無自覚な差別

※この記事は2019年7月にブログに書いたものです。

続々と発表されるディズニーアニメの実写化作品だが、そのうちで『リトル・マーメイド』のアリエルに黒人歌手のハリー・ベイリーが抜擢されたことが、ちょっと前に話題になっていた。

このことにかんしては、ツイッターでもニュースサイトでも、思いつく限りのありとあらゆる言説が入り乱れており、いつものことだなという感じもある。ディズニーは文字通り世界中の子どもたちの原体験を形成する役割を担っており、その自覚もある。時代が変わっていけば、ディズニーも変わっていくし、おそらく自覚としては、じぶんたちが先行して時代をつくっていく、くらいのものは当然あるだろう。だから現象としては自然なことともおもわれた。よく見たら白人のキャラクターを黒人が演じる、くらいのことは、ディズニーがディズニーたる意識をそう自覚的に意識せずとも、時代の感覚としてはまあ自然な流れかともおもわれ、そしてそれが社会問題とマーケティングの両面で非常にうまくバランスをとってきたディズニーならなおさらではないかと。ところが、じっさいにはそこに、反発もかなり生じる。男女の権利の問題以上に議論が重ねられてきた人種差別の問題で、傍目にはかなり合意形成されてきたとおもわれてきた現状でも、年月を重ねた議論で凍りついたリベラルなありようが解けて雪崩れを起こすようにして、そこにそれがあったということを示してくるのである。
このニュースを経由して、ぼくのあたまのなかにはいくつかの景色や考えが浮かんできた。最初におもったことは、「アリエルは白人だったのか」ということである。と同時に、ハリー・ベイリーを見て、まず「黒人の女の子」である、ということが認識された、という事実も、否定してはならないだろう。とても恥ずかしいことである。だが、わたしたちは、そこから出発しなければ、この問題に取り組むことはできない。今回はそのおはなしである。

