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日々の戸締まり

 2022年11月11日より公開された新海誠の新作『すずめの戸締まり』について、簡単に自分の思うところを書いてゆこうと思う。本作は、細かな設定や作り込まれた/描き込まれたオブジェクトの数々によって、一見シンプルな「行きて帰りし物語」に見えて、その実、多様な解釈が可能となっている。本稿では、細部や数々のメタファーによって示唆される個々のテーマへの掘り下げ等を行うのではなく(自分には扱いきれない)、雑多な感想を書いてゆく。

 物語の大きな流れは、4歳のときに母を探して後ろ戸を開けて常世へと迷い込んだ鈴芽(すずめ)が、12年の月日を経て、戸締まりをする、あるいは戸締まりを忘れた場所へと帰る、その時間を描いたものである。作中、東日本大震災によって喪失を抱えた、すなわち不可逆な変容を被った鈴芽は、閉じ師との出会いと要石を抜いたことをきっかけに、日本列島を縦断しながら各所の後ろ戸を閉めてゆく。これに限らず、作中でなされるさまざまな、元に戻せるものを元に戻してゆく、あるいは返せるものを返すといった振る舞いは、過去の時間と決着をつけられない鈴芽と同様に、震災という出来事によってもたらされた不可逆な時間や位置を逆照射していた。

 また、ここで言う「元」とは極めて「鈴芽の視点」に基づいた基準でもある。草太が人間に戻ること、その必然性は鈴芽というキャラクターの能動性によってこそ見出され、成し遂げられている。本稿では『すずめの戸締まり』を叙事的なテーマやドラマによってではなく、あくまで、そのような個人的な物語であるという観点から見てゆく。

1. 日々のこと

 さて、タイトルにもあり、「元」に戻すことの一つ象徴的な役割が与えられているのが「戸締まり」であるわけだが、これによって示されているのはなんであろうか?今作では日本に刻まれた数々のカタストロフが辿られるが、そこでなされるのがなぜ「戸締まり」なのだろうか?作中での台詞によれば、戸締まりによってなされるのは、人の営みとそこへの人々の思いが途絶えた場所(寂しい場所)を土地や自然の神へと返す行いである。また、新海誠はパンフレットの中で、本作を鈴芽の鎮魂の旅であると語っている。戸締まりには、土地を神へと返すのと同時に、不可避的な忘却にさらされた災害を悼み、鎮魂する(還す)意味が込められている。鎮魂とは、それをなす主体にとっては「喪」の時間を持つことを意味する。「喪」とは、死者との観念的な結びつきを構築しながら、同時に、死と生に断絶された物理的現実での生活を再編する行為と時間に他ならない。過去を位置付けることで、それに立脚して現実へと進むためのしぐさである。喪という行為が「災後」と「喪失」の両方を自らの時間的な連続性の中に再配置する行為でもある*1。ここから分かるのは、先ほど何気なく書いた「元に戻す」、とは必ずしも最初の状態や、何かが起きる以前の時間に戻すことを意味していないということだ。では、そのような「戸締まり」のあり方を踏まえた上で、下記の予告編(0:52〜)を見てみよう。

 この予告編で端的に示されているとおり、作中ではリフレインされるいくつかのモチーフが存在する。先ほど述べた「戸締まり」にはじまり、「挨拶」や「歩く」といった身振りがそうである。リフレインされることで浮かび上がるのは、「戸締まり」は、後ろ戸に向けられた特権的な身振りだけでなく、自転車の鍵や玄関の扉といった一般的な場面との連続性の下に置かれていることだ。加えてそれらは、「挨拶」や「歩く」といった日常的な行為と同様の位相に位置するものとしても示されている。特に「挨拶」に関しては、単に口にされるものに留まらず、各地で鈴芽が出会う人々と抱擁するといった身振りまでをも含み、かつ、戸締まりの際に思い馳せるかつての日常から響き渡る声でもあった。

 開けた戸を閉める、出会いと別れの挨拶を交わす、ある場所から別の場所へと移動するといったことを、普段われわれはどの程度意識的に行なっているだろうか?これらは人間のささいで無意識的な営みであり、それによってこそ日常性というものは担保されている*2

 本作において、物理的な変容、決定的な個人の時間や振る舞いの変容に対して、ささいな身振りの積み重ねが日常性をしるしづける。怨嗟の溢れ出る後ろ戸を閉めることで、寂しい場所というものが決定的に回復されることもなければ、なにかドラマチックな変化が起こるわけでもない。単なる廃墟へと、寂しい場所へと戻るだけである。鈴芽も、戸締まりの瞬間に土地へと思いを馳せることとは別に、ことあるごとに、訪れた後ろ戸のあった場所を思い起こしたり、土地の歴史へと深入りしてゆくわけではない。あるいは、人々に巡礼を促すということもなく、直接的な介入はなされない。あくまで、鈴芽という個人の視点と土地の記憶の交流に重きが置かれている。ただ、寂しい場所のある土地の普通の生活者の日常に触れながら、寂しい場所のかつての日常に思いを馳せ、現在時の日常性(とその身振り)を届けにゆくのである。

