相補的に現れている二つの実践的な「演劇的営為」を踏まえ、今作が「喪」のコミュニケーションに代表される、「観念的な他者との結びつき」を示していることを確認する。
 なお、本項では特に表記がない場合は『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹の短編ではなく映画版を指すものとする。


1. 事後の生

 映画研究者である三浦哲哉は「『ドライブ・マイ・カー』の奇跡的なドライブ感について」の中で、「悪役の不在」と「終わった後の態度」の関係について指摘している。三浦によれば、娯楽映画に現れる明確な悪役を欠いた今作において「悪」とされるのは、自分の近くで衰弱してゆく存在を見殺しにしてゆくことであるという。ここでは、妻と子、二度の喪失を経た家福の、なお続いてゆく、生の問題が扱われている。ゆえに今作は、家福というひとりの男の再生をめぐる物語として完結しているわけではないのである。
 『ドライブ・マイ・カー』には、様々な喪失を抱えた人々が登場する。先の三浦の言葉を借りれば、「人生の流れが唐突に断ち切られた」人々。妻の浮気に気付きながら、決定的な会話の機会を持たぬまま先立たれてしまった家福、彼と共に娘の死を経験している妻の音、音への未練を抱えたままの高槻、自らの母を土砂災害の際に見殺しにしたと語るみさき、子供の流産を経験したレジデンス先のナビゲーター夫妻……。彼らは三者三様に、断ち切られた「人生の流れ」を、各々の現実へと結び直さなければならない。

 さて映画で示される喪失の経験のその後=「事後」との向き合い方でまず着目したいのは、流産を経験したナビゲーターの妻・ユナである。彼女は家福の演劇に、手話を通して参加する。彼女はもともとダンサーであったが、流産によって活動を休止、復帰したくても体が動かなくなってしまった。しかし、今回のオーディションの話が回ってきたとき、チェーホフの劇が体の中に入ってきて演じたいと思ったという。この場面は以下のように考えることはできないだろうか。子供の喪失によってそれまでの身体言語が別のかたちへと再編された、あるいは『ワーニャ伯父さん』というテキストが、立ち行かなくなったユナの再編を促した、と。
 また別の場面をみてみよう。ラストの北海道での場面で、みさきは、自らの母が虐待をする毒婦であったことを告げる。しかしそんな母は、いつからか娘であるみさきと接する際に、サチという子供の人格となって語りかけることがあったという。ここでもまた、みさきの母が、母子の絆が立ち行かなくなった際に、それらを繋ぎ止めるために身体的な再編に見舞われていると考えられる。みさきは、そのような母の振る舞いについて、以下のように語る。

母が本当に精神の病だったのか、私を繋ぎ止めておくために演じていたのかはわかりません。仮に演じていたとしても、それは心の底からのものでした。サチになることは、母にとって地獄みたいな現実を生き抜く術でした。

 トラウマ的な出来事ののちに、快癒の方向づけをもって、ユナの場合は直接的な「演技」、サチの場合は別人格すなわち「私ではない誰かとしての身振り」が立ち上がっている。つまりユナとサチのエピソードから、今作では広い意味での「演技」というものが、それまでの現実が立ち行かなくなる事態ののち=「事後」に、新たに現実との絆を結び直すために現れていることがわかる。これらを踏まえてまた別の場面をみてみよう。