いくつかはなしの枕になるポイントはあるが、ぼくの実体験のはなしをしよう。いまぼくが働いているところから駅に向かう途中には、なんなのかよくわからないけど、じゃっかん治安のよくない広場みたいなところがある。駅前なので、夜になると酔っ払いがうろうろしていたり、学生たちが集団で大騒ぎしていたり、なんか様子のおかしいひとが大声でひとりごとをいっていたり、ぼくをはじめとしたえたいの知れない人間たちが眉間にしわをよせながらタバコを吸っていたり(ちゃんと喫煙所ですよ)していて、特になにがあるということでもないが、なんとなく、バイトの女の子とかには行かせたくない感じのところだ。そこのある区画のところに、いつも陣取っている黒人の集団がある。なにものなのかは不明だ。彼らは特になにをするでもないのだが、ビール飲んだりしながら、わいわいやっている。ぼくはそれを毎日目撃して、「今日もいつもの黒人のひとたちいるな」と目のはしで認識するのである。ここのところだ。ぼくは決して、「いつものあのひとたち」というふうには、認識しない。固体の区別もむろんつかない。ただ、「黒人のひとたち」がいる、ということを、たんじゅんに受け取るだけなのである。そういう広場なので、毎日いる日本人のひともいるわけだが、そういうひとたちを、「いつもの日本人いるな」というふうにはとらえない。このことにふと気がついたとき、ぼくはちょっとショックを受けたのである。
どうしてショックを受けたのかというと、脳裏には『評決のとき』という映画があった。ジョエル・シュマッカー監督による1996年の作品である。原作は法曹系サスペンスの名手であるジョン・グリシャムで、ぼくは小説も読んだのだが、映画のほうが何回も見ていて記憶しているので、ここでは映画のはなしをする。あの映画は、ぼくにとってはいろいろ発見のあったすごい作品なのだけど、調べてみても、裁判のリアリズムに文句をいっているような感じの言説ばかりで、あんまりそういう認識はないみたい。
なにがすごかったか、ぼくのなかで革命的だったかというと、ここでは白人と黒人ということになるが、それらの断絶が、基本的には解消できないものとして描かれていたことだった。主人公のマシュー・マコノヒー演じるジェイクは若手の弁護士。彼の友人でもあったサミュエル・L・ジャクソン演じるカール・リー・ヘイリーは、白人の二人組に娘を強姦され、このふたりを殺してしまう。ジェイクは彼の弁護をすることになる。舞台はまだまだ黒人差別が根強い南部で、だからこそこうした事件も起きたわけだが、召還された陪審員は保守的な白人ばかりで、裁判はジェイクたちにとってはあまりよくない展開を続ける。友人のハリーという弁護士や、サンドラ・ブロック演じる優秀な助手・エレンの活躍などもあって、ところどころ挽回もするが、やはり無罪というわけにはいかない。相手の検事はケヴィン・スペイシーで、心神喪失を狙うカール・リーを挑発して、たくみに彼が明らかな殺意をもって行動に出ていたことを証明してしまったりもする。というか、改めてみるとすごい豪華なキャスティングだな。
次第に裁判は社会現象となっていって、黒人団体とKKKの路上でのにらみあいのような状況にまでなっていく。こういうところで、あきらめかけているジェイクに、カール・リーはいうのである。お前にはおれがどのように見えるかと。「カール・リー」ではなく、「黒人」ではないかと。リベラルを気取って、じっさいにそのようなふるまいをし、反差別的な存在であると自認していても、ジェイクがカール・リーの家に遊びにくることはない。だからこそ、じぶんはお前を弁護士として雇ったのだと、このようにいうのである。どの程度のつきあいがもともとあったのかはわからないが、カール・リーにはぜんぶ見えていたのだ。ジェイクは、陪審席に座っている、はなから「黒人」が悪にちがいないと思い込んでいる連中と大差ない。だから選んだのだと。ここでカール・リーがいうのは、その視点をこそ生かせ、というはなしだ。そこで、あの問題の最終弁論に至る。ジェイクは、陪審員たちに「物語」を聞かせる。小さな女の子が、酔っ払った白人ふたりに、遊び半分でぼろぼろにされるはなしだ。げんにいまその裁判をしているのである、ひとびとは、そのイメージに、黒人の女の子をかぶせるだろう。だが最後にジェイクは付け加えたのだ、その女の子は白人だったと。このときジェイクは泣いている。ふつうに見れば、ジェイクにも小さい娘さんがいるので、そのことをおもって、泣いている。が、同時に、ぼくには、弁護士としての無力を悲しんでいるようにもおもえた。なぜなら、この弁論は、「強姦される黒人の女の子」という物語で陪審員から同情を引き出すことはできないということを、みずから認める行為にほかならないからである。
幸い、カール・リーは無罪になる。そのことじたいも物語としてはよかったわけだが、さらに、裁判のあと、ジェイクたちがカール・リーの家を訪れ、奥さんや娘さんたちの交流がはじまる場面が描かれるのが、最高に救いである。あれがなければ、『評決のとき』の結末はもっとおそろしい印象になっていただろう。ジェイクの弁論は、「白人と黒人はわかりあえません。だって、黒人がレイプされても、あなたたちはなにも感じないし、感情移入しようともしないでしょ?じゃあほら、白人の女の子がそうなったと考えたら、わかりますか?」といっているのとちがわないからである。カール・リーがぼくに教えてくれたことは、残酷な現実として、「そこからしかはじまらない」ということだった。どんなに勉強して、環境を調整しても、ジェイクにとってカール・リーはまず「黒人」であり、おそらくカール・リーにとっても、ジェイクはまず「白人」だったのである。いや、問題は非対称性にあるから(だからこその事件と長引く裁判である)、ひょっとするとカール・リーにおいてはまたはなしは別かもしれないが・・・。
長くなったが、ぼくにおいてはじめて実体験的に認識されたジェイク的状況が、それだったわけである。もちろん、広場にたむろする連中は知人ではないので、個体として認識するわけにもいかず、そうなると目立つ特徴が引き出されてかたまりとしてとらえられることになるから、「黒人のひとたち」となるのもしかたないことかもしれない。けれども、ぼくではそこであのときのカール・リーのセリフがよみがえったわけである。そして、この事実からごく当たり前に、自然に逃れることは、おそらくできないのだ、ということなのだ。

ディズニーが今回の件で示したのは、ここではハリー・ベイリーを、「うたのうまいかわいい女の子」の前にまず「黒人」として認識する、そういうのはもうやめませんか、ということだったとおもわれる。少なくともぼくはそう受け取った。じっさい、アリエルに人種的なコノテーションがあるわけではなかった。このはなしが出るまで、ぼくはアリエルが「白人」だということに気づかなかったくらいなのだ。それであるのに、このはなしが出たとたんにそういうことが前景化されてしまうのだ。アリエルはアリエルであり、「白人の人魚」ではない。ハリー・ベイリーも、黒人である以前に、アリエルに抜擢されるほどの人物なのである。