 前半のロードムービーのパートは、地域ごとのカタストロフの不均衡な扱われ方*3に対して、それらの個別性に目を向けるという倫理的な態度を示すものでもありながら、他方で、鈴芽が自らの日常性をしるしづけるという営みでもあったのではないかと思う。

2. 非対称なイス

 本作を観た直後、私は「なぜイスが要石になったのだろう」と疑問に思った。母との思い出であったイスは、震災で脚が一本欠け、草太が宿り、要石として突き立てられるといった具合に、さまざまな質的な変化を被っている。イスは、物語の最初と最後で、常世を介して4歳から16歳までの鈴芽の時間に循環的に存在していることが示されるような、鈴芽の過去の象徴でもある。なぜ、そのようなごく個人的な記憶が、東京の崩壊、ひいては日本列島全体の厄災を封じ込める役割をあてがわれたのだろうか?

 作中で、「要石は誰でもよかった」と語られる場面がある。あてがわれた役割に固有性はない。イスが要石たりえたことに仮に理由があるとすれば、それは本作が鈴芽の視点の物語であるからだ。徹底して鈴芽の物語であるからこそ、誰でもよかった要石は、彼女の過去、あるいは草太という一個人で充分だったのである。ここには、個人の固有さと、全体の中で匿名的な存在として扱われる際のギャップが強く示されている。

 例えば、われわれが遠くの地で起こったカタストロフを見るとき、さまざまな報道に触れながら、時に、何気ないものがモニュメントとして打ち立てられる瞬間を目にすることはないだろうか。あるいは、ある特別な形象(奇跡の一本松や、流れ着いた靴、など)によってわれわれがカタストロフを想起する、それについての何がしかの感情を抱く。そんなとき、カタストロフと不可分な関係に置かれたことで現在時とは異なる位相に置かれた当の対象は、ふつうの現実や日常の文脈を離れて看取される。鈴芽の個人的な記憶や想念を担っていたイスが、東京壊滅阻止のために供せられることには、一方ではありふれた個人の生が社会を形作っている(雪かきのような仕事をする人々によって支えられている)という事実を示しながら、他方で、ある個人の生が共同体的な喪の触媒としてその固有性を棄却される事態を示しているように感じた。鈴芽が、要石となったイス(草太)へと、常世へと再び至る道は、鳥居や門のような大仰さを担う場所ではなく、ごく個人的な家の戸によってであったことも象徴的である。

 興味深いのは、このような非対称性は、後ろ戸とミミズに対する鈴芽の距離感にも反映されている点である。本作では、一貫して、鈴芽に何かの責任が帰せられるという態度が感じられない。要石を抜いたことで後ろ戸から厄災が溢れ出すことになるが、そのような後ろ戸が存することの原因たる「寂しさ」を特定の誰かのせいにすることはできない。また、「震災」という出来事そのものに対して「戸締まり」を行うことができる者も当然ながら不在である。『天気の子』のラストでは、自分達の選択が東京を水没させた(世界のかたちを個人の意志によって変えてしまった)と考える帆高に対して、ひとりの老婦人はやんわりとそれを否定してみせる。東京はかつて海であり、人間と天気の営みによって変わり、それが再び元に戻っただけなのだ、と。

 『すずめの戸締まり』において、後ろ戸から現れる厄災の象徴であるミミズもまた、なにがしかの行為や出来事の帰結によってそうあるのではない。だからこそ、鈴芽もミミズや震災に対して、個人的な意志以上の動機によって向き合うわけではない。神秘的な世界観を通して示されたのは、要石として無作為に選ばれることや、鈴芽が厄災に対して責任を担えないといった、徹底的な個と世界の条理*4の非対称性である。そのような無作為な奔流としての抱えきれない条理の総体を、「ミミズ」と意味づけすることで、世界との交渉が重ねられている*5

 さて、補足として一点、ダイジンについて。「鈴芽の子になれなかった」という言葉や、先の要石は誰でもよかったという点からも、ダイジンは神的な存在となる以前には人であり、さらに言えば水子でもあったのではないかという可能性が示唆されている。であればこそ、ダイジンは常世の存在、この世ではなくあの世の存在である。ダイジンが要石に戻った、あるいは戻されたことは、死という時間の覆らなさでもあるのだろう。事実、本作では鈴芽が常世で亡き母親と言葉を交わすといったことは起こらない*6

3. ありふれた出会い

 新海誠の旧作で、『すずめの戸締まり』とよく似たジュブナイルものの一つに『星を追う子ども』がある。こちらの作品では、常世にあたる彼岸の世界はよりファンタジーな空間と融和したものとして描かれ、なおかつ、通常の世界との境界を堅持している。物語の最後、誰もいなくなった場所で、「ここにはない何か」を追いかけて果てへと至った主人公の少女は、そうした行動へと駆られた理由について「ずっと寂しかったんだ」と口にする。詳細は省くが、『星を追う子ども』では、現実にある名づけようのない寂しさを埋めるものが、特定の出来事や他者に回収されず、冥府の空間そのものであったりそこに根を持つ何かとの交渉で培われてゆく。そして、名づけようのない寂しさは名づけようのない死によってしるしづけられており、それらを満たす現実は、特別な誰かに限らない他者との触れ合いにおいて獲得されるということが示される。