 『ドライブ・マイ・カー』という映画は、セックスを終えたのちに家福へと向けて妻である音が不思議な「物語」を語る場面から幕を開ける。原作小説に収録された『シェラザード』をもとにしたこの場面は、映画が進むと、音が子供を亡くしたころからこういった出来事が起こるようになったと説明される。すなわち、ここでの音は、子供の喪失という「事後」において、出産と不可分であるセックスののち、「事後」に、物語のかたちで現実との結び目を作っていたのである。事後に語った物語を音が覚えておらず、家福に書き起こしてもらう必要があることなどからも、夫婦関係が音の作話を通して紡がれていることがうかがえる。さらに言えば、本映画自体が、このような「事後」になされる語りによって幕開けていることは実に象徴的である。
 さて、『シェエラザード』を下敷きにした音の「ヤツメウナギの少女」の物語を、作中で最後に語るのは、音でも家福でもない、音の不倫相手であった高槻である。何度も現れる車内の光景の中でも特に印象深いこの場面では、家福が高槻の声を通して音の物語、妻がどうしようもない現実を生き抜いていた日々の続きを聞くという、かなりショッキングな場面でもある。しかし注目したいのは、ここで高槻が口にする少々残虐なオチは、『シェエラザード』の原作には存在しない展開であることだ。家福が一度否定してみせたことも含め、この場面の高槻の語る内容は、彼による作り話、あるいは即興の演技であったと解釈する幅が残されている。そもそもこの映画が徹底してテキストを媒介にした声の複数性を示している以上、この語りは、音の声であったとしても、高槻にとっての音なき世界との紐帯を結ぶための作話であったともいえるだろう。

 ドゥルーズ研究者の小倉拓也は「老いにおける仮構:ドゥルーズと老いの哲学」の中で興味深い指摘をしている。小倉によれば、認知症やボケといった症例は、記憶の連続性が不確かになり、主体が自己の離散という危機に抗している事態であるという。すなわち、記憶がばらばらになってもなお、自己が崩壊する寸前のところで、現実との絆を繋ぎ止めるために、目の前にある記憶を楔としてそれにしがみついているのがボケである、と。老いとは、かような主体の危機にあって、その都度、自己を現実に繋ぎ止めるために主体を仮構築してゆく営為であるのだ。『ドライブ・マイ・カー』に立ち返ってみれば、当然「老い」と彼らの状況は異なる。けれど、各登場人物たちが現実との絆を失いつつある際に、再びそれを結び直すために「演技」が現れていることの深刻さの度合いとしては同様であると思われる。喪失した現実との絆の快癒という、ある種のリハビリテーション、すなわち、「事後」を「生き抜く術」として彼らの営為は示されている。それは主体の危機にあって、物語るようにして、自らの仮構築に取り組むことではないだろうか。冒頭で述べた「事後の演劇的営為」とは、このような、喪失ののちに現実との絆を結び直すために現れる作話や演技を指している。では、これを作中でさらに敷衍させて考えてみよう。

 取り上げたいのは、高槻の逮捕によって公演が危うくなった際に、家福がみさきのおすすめの場所を頼んで行き着いた広島のごみ処理施設、中工場での場面である。工場の中には、ガラス張りの吹き抜けになっている場所がある。その場所によって、平和都市の軸線を遮らずに海へと抜けるようにして浄化させているという。この「軸線」とは何だろうか。広島では戦後まもなく、原爆の爆心地付近を記念公園として整備することになった。コンペの結果選ばれた丹下健三のプランでは、復興都市計画の要であった平和大通りと直交するかたちで、原爆ドーム・原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館を南北に結ぶ「軸線」が示された。中工場は、この軸線の延長線にある場所を吹き抜けにしたのである。重要であるのは、中工場はモニュメントとして直接に原爆のカタストロフや爆心地であることを記念しているわけではない事だ。そうではなく、丹下の構想した平和都市、きわめて事後的な慰霊として紡がれた都市の物語を、「軸線」という作話の語りを引き継いでいる。さらに言えば、この建物が軸線を阻害しないことで、むしろ不可視の都市のラインを引き延ばしているとも言えるだろう。このように、今作では個々人だけでなく風景の中にも「事後の演劇的営為」が存在している。

