すっぴんマスター的書店論①

今日は本屋について書く。
以前いただいたメッセージで、リアル書店においての本の選び方なんかを書いてほしい、というものがあって、それも書くつもりなのだが、それを展開するためには、僕の考える「書店のなんたるか」が示されていなくてはならない、ということで、今日はそれについて。

むろん、いままでどおり、なるべく論理的であろうとはするつもりだけれど、僕も出版業界のなにもかもを把握しているわけではないし、末端の販売員として事態を解釈しているだけにすぎない。だから、以下述べることは、もしそこにそれなりの説得力があったとしても、どこまでも机上の空論、理想論であり、実現可能かどうかなどというはなしとは無関係である、ということは、最初に断っておく。僕には身近にロールモデルとすべき先輩もいなかったということもある。じぶんより上位のものと仕事をすることがないので、知識や思考法が更新されにくかったのである。そういう、離島の書店で働いていた男が、理想ばかり語って現実を見ずに記したもの、くらいの感覚で読んでもらえれば、たぶん読みものとしてはそれなりに成功するとおもう。

(長くなりそうなので、今回は記事をわけて、ひとつ100円で販売することにします)


【無職です】

書店業界が危機的な状況であることはご案内のとおり、今年もすでに数え切れないほどの本屋が閉店していっている。30年以上続き、地元民には存在が自明になっており、そういう状況でもなぜか誰も不安にならなかった僕の勤務先の店すら、さまざまな事情でついに閉店してしまった。
原因として一般に考えられているのが、電子書籍の定着、通販サイトの品揃えと速さ、そして活字離れである。こういう現代的状況が、本屋を不要であるとして、淘汰させていっているのだと、これが、ふつうの認識だろう。ただ、僕は、これらのことは原因ではなく、大きな社会の変動に伴った結果に過ぎず、本屋の閉店はそれと同列なのではないかと考えている。電子書籍が定着することで、本屋からひとが消えたのではなく、「あること」が起きて、その結果、電子書籍や通販サイトが台頭し、活字離れが起こり、本屋が閉店していっているのである。


【検索的思考法】

では、「あること」とはなにか。陰謀論的にひとつの現象に原因を求めるのは思考停止だし、絞れるともおもっていないが、読者のみなさまには本稿を「読みもの」ととらえていただけているはずなので、ここはあえておおざっぱに、イメージとして図式化してしまうことにしよう。「あること」とは、「検索的思考法」の定着である。あるいは、「作為的思考法」とか、「サルトル返り」とか、フロイトが登場する前の「無・無意識な全的意識」とか、かっこつけて呼んでもよい。要するに、インターネットが生活に根付いて、わからないことはすぐ検索して、なにがわからないかわからなくてもだいたいのワードを入力すればたどりつく、ということをくりかえすうちに、わたしたちから「制御できないもの」が見失われていき、かわりに「世界は意識でコントロールできる」という信憑が、育まれていったのである。
これが書店業界の問題とどうつながっていくか。勘のいいかたなら、もう以下の叙述は不要かもしれない。書店の本質、存在意義は、検索できない言葉、すなわち、いま、じぶんがなにを知らないかという、ことばにすることのできないぜんたい、これに応えるものなのである。