 『すずめの戸締まり』において示されるのもまた、特別な誰かとの出会いや、超常的な力による運命的な出会い、そのような他者との邂逅に依存したきりでない自分自身の救済の姿であった。草太との出会いは旅の道中で出会う人々によって相対化されており、さらに鈴芽は自らの意志で後ろ戸へと飛び込む。旧作との比較で考えたとき、『天気の子』の主人公のように過去が隠されているのでも、『君の名は。』のようにカタストロフの名前が伏せられているのでも、『星を追う子ども』のように寂しさの理由が分からないということもない。『すずめの戸締まり』では、徹底して鈴芽の視点と彼女の担う具体的な時間が問題であった。個人的な記憶と出会い直すこと、過去の時間の戸締まりをすること。それは、厄災そのものと同等か、それ以上にとめどなく溢れ出る厄災にまつわる自らの記憶や他者による言説の数々、そういったものへと押し流されそうな日々の中で、自らの小さな領土を確保する営みであったのではないだろうか*7

 「すずめ(鈴芽)」という名前は、「シズメ(鎮め)」という言葉を想起させながら、われわれの日常にありふれて存在する小さな鳥「スズメ(雀)」も想起させる。それは、鈴芽「個人」による喪の旅路を予感させるものである。しかし、われわれは、彼女を触媒として、特定の厄災の記憶に対して憐憫の気持ちや責任を感じる、あるいはそれを追体験したと考えるべきではないだろう。

 本作の最初の場面は、4歳の鈴芽の見ている風景から始まる。迷い込んだ常世で、すすきをかき分けて前へと進む低い目線の誰か。周囲には、家屋に打ち上げられた船があり、震災直後のショッキングな映像を想起せざるをえないが、しかし、それらには草木が生い茂っており、無時間的な光景が彼方まで続いている。後ろ戸から常世へと迷い込む/迷い込ませることから、映画の時間は始まっている。われわれは、そのような、鈴芽の目を通して伝えられる色彩豊かな美しい空と人間の営みが不在となった世界の、不思議に調和した風景を前にしてどのような感情に駆られただろうか。『すずめの戸締まり』は、各々の現在の日常から見える距離を見つめ、各々が語り始めるように促すような、そんな映画であったと思う。

 本作の後半、久しぶりに東北へと足を運んだ鈴芽は、自然化の進むかさぶたのような土地を前にして、同乗者の芹澤の「綺麗なとこだな」という何気ないセリフに、「綺麗、ここが?」とショックを受ける(土地へと向けられたこの言葉は、草太を初めて目にして「綺麗......」とつぶやく冒頭の場面とも好対照をなしている)。活動の初期からフォトリアルな美しい一枚絵の風景を描き続けた新海誠が*8、震災から12年の月日を経たありふれた風景を通して、痛切なすれ違いを演出した、何気なくも、説得力のある場面だった。



  1. 小泉義之『弔いの哲学』河出書房新社、1997年

  2. 江國香織は冷蔵庫を開ける描写の後には閉める描写がないと居心地が悪いと語ったが、これは創作物を読み書きするにあたって自然な感情ではないか。この居心地の悪さは、やはり日常的な身振り、身振りによって担保される日常性に所以しているはずだ。→片岡義男×江國香織|http://gendai.media/articles/-/49143 

  3. 水出幸輝『〈災後〉の記憶史: メディアにみる関東大震災・伊勢湾台風』(人文書院、2019年)では、伊勢湾台風を契機として1960年に制定された「防災の日」をきっかけに、東京ローカルかつ風化しかかっていた関東大震災が国民的な出来事として取り扱われるようになる過程が示されている。それは同時に、「地震」が数ある災害の中で特権視されるに至る過程でもあった。

  4. 荒木飛呂彦は、東日本大震災をテーマに据えた『ジョジョリオン』の最終巻のカバー裏コメントにおいて、最強の敵について語る中で「厄災」に言及しており、一見すると不条理きわまりない出来事であっても、徹底した条理の流れであるのではないかといった旨の発言をしている。

  5. 参照元の一つであろう村上春樹『かえるくん、東京を救う』において、地下に潜むみみずくんに憎しみが蓄積されること、あるいはまた『もののけ姫』であれば「祟」と呼ばれるものが、大地のもたらす厄災への意味づけに相当する。

  6. 返事のない場所を想像する――『すずめの戸締まり』を読み解く|https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/21956

  7. 星野太『美学のプラクティス』水声社、2021年

  8. 過去作までの活動の具体的な変遷については下記が参考になった。土居伸彰『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』集英社、2022年。

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