見出し画像

インタビュー調査<高島良樹氏>

 1945年、名古屋に生まれた高島良樹氏は、慶應大学商学部を卒業後、中部日本新聞社に論説としてかかわっていた大学教授の祖父の影響を受けて中日新聞社に入社。
 入社して最初の三ヶ月は新人研修を受け、実際に販売店実習も体験した。1969年に四日市支局に配属され、三年間駆け出し記者として過ごす。記者人生で最も印象に残っている取材の一つは、当時の高度経済成長期下での公害問題に真っ向から立ち向かった、海上保安部の田尻宗昭さんとの出会いであったと言う。工場排水による海の汚れを取り締まるために、公害を初めて刑事事件で起訴した彼は、“正義感”を体現した人だった。高島氏は、「悪いものは悪いという、体制がどうであれ、それを指摘して、世の中の改善に結びつけるということを実践する人と、その実例を、つぶさに見た」と語った。この経験が新聞記者としての原点となり、新聞記者のあるべき姿を学んだと言う。
 その後、1977年に三重総局に異動し、名古屋本社の社会部と整理部を経験。新聞作りの面白さを感じるものの取材の面白さには勝てないと感じ、上司に直談判し、東京本社の外報部に異動。外報部では特派員として、エジプトのカイロに三年間駐在。パレスチナの実情を目の当たりにし、日本に知ってもらいたいという思いから連載記事も執筆。
 日本に戻り、名古屋本社の社会部に復帰し、遊軍、県警本部、県政キャップを務める。1994年、ロンドン支局に異動となり、ダイアナ妃をめぐる英国王室のスキャンダルなどの報道に携わる。1996年には、ペルー大使館の人質事件を担当。衝撃と戦慄を生で体感したと語った。
 その後、社会部長、整理部長を経て編集局次長に就任したが、部下を育てるという意識はなかったと言う。その理由を「大体、新聞記者は一人一人が独立している。入社五年もすれば皆一人前の記者として扱われたいし扱うし」と語った。2002年には、東京中日総局長に、その一年後には中日スポーツ総局長に就任。中日ドラゴンズにも役員として関わった。
 ブロック紙としては「地域密着をもっと進めないといけなかった」と述べ、販売店の処遇に答えが出せなかったことが一番の問題だったと指摘した。

主担当:田中