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インタビュー調査<島村史孝氏>

 島村史孝氏は、太平洋戦争末期の1945年6月に福岡県で生まれた。当時最も出生数が少なかった昭和20年生まれで、「敗戦後の暮らしに四苦八苦する親たちを横目に、私たち子供は貧しくはあったけど、のんびり育ちました」と語る。
 1964年に久留米大附設高校を卒業した後、一年の浪人生活を経て1965年に西南学院大学に入学する。大学の学生課の掲示板で、西日本新聞社の求人票を見つけたのをきっかけに、1970年に西日本新聞社に入社した。
 入社後に一ヶ月半の合宿研修を経て、初任地の若松支局では事件や事故の連続であった。1972年から北九州支社、1976年から長崎総局、1978年から水俣支局に勤務した。それぞれの地域で警察・司法・行政の取材をするが、特に公害問題について取材を行った。水俣支局時代には、公害の原点である水俣病に取り組む。また、新潟水俣病が発生した阿賀野川流域にも出かけて取材した。
 その後も1981年から東京支社、久留米総局、北九州支社、鹿児島総局と転勤が続き、1990年に本社文化部(福岡)に勤務する。初めての本社は、地方での勤務とは雰囲気が違い、「使命感と緊張感があり、大量の情報が流れる職場は刺激的でした」という。
 さらに、日田支局、本社文化部、筑豊総局、伊万里支局と勤務し、2005年に60歳となり定年後は、再雇用で阿蘇支局に13年間勤務した。
様々な地域で約50年間、新聞記者として生きてきた島村氏は、新聞の役割と魅力について、「第一は新聞に寄せられる信頼感」であり、「その信頼に応えるためには対象に迫らなければならない」それは島村氏の場合「人を書く」ことだと語った。

主担当:亀谷