【共感とは】

ブログの古い読者のかたであれば、僕がかつて共感ということばにやたら敏感であったことを覚えておられるかもしれない。世にあふれる恋愛ソングをはじめとした「うたの音楽」はほぼ共感ソングであり、小説は、共感できるかどうかでその評価を定められている、そのことが、20代の僕には我慢ならなかった。ある程度年をくって、人間もときにはいやしとしてそういうものが必要だということを肯定できるようにはなったが、問題意識としては変化していない。そこで僕は「共感」を、「記憶の再体験」と概括した。共感恋愛ソングに求められているものは、じぶんの記憶に残っている似た体験や感情との響きあいである。共感小説に求められているものは、じぶんの記憶に残っている似た体験や感情との響きあいである。失恋に傷ついたものの音楽的あるいは小説的描写を通じ、ひとは、失恋で傷ついたじぶんのことを立体的に感知するのだ。そうすることによって、ひとは傷をいやすことができる。記憶に残すことのできない強烈な体験は、トラウマとなって、内側からその人格を規定する。だが、フロイトでは、抑圧された記憶はやまいとなって回帰する。トラウマが深ければ深いほど、回帰するやまいも重篤なものとなる。だから、この治療にあたっては、抑圧を解除すること、すなわち、ことばにして、現実のものとして、手の中に握りこんでしまうことが重要になる。しかし、トラウマを構成する物語は、記憶のなかにはないので、ことばにすることが原理的にできない。だから、治療するものとされるものは、話し合って、新しい物語を創作する。おそらく共感ソングが求められるのは、これのごく弱い衝動なのである。失恋に際して残ったわずかな傷が、それを回避する言語運用を話者にもたらすが、普遍的なことばで述べられた共感作品は、これを立体的にし、記憶を再体験させ、回復をほどこすのだ。
そういうわけだから、ひとがひととして生きていくうえで「共感」が不要であるとは、もちろんいわない。ただ、それはあくまで治療である。だとすれば、いまの世の中は、治療を求めるものばかりの弱った状態ということになりはしないかと、問題は広がっていくが、それ以上はこの記事には収まらないので、はなしをもとにもどす。内田樹は、「教養」を「自分の無知についての知識」と定義した。「共感」は、作品に触れて、じぶんのなかのそれとよく似た体験や感情を呼び起こして感応させ、それを立体的にする行為だ。ここには、じぶんの「知」が、この宇宙においてどのような位置にあるのか俯瞰させるちからが、まったく欠けているのである。


【検索が生む全能感】

それで生きるのが困難になるということはたぶんないので、問題としては「だからダメだ」ということではなく、とりあえずこの記事のなかに限っては、そういう趨勢が世の中にあって、それが出版不況問題に接続しているというはなしだ。
そして「検索的思考法」である。別に仮説というほどおおげさなものでもなく、よく聞くといえばそうかもしれないが、要するに、「検索をかけて調べる」という行為、そしてその全能感が、この「共感」を補強し、ほとんど当たり前の感受性にしてしまっていると、こういうはなしなのだ。
検索サービスは、ほんとうに便利だ。僕はネットにかかわらない生き方を二十歳過ぎくらいまでしてきたので、ブログを開始していろいろいじるにつれて、これはもう、調べものをしようとしたらこれ以上のものはないのではないかと、感動というか、衝撃を受けたくちである。
だが、いかに検索システムが優れていても、わたしたちは実は、じぶんの知らないことを検索することが決してない。というと、調べものは通常知らないこと、わからないことがあったときに行うのだからそれはおかしい、というはなしになるが、ここでいう「知っていること/知らないこと」とは、潜在的なものも含めている。たとえば、僕はいまフロイトの生年月日を知らない。これは、ググればすぐわかる。ところが、たとえば、同様にコオロギの調理のしかたを僕は知らないが、生涯これを検索することはないだろう。これが「知っていること/知らないこと」の差異である。フロイトの生年月日は、僕のフロイトへの興味とまっすぐつながっている。だが、コオロギの調理のしかたに至る道は、とりあえず僕のいまの人生にはないのである。もっと広くいえば、日本語であるかぎり、その話題にかんする検索可能性はゼロではないともいえる。しかし、では、それが外国語だとしたらどうだろう。マケドニア語で記されたコオロギの調理法を、僕は潜在的に「知る可能性がある」といえるだろうか。
また、検索候補として表示されるプラス検索も、この検索の動線を定型的なものにする。わたしたちは、「みんな」が考えるのと同じしかたを自然と選択してしまうのだ。

これが前段階、電子書籍、通販サイト、活字離れ、本屋の閉店を呼び込む大きな原因(のひとつ)である、というのが僕の考えだ。

につづく。

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