2019.03.29 - 最も不幸な時代なのかもしれない

3月29日。金曜日。晴れ。寒い日であった。

9:00に起きた。

金曜日ということで、久しぶりに夜に予定を入れた。「久しぶりに」と書いたけれど、実際は昨日も飲みに行ったので、1日ぶりに、ということだった。

夜の予定はというと、クリント・イーストウッド監督の最新作「運び屋」を観に行くことだった。

クリント・イーストウッドといえば、「グラン・トリノ」や「15時17分、パリ行き」「アメリカン・スナイパー」などを手がける名監督である。

その最新作ということだったので、観ない理由は全くなく、更には映画館で観ることは必須で、観に行ったところ、やはり観てよかった。という感想に至ったのだった。

「テクノロジーがどんなに発達しようと、どんなにお金を手に入れようとも、幸せになれるというわけではない」ということを論じているようだった。現代は、全てを「スマート」にしようとする経済活動がある。だからって、個人の文化や思想まで「スマート化」される必要はない。

更には経済活動に押しつぶされて、文化が消えてしまうということは良くあることだ。それは我々現代人は、失ってから気がつくものの最たる例で、文化は人が築くものだし、文化の中で経済活動が育まれる。というのが流れのハズだ。

文化の中心には人がいて、人と人にはすべて関係性があり、その関係性を構築するものは、信頼や安心や、愛だったりもする。

信頼や安心や、愛。これらは目に見えるものではないが、不確実性の時代の中でも、より、確実性の高い資産…なんて言い方をするとまた経済的なので、確実性の高い「かけがえのないもの」であるのだった。

失ってしまったら、時間は取り戻せない。

「効率的に」ではなく「幸福的に」時間を消費していく日々が必要であるハズだった。

効率に支配されてしまうこと、テクノロジーに支配されてしまうことは、不幸の序章かもしれない。


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