奪われた光景──『スパイの妻』雑記と感想

 舞台は1940年、太平洋戦争前夜の神戸。貿易商を営む福原優作(高橋一生)を夫に持つ福原聡子(蒼井優)は安穏として裕福な暮らしを送っていた。しかし、幼馴染で憲兵となった津森泰治(東出昌大)の「忠告」をきっかけに、聡子は、優作が満州で関東軍が行なっている非人道的行為(731部隊)をアメリカにリークしようとしていることを知る……。

 聡子が優作の甥を密告したあたりから、物語は大きく方向づけされる。コスモポリタンとして正義をなそうとする優作と、ただ夫の一番の理解者でありたいと願う聡子。彼との関係のみを求める聡子と、優作は異なる。二人のコントラストはそのまま、めまぐるしく変動している「世界」と聡子の決定的なズレとしても画面に現れている。映画の終盤、「私は何も狂っていません。だからこそ、私は狂っているのでしょうね」と語る聡子の姿は世俗的な欲望を危機下においても普通に抱き続けるという点で異質である。しかし、思えば濱口龍介の描く醜俗的な女性像は、やはり一貫している。『寝ても覚めても』をはじめとした今までの作品においても、濱口は常に非正規雇用の女性ばかりを主人公にしてきたが、今作の聡子の隔世的なあり方はそれらと共通していると言えよう。

 難しいのは、今作においてファムファタールを演じながらも自らその宿命を突き返される聡子を、より普遍的な「女性像」としてどのように捉えるべきか、であろう。彼女は、まさしくジャンル映画としてのスパイものの男たちが演じてきた主人公のごとく、手のひらを何度も返してみせる(※ゲームライターの福山幸司によれば、スパイ映画というのは、二重スパイ、三重スパイとつきつめて、どんどんとメタ化していって、最終的には「自分とは何か」みたいな領域に突入してしまう)。聡子にとっては優作という男はスパイであることによって辿っても辿ってもその内実にたどり着けない存在わけだが、今作をスクリーンでみている観客は少なからず聡子に対しても同様の感覚を抱く場面が何度かある。誰が誰であるかがかき消えてゆく。聡子もまた空虚であるのは、彼女の欲望そのものは世俗的であるからだ。社会から断ち切られてはいても、彼女は極めて社会的な欲望=他人の欲望をそのままその身に受ける。見方を変えれば、夫の財力によって洋装などの自由を持っていることによるものとも考えられる。また、冒頭の銃後モダン浪漫的な世界観から、一転して夫の活動に身を投じてゆく姿は、『戦争は女の顔をしていない』のような暗部を照らす役割もあるのかもしれない。一貫して個人的な出来事を自律的に脱構築してゆくかのような、ファムファタールを裏切るあり方は『ゴーン・ガール』ぽさもあった。ともあれ、通俗的な欲望の鋳型に収まりながら、その欲望を持続させることによってむしろ特異さを際立たせてゆく聡子については考える余地がまだありそう。悪の凡庸さの話でもあるかもしれない。

 さて、そのほかに今作について印象深いこととしては、服装や街並み、小物などの細部に至るまで当時のものを高いクオリティで再現していることが挙げられるだろう。長岡亮介の音楽も素晴らしかった。本作のラストが神戸の大空襲であったため、否が応にもそれを経験していた私の祖母の記憶について想起せずにはいられなかった。それは本作とは全く無関係に一定のテンションと臨場感を自分にもたらしていたと思う。

 現代においてこの映画をどのように受け止めるべきか?NHKの企画で撮影されたこともあり、どこか教条的な内容でもあるわけだが、しかし、ここに描かれたさまざまに隠蔽され、ヴェールに包まれた日本や世界の姿は、不思議と現代の世相とぴたりと一致する。作中の少なからぬ人々にとって聡子は狂人であり理解し難い部分も多いのかもしれない。しかし、真に不気味なものであるのは、憲兵に象徴される、無言でじっと尋問という名の劇を見つめる、監視する群衆のような男たちの姿だった。その名もない憲兵たちの表象は、常に映画をみている観客たちの似姿たりえた。映画内映画という点では、エピグラフの役割を果たしていた白黒映画は、煙や光などの捉え方が美しく、当時風の不条理ノワールであった。そのライティングは各所で今作のタッチに介入していたようにも思える。しかし一方で、件の映画内映画は731部隊の現地の証拠の映像と重ねられてゆく。観客である我々が何を観ているのか、加えてその倫理的態度を強烈に問うてくる。思えば、聡子と優作の決定的なすれ違いの原因は、「それを見ているか、見ていないのか」であった。先の、身振りによって虚実を流転させる聡子の有り様も含め、今作では映画の内側に観客が否応なく巻き込まれる作りを抱えながら、同時に、「映画」という視覚メディアそのもののアレゴリーとしても機能している。

※銃後の市井の人々と他国での戦争、両者の距離の内に潜む倫理的な問題については、まずは鶴見俊輔『号外の記憶』を思い出す。鶴見は、太平洋戦争の開戦を告げるとともに迫り来る戦線の様子を伝令したいくつもの「号外」と、阿Q正伝における群衆のまなざしを、ニュースの送受信の構図と重ねてかたった。またともに、金子光晴『絶望の精神史』も想起させられる。満州事変の直後、パリからの帰国途中にアジア各国の港で日本帝国への抗議活動を目にした金子は、当の日本での何事もなく続く日常の光景とのギャップに驚く。「そのときの僕の気持は、まだ楽観的なものであった。大正の良心は、当局が過激な左翼革命論者を手きびしく弾圧する政策を、手ばなしで賛同しているわけではあるまい。……僕は、このしずかさを、ほかならぬ民衆が、予測できない軍それ自身の動きに鳴りをひそめてひっそりしている姿を、『嵐の前のしずかさ』とはちがった、批判や衆議の精神から見守っているものと考えていた。しかし、そういう僕の考えは甘いものであった。大正の思想、文化の自由は、紐つきだった。知識人たちは、知識としては、どんなことでも知っていたかわりに、その知識の解釈のしかたで、どんなふうに逆用することも知っていた。そういうことは、日本人のお家芸ではないか」。

