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インタビュー調査<田中一彦氏>

 田中一彦氏は1947年福岡県みやま市に生まれた。福岡県立修猷館高等学校を卒業し、1967年京都大学経済学部に入学。学生時代は学生運動が盛んだったが、本人はノンポリで本ばかり読んでいたという。
 一年留年後、1972年に一度富士写真フイルムに入社したものの、会社の体制が合わず三ヶ月で退社。同年10月に京都大学文学部言語学科へ学士入学したが、翌年ちょうど記者を募集していた『西日本新聞』へ入社する。記事を書きたくて入ったつもりが、最初の六年間を整理部として過ごした当時のことを、田中氏は「空白の六年間」と語る。しかし「僕の場合は(他の人の)倍頑張るよりも頑張らざるを得ない事件が常に起こっていたから、これがラッキーだった。」という。
 間に何度か整理部を挟みながらも、1978年に大分総局、1985年に東京支社、1988年に佐賀総局、1995年からパリ支局へほぼ三年間の異動を繰り返し、その間に国鉄分割民営化、日航機墜落事故、消費税導入、吉野ケ里遺跡発掘、佐賀県の談合事件、またフランスの核実験や欧州通貨統合など多くの事件を経験した。
 1982年に連載した人権や差別が題材の「君よ太陽に語れ」(共著)は新聞協会賞を受賞。その後、編集企画委員会で食の在り方を問う「食卓の向こう側」に取り組み、ブックレットは累計百万部を超える『西日本新聞』最大の企画になった。また、これをきっかけにブータンを何度か訪問。同時に米国の社会人類学者ジョン・エンブリーの著書の影響で熊本県須恵村(合併し現あさぎり町)にも興味を持つようになり、2007年から勤めていた広告制作会社ピー&シーを退職して、あさぎり町に単身移住し調査を行った。2017年に刊行した『忘れられた人類学者 エンブリー夫妻が見た<日本の村>』では地方出版文化功労賞を受賞した。
 ブロック紙の良さについては、中規模であるがゆえの「グローカル」な視点を持てることだと語った。一方で、圧力や癒着による隠蔽体質が存在しているという問題点についても指摘した。

主担当:大屋