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インタビュー調査<玉川孝道氏>

 玉川孝道氏は1940年に鹿児島県鹿児島市で生まれた。「鹿児島での暮らしの風景は焼け野原」だったという。鹿児島県立甲南高校を卒業、九州大学法学部に進学した。大学時代は60年安保闘争の真只中で、大学よりも三池闘争などの現場に通ったという。「生の現実を見る仕事」をしたいと新聞記者を志望し、1963年に西日本新聞社に入社する。
 入社後は一年間の校閲部を経て、筑豊支局に配属された。頻発する炭鉱事故を取材し、引き取り手のいない鉱夫の遺体や鉱夫の家族を前にし、眼前の光景の執筆に悩み、「新聞記事を現場で書く」という生々しい記者の仕事を経験した。1968年に社会部に配属されると、九大ファントム墜落事故を担当し、学生達によるバリケードの中に飛び込み命がけの取材を遂行した。その後、九大医学部紛争や沖縄の風疹、カネミ油症、子供病院をはじめとした地域医療といった医療問題を数多く取材した。大学紛争での機動隊導入の動向を交番回りで得ていたという。1976年東京支社政治経済部に異動、田中金脈問題における福田赳夫の担当記者として寝る間もないほど多忙な生活を送った。
 1982年にワシントン特派員となり、ペンタゴンとホワイトハウスを取材。当時アメリカに亡命していた金大中と会い、金大中の誘拐に関与した人物など、事件の真相を追った。
 1990年に佐賀総局長に就任。吉野ヶ里遺跡での発掘をめぐり、『朝日』との激しい攻防を繰り広げた。「現場記者がよう頑張って、涙あり、怒りありだったな。抜かれたり、抜いたり、面白い」と、振り返った。
 三年後の東京編集長への就任を機に、現場からは離れ、部下への取材の指示や広告会社との交渉を主な業務とした。2005年に副社長に就任、経営者としては未熟で「色んな情報を新聞で届ける以外に、同時にシンポジウムだとか色んなキャンペーンをやったりすること」も新聞の役割だと考えた。子供病院や博物館を作るキャンペーンはその中で実った二つだったという。「現場に行って現場を掘って、それを伝える」ことがジャーナリズムの基本であり、新聞業界は近年の経営難の中でも「事実をコンファームし、それを社会に送り出すという任務」を全うする必要性があると語った。

主担当:片桐