 また、『ドライブ・マイ・カー』に存在する劇中劇にも「事後」の生といったテーマを読み取ることができる。今作で劇作家の家福は二つの戯曲を上演する。一方はアントン・チェーホフ『ワーニャ伯父さん』であり、他方はサミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』である。
 前者『ワーニャ伯父さん』においては、家福が「救いのない話だ」と語るとおり、長年家を守ってきたワーニャが、家長を務める姉の旦那と訣別する様が描かれている。ワーニャは自ら愛した女性と望んだ関係に至ることもできず、一家は離れ離れになる。別れを終えた最後の場面では、姉の残した子供であるソーニャが、いつか「ほっと息がつけるんだわ」と伯父であるワーニャに語りかけて幕が降りる。今作では、真面目に生きた者が、報われることのない自らの生をそれでも続けてゆかねばならないことが示される。ワーニャもまた、事後の生と直面してゆくことになるのである。
 もうひとつの劇中劇、『ゴドーを待ちながら』は、「どうにもならん」という「演劇の死」の宣言とともに幕を開ける。ゴドーが「God」のもじりであり、作中でも何度か聖書の場面が引用されることからも、そこには不条理と言われるだけの神への不信といったテーマもあるだろう。筋はごくシンプルなものであり、二人の浮浪者は待ち合わせの約束をしたゴドーをただ待つが、結局のところゴドーが訪れずに終わる。最後の場面では、翌日にまたゴドーを待ち、来なければ自殺するかを考えようといった提案がなされ、曖昧な決断をもって円環的に閉じられる。しかしながら、唯一の舞台美術である一本の木(初演ではジャコメッティが制作した)を中心に自然的な変化が劇の各所で言及され、その無限ループのような円環的構造を否定するかのごとく、作中では「時間の進み」が明確に配置されている。これは、ベケットが『ゴドーを待ちながら』に続く『勝負の終わり』において自然的描写を一切排除してしまっていることと比較すれば、重要な点である。『ゴドーを待ちながら』もまた、事後である。待ち人は来ない。望んだ結末が訪れることはないけれど時間だけは過ぎてゆくという「どうにもならない」ことの、その後が示唆されて劇は締めくくられる。
 このように、『ドライブ・マイ・カー』が劇中劇として採用した二つの戯曲にも「事後の生」というテーマが存在していることがうかがえる。


2. 役と役者の境界線

 前節では、『ドライブ・マイ・カー』では何らかの喪失を経験した人々から、「事後」の生に取り組むにあたって「演劇的営為」が現れていることを確認した。そこで、ここからは、かような「演劇的営為」がより具体的に示されている演劇パート──稽古場での実践やいくつかの上演場面を確認してゆく。

 家福は自らの公演に向けて役者たちにテキストの読み合わせ、「本読み」を延々と繰り返すことを指示する。家福自体が移動の車内で妻の声を録音したカセットテープを用いて台詞の暗唱を続けることからも、彼がテキストを反復して口にすることに何らかの劇作の確信をもっていることがうかがえる。また、出演する役者たちは、ジェスチャーも含めて一様に異なる言語を用いている。そのため、テキストの意味はそれぞれのかたちで翻訳されながら伝達され、テキストの「物語」としての了解よりも、テキストを翻訳する訳者自身の身体や、役者同士のやり取りそのものが前景化する。上演時には、舞台の背景に映像が投射され、複数の言語によって劇中の台詞がリアルタイムで示される。ゆえに、舞台上の劇の進行を文字として理解することも可能となる。
 つまり、今作における手法としての「演技」は、①繰り返し読まれる対象である単なる文字としての「テキスト」、②本来翻訳を必要とされる多言語間のコミュニケーションによって逆照射される、単なる発話形式として現れる個々人の「言語」、③意味内容が透明化された結果立ち上がる、コミュニケーションの際に伝達を可能としている「身体」、これら三つに解体されて示されていると考えられる。では改めて、このようにテキスト・言語・身体という三つの要素に解体された劇中の「演技」とはどのようなものだろうか。そこで以下では、まず今作における「本読み」にみられる上記の特徴を、劇中劇をはじめとした他の演劇作品との比較によって検討する。そのうえで、今作の「演技」を「役と役者の境目がなくなる」ものであることを示す。順にみてゆく。