しかしながら、これはくちでいうほどたやすくはない。黒人街で昼食をとり、二つ返事でカール・リーの弁護を引き受ける、たいへんリベラルなジェイクでさえ、そうなのである。つねに、くりかえし反省しつづけなければ、克服することのできない、言語の構造にしみついたような視点なのである。この件でさらに想起されたのは、最近読んだフェミニズム小説『82年生まれ、キム・ジヨン』である。女性差別もまた人種差別と同じく構造によっているぶぶんが大きいので、かなり参考になる。
くわしくは書評を読んでもらうとして、この小説はキム・ジヨンを診察した医師のカルテという体裁をとっている。じっさいにはそこまで報告的文体ではないのだが、設定としてはそうなっている、ということだ。キム・ジヨンが体験してきた女性差別、国内におけるさまざまな苦労を、医師はおそらく同情とともに記録する。しかし、その医師が、キム・ジヨンの診察を離れた場所で、ちょっとした男性優位的な言動を見せるのである。そこがまあ、小説としてのオチというか、一種のホラーともなっているわけだが、ぼくは、ここまでも含めて、作品がはなつメッセージだとも感じだ。書評のくりかえしになるが、「カルテ」とは、日本に輸入される以前の自然主義、つまりリアリズムにおいて至高とされた文体を用いている。この世界のあるがままを描くために、まず科学の登場を人類は待たなければならなかったわけだが、そのことによって、医師は症状を患者から分離させたものとして記すことが可能になった。これが、文学的には、主観から離れた描写の可能性を示唆したわけである。いわば究極に客観的な描写方法が、カルテなのだ。しかし、そのカルテの作者が、外側において、あるいは一冊の本という点においてはカルテと連続するしかたで、カルテそのものにおいて告発されていた女性差別を無自覚に行うのである。反差別的立ち位置をこれ以上なく体現していたジェイクが、カール・リーをまず「黒人」としてみていたように、もっとも公平な視点とおもわれるカルテとその作者が、女性差別をなすのである。これは魯迅の『狂人日記』と同じ構造になっている。狂人日記は、狂人が日記の体裁のなかで中国の食人文化を告発する内容だが、最終的には狂人じしんも知らず人肉を食べていた、ということが明らかになる。魯迅はこうした閉鎖性のなかからひとは脱出することができるのか、という問いを抱えていたようだ。それは「鉄の部屋」とも形容される(岩波文庫『吶喊』原序)。「鉄の部屋」のなかで、ひとびとはまどろみ、そのまま死のうとしている。これを、外側から起こすべきかどうか、ということだ。まどろんでいる彼らは、じぶんが鉄の部屋にいることなんて知らないし、眠いからたいして苦しくもないのだ。告発という行為は、つねにこうしたメタ的な、自己言及的な問題を抱えている。日本語で、日本語は不完全な言語である、と告発するのは非常に困難なのである。

人種差別にせよ、女性差別にせよ、「それはよくない」ということはだいぶぶんで合意形成されている。だが、問題なのは、そこから先なのである。「よくない」とおもっていることと、それを失速させることのあいだには、ずいぶん距離があるのだ。だから、あれほど熱心に、ほとんど命をかけて黒人差別がもたらした事件の裁判をたたかうジェイクも、カール・リーをまず「黒人」とみなすのだし、あれほど同情深い視線でキム・ジヨンのはなしを聴いていた医師も、その足で未婚のスタッフを探そうとするのである。この、ある種の失敗それじたいをおそれていては、そもそもコミュニケーションが成り立たないのだが、重要なことは、「お前はおれのことをまず“黒人”としてみている」とするカール・リーのことばのようなものを、まずは粛々と受け止めることである。右利きのひとが、放り投げられた車の鍵を反射的に右手で受け止めるように、この種の問題はコントロールが難しい。そして、どの場合も、状況は非対称になっている。ただたんに白人と黒人、男と女が価値として対立しているのではない。それならどれだけ楽だろう。そのよすがを、鉄の部屋の外から聞こえるノックの音を、無自覚でいるほうの側は逃さないようにしなければならないのである。

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