 パンフレットについて。公開当時にnoteにて公開された岩田昌征による「パンフレットに感じる言論の不自由」に指摘の通り、内容自体は簡素である。金原由佳の論考は「神戸」と「映画史」を軸にして語られており、時代背景や地政についての解像度を上げてくれる。興味深いのは、同様に阪神間を舞台にした谷崎潤一郎『細雪』の女性たちと聡子が好対照をなしているといった指摘である。黒沢監督のインタビューでは、蒼井優と高橋一生の演技に対する賛辞が丁寧に語られている。濱口から脚本としてもらった内容について「夫婦の愛情が周囲の影響でどんどん錯綜していき、やがて駆け引きや騙し合いにまで発展してゆく」「1940年代の日本映画を根拠にした科白回しに挑戦」といった説明も興味深かった。黒沢自身は自分で撮った映画として「聡子と優作にとって、以前はごく普通であったことがだんだんと普通ではなくなり、ついにこの狂気の外側へと脱出するのか、それとも内に留まってこれに耐えるかの選択を迫られる」といった説明を結びでしている。

 文學界11月号の、蓮實重彦・黒沢清・濱口竜介の鼎談。冒頭、神戸は起伏のある土地だがなぜ坂が映っていないのかといった指摘をきっかけとした黒沢とのやりとりには、文春のインタビュー記事「蓮實重彦門下の監督たちが活躍する‟コワい理由”」にあるような、映画をフィルムの「運動」として捉えて画面に現れるものののみをつぶさに追う、いわゆる蓮實のフォルマリズム的批評眼が遺憾無く感じられる。靴音や、鳥の声、吊り革の揺れについての指摘も同様である。また、同じく神戸の作家である大岡昇平のスパイメロドラマ『酸素』が脚本に影響したのではないかといった濱口の話も興味深い。鼎談の最後では、映画のラストシーンの物語の流れや映像について語られる。元々の脚本の終わりが、「優作が『君は見ていない。僕は見た』と言う。たしかに聡子はそのもの自体は見ていない。しかし彼女も最後にはある殺戮をまじまじと見ている」といったものであったことが明かされる。この辺り、濱口によれば、以前に震災以後の映画をどのように撮れば良いかを問うたとき、黒沢が「これからは被害者ですっていう映画は撮れないよね」と答えたことに多くの示唆を得たという話とも関わってくるだろう。すなわち、黒沢の言う通り、神戸の空爆にアメリカの参戦を焚きつけた優作というスパイの影を見て、自らの加害者性をある種の誇大妄想として抱く聡子のあり方が浮かび上がるのである。

※『酸素』では、左翼活動家の若者が外資系酸素会社で勤めながら企業の動向を探るうちに、第二次大戦の開戦とその敗戦によって日本の再建を目論む二重スパイと出会う。また、大岡の小説では女との駆け引きや愛憎劇も硬派なスパイものと並走して特に重要かつ魅力的な要素でもある。一旦のオチとして、様々な思惑を持った人々が各々のエゴの中で霧に消えてゆく場面で締め括られるのだが、未完に終わっている同作では、水害によってさまざまな小崩壊が起こり、人物がみな死んでしまうといったプロットが予定されていたらしい。

 文學界11月号、『愛の不時着』と『スパイの妻』を同時に論じた廣瀬純による論考「スパイの妻は不時着の時を待つ」。まずは、「出来事」が原子論的観点から解釈される。宇宙において原子は全て垂直に自由落下し、それぞれはみな交わることなく平行である。しかし、一つの原子が傾いて垂直性を逸脱すると、他の原子とのぶつかり合いが連鎖的に生じ、平行世界そのものが崩壊する。この、「クリナーメン」と呼ばれる第一の原子が経験する傾きこそが「出来事」である。これらを踏まえたうえで、『愛の不時着』において「運命」は「潜在的な出会いの現在化」「出来事の再生」として描かれていると解説される。他方、『スパイの妻』についてでは、画面外が示す聡子にとっての外延、そして画面内の様々な場で入れ子になっている聡子の「演劇」、こういった内外における無限性の秩序が存在しているとまずは指摘される。その上で、聡子がこれら画面内外の平行性を逸脱しようとすることが指摘される。こういった記述は、星野太の崇高論も想起させられるものがあった。ともあれ、論の結びとしては、くだんの逸脱において「偶然」を選択することの特権性のようなものが強調されるが、今作がそれを軸とした聡子と優作の演じ競い合いであるといった指摘がとても興味深かった。この辺りは、素朴な鑑賞体験の記述として共感するものがあった。

2020.12.20

【参考】
・『スパイの妻』パンフレット
・「文學界」2020年11月号
・大岡昇平『酸素』1955年
映画『スパイの妻』パンフレットに感じる言論の不自由
「映画とは画面に映っているものがすべて」 蓮實重彦門下の監督たちが活躍するコワい理由”
『アンチ・細雪』として書かれた大岡昇平『酸素』、書かれなかった結末 : 阪急・阪神沿線文学散歩

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