 まず、こういった映像の使用と身体性へとフォーカスしたマルチリンガルな上演プランは、取材協力としてクレジットされている、岡田利規の主催する劇団「チェルフィッチュ」の演劇を元にしたものだろう。「超口語演劇」と呼ばれる岡田の手法では、平田オリザ以降のナチュラルを求めた演技を踏まえながら、日常的な若者言葉と、会話中の無意識的な身体のノイジーな動きが積極的に採用される。過剰化されながらも、あくまで自分たちの日常と同じ地平に存在する舞台上の出来事や発話。これにより、観客は旧来的な劇世界への没入ではなく、各々のリアリティによる内なる応答を引き出される/求められることとなる。ともあれ、『ドライブ・マイ・カー』で参照されたチェルフィッチュの上演プランでは、①映像として投影される即物的なテキスト、②意味内容をクリアに伝達するわけではないリアルな若者言葉、③その発話に付随するノイジーな身体のデフォルメ、以上の三つが大きな特徴として挙げられる。これは、映画の中での上演・稽古時の、テキスト・言語・身体という三者関係とも対応するものだろう。

 また、劇中劇として採用されたチェーホフとベケットの戯曲にも、同様の言語と身体の問題が存在する。

 1890年、チェーホフはロシア帝国の流刑地であったサハリンを調査を兼ねた旅行として訪れている。そこで目にした人々の受苦的な生の様態にチェーホフは大きな衝撃を受ける。人間と家畜の区別もないようなサハリンでの壮絶な現実によって、「あらゆるものを意味づける神=中心の喪失」を確認したチェーホフは、自らの戯曲から「主人公」を排することになる。『ワーニャ伯父さん』の翌年に執筆された『三人姉妹』では、その「一者の視点による世界の意味づけ」の喪失を示すかのように、最後の場面で「もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。……それがわかったら、それがわかったらね!」という台詞が現れる。このような中心の喪失によって、チェーホフの戯曲は群像劇として成立されることになる。そこでなされる各々の世界に閉じこもった人々の会話は、双方向的で有機的なやり取りではない。登場人物たちは好き勝手に相手に向かって自分の都合や思念を語っており、強く感情へと訴えかけてくるラストの場面も、思えば、会話・対話としては言葉だけでは不十分にすら感じられる。すなわちディスコミュニケーションであるのだ。
 しかし、チェーホフは言語への疑念や限界を、中心なき群像劇での会話によって示す一方で、身体への可能性を示唆的に見出してもいる。同じく『三人姉妹』では、告白に対する「沈黙」や、「トラム・タム・タム、トラ・タ・タ」といった、口にしている人物たち以外には意味のない愛のささやきによって、何か深い交流がなされる場面が存在する。すなわち、『ワーニャ伯父さん』を含むサハリン以後の晩年のチェーホフの戯曲では、言語的な意味内容のやり取りが失敗する一方で、非言語的な身振りや発話によって他者への伝達が試みられているのである。

 ベケットもまた、『ゴドーを待ちながら』において、あらゆるものが矛盾し、何事も確かではない世界を描く。登場人物たちの会話はそもそも掛け合いとしてまったく成立しておらず、言葉に現れる出来事が劇中世界に反映されているかも怪しい。劇中には何ひとつ信頼のおける情報はなく、ただ、「ゴドーが現れない」という不在の事実のみが確かなものとして存在している。言語への疑念はチェーホフ以上に徹底的に示されている。また、近代的な台詞劇として約束事や「役」への追従を求められて拘束され、抑圧された身体も否定されている。すれ違いしか存在しないために会話による劇の進行が困難であることにより、劇の比重のほとんどは役者たちの身振りに置かれている。ベケットは「演出家はほとんど振付家になる」とも述べているという。

 チェーホフとベケットはこのようにして、演劇というフォーマットに何らかの限界を見てとり、その上で、言語による会話のディスコミュニケーションと、役者の身体性に注目したという点で共通している。両者の戯曲には「物語」が円満に収束するような明快なエンディングは用意されていない。何もかもが未解決のまま、ただ生が持続するのみである。
 以上、『ドライブ・マイ・カー』において、家福の上演プランが、チェルフィッチュの手法、劇中劇として採用された『ワーニャ伯父さん』『ゴドーを待ちながら』と問題意識を共有するものであることを確認した。続いて、上演を裏打ちしている「本読み」について、改めてみてゆく。

