逆襲のシャアが示す「やさしさ」

MSの性能とかアムロとシャアが死んだかどうかよりも、この作品は何を教えてくれたかを考えてみました。ちなみにユニコーンはほとんど知らなんだです。

様々な定義のニュータイプたち

私達の生きている世界でもニュータイプってなんなんよ?という疑問が出る。最近はゲームの影響でもっぱらファンネルが使える超能力キャラとしてしか認識されてなさそうであるけど、劇中でもハサウェイが「瞬時にガンダムの配線がわかった人」と似たような説明をクェスにしていた。でも、その言葉に対してクェスは一蹴、「ものとか人の存在を正確に理解できる人、それもどんなに距離が離れていてもわかるようになる」と切り返す。劇中でも特にこれといって必要条件であるようなことはみんな言えてなさそう。

自分の個人的な感想にすぎないけど、基本的にニュータイプは現状に不満を持っている節がある人間が覚醒しているように見える。例えば、地球と宇宙に別れた家族は分かり合いたいけど距離が遠い、という不満からテレパシー能力を手に入れた。要するに進化なのである。進化の必要に迫られていない、現状に満足している化石のような人間は進化しないでオールドタイプのままでいるのである。だから、連邦軍の高官にニュータイプは出てこない。

外的要因によるニュータイプ化したギュネイとチェーン

それでも、何らかの外的要因で進化を強制的にさせられる人がこのガンダムには出てくる。ギュネイなんかはいつもながらの強化人間だ。まぁ強化人間についてはこの映画で特に語ることもない(ギュネイの心情は興味深いけど)。それよりも特筆すべきはチェーンである。チェーンはサイコフレームを身に着けてから、明らかに超能力を持ち始めた。敵エースパイロットのレズンを打ち倒せてしまったときは「おまえただのメカニックマンじゃないん?!」と驚いたけど、どうやらそういうことみたいに見える。イデオンの時もそうだったけど、富野監督はたまに「2001年宇宙の旅」を想起させる部分がある。この「2001年宇宙の旅」にはモノリスという黒い壁を猿が触ると進化する描写があり、多分サイコフレームもそういう効果を発揮したのだろう。シャアは、すべての人類をニュータイプにする必要があると言ってた気がするから、そもそもサイコフレームはそういう研究の元に生まれた、とかあるかもしれませんねぇ。ただ、チェーンはその後、アストナージに心配されるほど変な行動をとり始め、若干サイコフレームに乗っ取られている感もある。チェーンはハサウェイの存在を感じ取り、クェスからハサウェイを守ろうとクェスを殺してしまう。そしてハサウェイは叫んだ。

やっちゃいけなかったんだよ!そんなことをわからないから、大人って地球だって平気で消せるんだ!!

たとえニュータイプに進化しても、それがわからなかったのである。むしろ、散々暴れたクェスの方が、最後の最後で「やさしさ」を見せつけたのであり、正しい大人で死んだ感がある。どうやら、ニュータイプになれば万事解決、というわけにはいかなさそうで、目先の目標にとらわれず、「やさしさ」忘れずにちゃんと考えて行動しろよ、という感がある。その後、ハサウェイ、怒りの味方撃ちをくらい、チェーンは意識を手放してララァと同じような存在になり、アムロの元に向かった。

やさしさを持ったニュータイプ、アムロ・レイ

ナナイが言ったセリフで、アムロは「やさしさがニュータイプの武器だと勘違いしている」野郎だ、と罵っているシーンがある。ララァもその「やさしさ」が求めていたものらしい。これは逆襲のシャアにおいてはキーワードになっていると思う。てかアムロってそんなにやさしいパンチパーマキャラだっけ?と疑問に思う。逆襲のシャアにおいて、むしろクェスに対してはシャアのほうがやさしくしてやった感はある。が、それは本当の「やさしさ」ではない。あくまで利用するための見せかけのやさしさであった(Zでいうところのシロッコとサラの関係と同じで、人をマシンにする行為である)。やさしさというのは、その場で終わるものではない。今、その瞬間は心地よくても、あとあと取り返しのつかない方向に進まされているということは往々にしてある。果たして、それはやさしさと呼んでいいのだろうか。

アムロが示したやさしさの行動は、間違いなく最後のアクシズを押し返すシーンだ。たぶんなのだけど、やさしさとは、自分の利益を追求する行為でなく、純粋に他人を思う気持ちなんだと思う。自分が犠牲になってでも、他人や未来のために行動できる人。クェスのようにただ不満をぶつけていがみ合うのでなく、行動できる人こそそのやさしさに人は虫のように惹かれ、ジェガンのみならずギラドーガまで押し返す行為に至った。

サイコフレームが見せたかったもの

サイコフレームはこの作品においては生きている。そして、この作品を見ているものに何かを示すためにいろいろな奇跡を都合よく起こした。ドラマを見せるためにチェーンを操り、クェスの時はカミーユの時と同じ謎の光でビームをはじいていた。しかし、ハサウェイの攻撃ははじかず、かわりにサイコフレームはチェーンと融合した。同時に、惑星を照らす太陽のように輝かせ、それにより後々アクシズを押し返すジェガン部隊を発進させ、地球にいた人(私たち?)にも何かを感じ取らせた(あとナナイにも)。そして最後のクライマックスでは、人の意思をくみ取り、奇跡を起こした。すべての人に英知を授けたわけではないけれど、絶望しないでほしいこと、行動してほしいこと、そして他人を思う「やさしさ」こそが人類が長く繁栄できるための手段の一つではないかと問いかけていること。サイコフレームはそんなやさしさを示したかったのだと思う。

こうして駄文を載せてみたわけだけど、百聞は一見にしかずであることには変わりなく、戦闘シーン含めすべてはとても語ることができない。4DXで、映画館でみて、あらためてとんでもなく衝撃を受けた。よく仕事の都合で、自分の保身のために見なかったことにしてしまうことがあったりする。でも、この映画を見てからは、やっぱりそういうことはよくないことだなと思い、行動を変えるようになった。自分はIT業界なので、派遣の案件なんかも頻繁にあり、そういう時は責任逃れがいくらでもできるけれど、目の前の取引相手でなく、ニュータイプのように末端の人間(ユーザ)の存在を感じ、責任をもって開発するようにしている。その行為は必ずしもお金では評価はしてくれないかもしれないけれど、それはきっと誰かが見てくれていると信じれるようになった。

それくらい、サイコフレームの光には感動しました。

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