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大人になってはじめて理解できたこと ー『古畑任三郎』犯人の動機から考える

『古畑任三郎』が大好きです。幼い頃、父が録画していた『古畑任三郎』を飽きることなく何回も何回も観ていました。セリフもほとんど覚えています。

登場人物(古畑任三郎以外)の真似もよくしました。第1回「死者からの伝言(中森明菜)」を観ては、紙をぐしゃっと握りしめてみたり。第3回「笑える死体(古手川祐子)」を観ては、ビー玉を手の平でゴロゴロしてみたり。第11回「さよなら、DJ(桃井かおり)」を観ては、無駄に走ってみたり。スペシャル「しばしのお別れ(山口智子)」を観ては、謎にカバンを隠してみたり......。

学んだこともたくさんありました。当時小学生の私は、第15回「笑わない女(沢口靖子)」を観て、白湯というものを初めて知り、しばらく母に頼んで白湯を飲む生活をしました。第5回「汚れた王将(坂東三津五郎)」では、将棋における封じ手を初めて知り、祖父と封じ手を使って対局をしました。翌日まで待てず、すぐに封を開けて対局を再開するという「なんちゃって封じ手」でしたが。

このように、『古畑任三郎』は幼少期の私に多大なる影響を与えています。その『古畑任三郎』を今、だいぶ久し振りに見返しています。すると、小学生の自分では理解しきれていなかったことが多々あることに気がつきました。

今回は、第20回「動機の鑑定(澤村藤十郎)」をベースに、「大人になってはじめて理解できたこと」について考えてみたいと思います。ネタバレがありますことをご了承くださいませ。

『古畑任三郎』について

『古畑任三郎』は、田村正和扮する警部補古畑任三郎が主人公の刑事ドラマです。毎回犯人役のゲストとして、有名な俳優さんが出演しています。犯行の様子が描かれているため、視聴者は犯人と犯行過程を予めわかった上でドラマを観ています。いわゆる倒叙という形式です。

第20回「動機の鑑定」あらすじ

骨董商・春峯堂のご主人(澤村藤十郎)は、美術館館長・永井(角野卓造)と結託して贋作の「慶長の壺」を真作と鑑定するが、それは陶芸家・川北百漢(夢路いとし)が二人を告発するために作った壺であった。春峯堂は川北を射殺し、川北が所持していた真作の壺を持ち去る。そして、永井に強盗の犯行に偽装させて自分のアリバイをつくるが、永井はその最中に川北の作品を盗んでしまう。さらに春峯堂は、自首しようとした永井を自殺に見せかけて殺害、永井が隠していた川北の作品を確認し、すべての罪を永井に擦りつけた。©︎2006 by 古畑任三郎事件ファイル

上記の通り、この話には⑴慶長の壺(贋作)と、⑵慶長の壺(真作)の2つの壺がでてきます。

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春峯堂が永井を殺害する際、まず慶長の壺殴り、それから日本刀で斬りつけます。このとき、慶長の壺(贋作)と慶長の壺(真作)は両方並んでいる状況でした。実際、凶器として使われ、壊れてしまったのは慶長の壺(真作)の方です。

古畑任三郎は、春峯堂は間違えて真作の方で殴ってしまったと推理します。ところが、実は違ったのです。

春峯堂「あのとき私には分かってました。どっちが本物か。知っててあえて本物で殴ったんです。」

古畑「......なぜ?」

春峯堂「要は何が大事で、何が大事でないかということです。慶長の壺には確かに歴史があります。しかし裏を返せばただの古い壺です。それに引き換えていまひとつは現代最高の陶芸家が焼いた壺です。私一人を陥れるために...あたしのために川北百漢はあの壺を焼いたんです。それを考えればどちらを犠牲にするかは......。物の価値とはそういうもんなんですよ、古畑さん。」        