 先述のとおり、『ワーニャ伯父さん』の稽古での徹底した本読みの反復では、戯曲という名の「テキスト」が繰り返し声に出されてゆくことで、テキストはその意味内容を漂白され、むしろそれらが伝達される際の身体や声、身振りのニュアンスというものが前景化されているといえよう。
 より詳細にみれば、何度も同じ台詞を抑揚のないトーンで繰り返し声に出し続ける役者たちからは、役の情感もなければ、役者自身の手癖や個性というものもほとんど感じられない。ただ読むことによって、テキストの文章が表面的な意味内容(役の情感)を失い、テキストが、ある声とある身体によって発せられている事実のみが画面を通して伝えられる。しかし、それらはただ漂白されて音の響きが残っているのではなく、前景化された役者の身体と協働することで、テキスト自身が「何か」を伝達しようとしていたという潜在的なベクトルのようなものを浮かび上げている。ここにおいては、もはや役者と役の境界線などはほぼ感じられない。ある台詞が、役か、役者か、誰によるものであるかは問題となっていないのである。

 今作では「演技」が様々な位相で現れるため、稽古場でのこのような「演技」の特徴は、前節での様々な「事後の演劇的営為」に当てはめて考えることが可能である。先述のとおり、『ドライブ・マイ・カー』では、なんらかの喪失を経験した人々が、現実との関係を新たに取り持つ際に作話や演技、別人格(自分ではない誰かの身振り)が現れた。これが、本項で「事後の演劇的営為」と呼ぶものであった。同時に、演技と生の不可分な様態でもある。みさきが、母子の関係を維持するために母に現れた別人格・サチのことを「生き抜く術」であったと語るとき、母とサチは乖離した二人の人物がひとつの身体に同居しているのではない。二人の境目は存在していないように聞こえる。ここにおいて、「語ることによって別の自分をつくる」ことと「別の自分となって語ること」は、互いに先行するかのようにして現れている。すなわち、稽古場の外で繰り広げられる様々な「事後の演劇的営為」もまた、「本読み」と同じく、役者と役の境界線が取り払われた「演技」と捉えることができるのである。


3. 喪

 本項では『ドライブ・マイ・カー』について、一節では日常パートで示される「事後の演劇的営為」を確認し、二節では演劇パートで示される「役と役者の境界線がない演技」について確認した。両者は立脚する空間が異なるだけで、本質的には同様の「生と演技の不可分な様態」が実践的に示されている。前者は具体的な現れであり、後者はその内実である。さて、これらを踏まえたうえで最後に、今作のラスト、家福とみさきが北海道の土砂崩れのあった土地で罪を告白しあう場面について確認する。私は、ここでなされているやり取りを、「喪」のコミュニケーションへと至るものであったと考える。

 では、そのようなコミュニケーションとはなんであろうか。一般的に「会話」とは、小説の鉤括弧に収められた台詞の応酬のような、明示的な意味内容を伝達し合うものとしてまずは想定されるだろう。しかし、この映画の稽古や上演の場面で示される、ジェスチャーも含めた拡張された多言語によるやりとりでは、彼らは意味内容以前の「伝えたいと思う何か」を伝え合っているように見える。すなわち、会話というものに、非言語的な領域が少なからず存在するというわけだ。テキストであれ、ジェスチャーであれ、意味内容自体が伝達されなくとも、意味として固定される以前の「ただの発話」や「単なる身振り」を通して、他者との深い交流は可能である──すなわち、今作で示される(非言語的な)コミュニケーションとは、「観念的な他者との結びつき」であると考えられはしないだろうか。

 であれば、それは死者との関係も含まれるだろう。なぜなら、「死者」とはまさしく物理的な「死体」を欠いた、死を通過した他者の観念的な有り様であり、「観念的な他者との結びつき」の最たる対象であるからだ。我々が墓参りをするとき、亡き人へと想いを馳せて空を見上げるとき、その宛先には誰かがいる。他者との観念的な結びつきが試みられている。そして「喪」とは、死者との観念的な結びつきを構築しながら、同時に、死と生に断絶された物理的現実での生活を再編する行為と時間に他ならない。過去を位置付けることで、それに立脚して現実へと進むためのしぐさである。喪失という「事」を受け止め、それによって「事後」の時間がはじまるのであり、さらに言えば、喪という行為が「事後」と「事」の両方を自らの時間的な連続性の中に再配置する行為でもある。しかし、家福は物理的かつ精神的な妻の喪失という「事」への決着を持たぬまま「事後」を迎えたために、自らの身振りを喪失していたのである。ワーニャを演じられないというのもそのためであろう。

 高槻の逮捕によって、ワーニャを演じることを迫られた家福は、みさきに頼んで彼女の生家のあった土地へと向かう。そして、みさきが母を見殺しにしたという罪を告白したとき、家福は妻に手をさしのべることもなく、死後も平然としていた自分自身について、「僕は、正しく傷つくべきだった」とはじめて口にする。自らが喪失を抱えている事実へと向き合うのである。この場面の元になっている原作『木野』では以下のように語られる。

おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ〔…〕。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。

 「正しく傷つくべきだった」とは、自ら纏ったヴェールを取り払い、真実や現実を見るといった、安易な「強い主体」による一貫性や継続性を目指すものではない。そうではなく、他者との対話や時間などを通してその哀しみや贖罪の念を吐露することを必要とする程度には、「弱い主体」であることを認めることであった。これは同時に、自らが妻を見殺しにしたという「悪」に目を向け、その責任を認めることでもある。
 『ドライブ・マイ・カー』の小説では、家福が、車の運転に限って男性と女性を区別して意識しまうことを、ややネガティブな意味合いで説明する場面からはじまる。しかし、それもまた、変化しうるのである。映画では徹底して、事後に現実との絆を結び直すための営為が示されていた。しかし、少なくとも家福は、「事後」という事態を認めきっていなかったのである。彼は事後においても、それ以前と同じように振る舞える、同じように振る舞わねばならないと思い込んでいる。しかし彼はそのような一貫性をもった「強い主体」ではなく、むしろ、事によって傷つき、現実の生を営むために自己の再編を必要とするような「弱い主体」として描かれている。
 映画の序盤から、どこか妻の音をめぐる一連の出来事を他人事のように語る家福は、自らの見舞われる不幸に対して素朴な被害者意識を持っていたように見える。しかしそれは、他者や出来事に対して、家福が「前と同じ位置」のままふれあえると信じ込んでいるようにも見える。しかし、あらゆる出来事を客体として取り扱う、揺るぎのない「強い主体」であることは今作では否定されている。他でもない、家福自身が何かを演じた後のことについて語る際の言葉によって。

いやでも元に戻る。でも戻ってきたときは、前とは少しだけ立ち位置が違っている。それがルールなんだ。完全に前と同じということはありえない

 以上のとおり、今作は家福という男が「喪」を通して「事後」へと至る物語である。それは、現実との絆がほどかれた「弱い主体」であることを認めることでもあった。彼は現実との関係を結び直すために、なんらかの他者との協働を通して、新たな言語や身振りの獲得へと向かうのである。


4. まとめ

 映画『ドライブ・マイ・カー』について、本項ではまず、家福がさまざまな人々と交流する「日常パート」と、稽古や舞台公演を含めた「演劇パート」、大きく二つのパートに分けた。「日常パート」では、喪失を経験した人々に、自らの生を新たにはじめるにあたって作話や演技といった「演劇的営為」が現れることが示された。「演劇パート」では、劇中劇で示されるメソッドがテキスト・言語・身体へと「演技」を解体するものであり、その上演を裏打ちする「本読み」の反復では「役と役者の境界線がない演技」が立ち上げられることが確認された。前者と後者は、ともに演技と生の様態が不可分となった事態として共通する。また、このような演技の実践は、コミュニケーションにおける「伝えたいと思う何か」が言葉の意味を離れて伝達される「観念的な他者との結びつき」を示すものでもあった。「喪」という行為はその最たる現れであり、今作の物語としては、家福が「喪」によって「事後」へと至るさまが描かれた。