古畑任三郎 第20回「動機の鑑定」より

大人になってはじめて理解できた犯人の動機

春峯堂さんがあえて真作を選んだことはしっかりと覚えていました。小さい自分にも、そこは事実として理解できていたのだと思います。しかし、なぜ真作を選んだのか、という理由については、すっぽり記憶から抜け落ちていました。それが十数年振りに見返した今、とつぜん理解できた喜び......!こんなことってあるんですね。何回も観ていたにも関わらず、時を経て新たな発見があり、この新鮮な体験に異常に感動してしまいました。

今こうして理解できるようになったのは、生きていく上で選択する事柄が増え、「自分にとって何が大事か」を意識せざるを得なくなったからだと思います。小学生の自分が「自分にとって何が大事か」ということを意識できていたとは思いません。ただ、おそらく今よりも明確に、直感的に、「大事なもの」が分かっていたようにも思います。

大人になってはじめて理解できたある歌のフレーズ

小学生の時、叔父の車で流れていたユーミンを聴いて、ユーミンが大好きになりました。後日、そのCDと同じものをプレゼントしてもらった思い出があります。

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「ルージュの伝言」が大好きで繰り返し聴いていましたが、小学生の私には歌詞の内容が理解できるはずもなく、なんとなく聞こえた言葉を口ずさんでいました。そして私はこの歌を、たまごの歌だと思っていたのです。

不安な気持ちを残したまま
街はding-dong 遠ざかってゆくは 

という歌詞があります。この「残したまま」の部分の音感で、なぜかずっとたまごの歌だと思っていたのです。なんかこう、ふわふわとたまごスープのたまごが浮いているような......。大人になって、きちんと歌詞を見て、全然違った!笑、となりましたが、今でも好きな一曲です。

少し脱線してしまいますが、歌詞を見ないと聞き取れない歌って結構ありますよね。作詞していても、難しいと感じる点です。

先日、アニメ「映像研には手を出すな!」のエンディング、神様、僕は気づいてしまった「名前のない青」を歌い出しを聴いていて、おおなんてパンチのある歌詞なんだ、と衝撃を受けました。

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孤独の内に溜め込んだ空想の類

私にはこの「空想」が「クソ」に聞こえていたのです。ごめんなさい。(そう聞こえてもいいように歌われていたとしたら、それも素敵です!)綺麗なメロディに、透き通る声での「クソの類」というフレーズはかなり心にきました。なかなか書けません。このくらい耳に残るワードというのは、耳から入ってくる歌詞では特に重要だと感じました。結果違ったわけですが、とても素敵な歌です!(脱線が長くなりました)

「理解しないままに体験すること」

さて、古畑任三郎の一件後、銀色夏生さんのエッセイにこんなことが書かれていたのを思い出しました。

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 理解しないままに体験することが人生の大事な一部、という文章を前に何かの本で読んで、ハッとしました。
 今起きていることの意味を今はわからない、というのはよく思っていましたが、それをもっと攻めていったような言葉です。
(中略)今は理解できなくても、理解しないままであっても自分が「体験した」ことが重要なのだ。(中略)その経験こそが大事だったと思えれば、納得することにこだわる必要はなくなるだろう。   
『力をぬいて』(角川書店)

私は色々なことを深く考えてしまいがちです。でも、すぐに理解できる物事もあれば、上記の実体験のように、何年後かに急に分かることもあるし、なんなら今世では理解できない可能性もある。「理解すること」も大切だけれど、「納得すること」が何かを妨げているのであれば、それはやめてもいいのかもしれない、と思いました。

まとめ

数年おきに繰り返し読みたくなるお気に入りの本があります。読むたびに感情移入する登場人物が変わったり、感じることが変わるのは、読んでいる自分自身も変わっているから当たり前といえば当たり前です。でも、こういう体験は不思議だなあ、と思います。歌詞も、ドラマも、漫画も、なんでも、解釈というのはその時の自分次第なのだと改めて認識しました。

「今理解できないこと」を「いつか理解できるかも」という楽しみに変えて、日々を生きていきたいな、と思います。

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