 さて、最後に今作での「車」について言及しておく。家福の所有する赤いサーブ900は、音の死の前後をまたいで存在し、画面内で家福という男の昔からの変わることのないこだわりを示している。また、車中で再生されるカセットテープに吹き込まれた音の声は、ある時点での「過去」を何度も反復しており、家福は、目の前のみさきではなく、彼の「過去」へと向かって抑揚のない応答を続けている。すなわち、車は、家福という男の生が孤独に継続していることを物理的に示すものとしてまずは現れているのである。
 一方ドライバーであるみさきにとっては、母の喪失という事後の生において、彼女が同乗者、他者という現実へと口数少ないままに介入するための手段である。彼女が自らの現実を再構築するための言語として「車」は示されている。

 作中、車内での時間を対照的に共にする二人は、家福が座席を移動することによって特殊な「親密圏」として最後には現れる。「車内」は、二人が関わりを持つための場であり、常に他者との親密圏をめぐる問いを静かに投げかけていた。今作では様々な「演技」が示されたが、思えば、それを第一とする「演劇」という表現は、テキスト内の役、テキストを書いた人物、演ずるべき役、目の前の他者……そういった、そもそもがテキストや身体を媒介にして複数性と向き合わざるを得ない表現である。すなわち、今作において「演劇」とは、なんであれ他者と協働する場が開かれてゆくことを示しているとは言えないか。より広く、複数の語りにならざるを得ない、常に対話が内包される、テキストによって協働することを主とした表現。「車内」は、そのような他者との協働の最もささやかな現れであった。
 しかし今作は、日常を異化するかのような車内での空間と同時に、ただ車が走行している場面も律儀に何度も何度も現れる。小説において、「冷蔵庫を開ける」描写によってある場面がはじまったとき、同時に「冷蔵庫を閉める」描写は場面を次へと進めるために基本的には不可欠である。今作の車がレジデンス施設と稽古場を行き来する場面は、そのような、単に移動をし、場面が変わることを担保するものであろう。
 今作の「車」は、家福という男の内面を象徴するかのような車内での出来事を支えながら、同時にただの車として、役割に沿って、目的地という名の場面への移動を映画の中で示し続けていた。すなわち、今作における赤いサーブ900は、車内において他者との協働の場を開くものであると同時に、それを担保する、ただの走行し移動するメディアであることを示していたのである。「車」は、象徴的存在として、単なるイメージの存在へと堕することが回避されているのである。

 加えて私は、作中で車が広島から北海道へ向けて北上してゆくとき、東北という土地を意識せずにはいられなかった。今作には、3.11を明確に扱う場面は存在しない。大なり小なり、個別なカタストロフのなかを皆が生きている。それは一方で、センセーショナルなイメージの中で肥大化していった「震災」という出来事によって霞んでしまった様々な事象を再び、映像によって取り戻す役割もあったのではないかと思える。北海道の土砂崩れの跡地には、決して大袈裟なことは起きていない。ただ、災禍のうえへと時間が降り積もった痕跡を残すばかりである。
 家福とみさきは、この事後的な土地のうえで、自らの語りをはじめるのである。二人が出会う前に決着しているべきであろうことが、二人の共犯的な親密圏によって駆動する。そうして、「俺たちは大丈夫だ」と語った家福は、ワーニャの舞台に立ち、ユナ演じるソーニャに「ほっと息がつけるんだわ」と語りかけられるのである。ドライブは終わらない、なお、続くのである。画面の外へと。彼らは、それぞれの事後の生を紡ぐ。そうして朝に、帰ってゆくのである。

 なお、今作での「喪」と「テキスト」の関係を考えるにあたって、瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうた』と、草野なつか『王国(あるいはその家について)』が非常に参考になった。

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