浦賀和宏『ハーフウェイ・ハウスの殺人』(祥伝社)書評

ブログに投稿されているものと同一です。

浦賀和宏の比較的新しい作品の文庫化です。
最初のハードカバー版の出たのが2015年なので、たった3年前のことだ。今回の解説を担当されている福井健太というかたによれば、2010年の『女王暗殺』からしばらく、本の出ない時期が続いたのだそうだ。それが、例の書店のしかけでバカ売れした『彼女は存在しない』以後に復活したかたちになり、以後すさまじい勢いで作品を書きつづけているのだ。桑原銀次郎のシリーズも、このあとに書かれたものらしい。僕は、高校から大学のときに安藤直樹のシリーズをぜんぶ読んで、そこから、なんとなく離脱してしまい、書店員になってから戻ってきたタイプの読者なので、時間の感覚がよくわからなかったのだが、もしそれがほんとうにそういうことであるなら、書店員の努力も報われるというものだ。

シリーズものではない単発長編のことを、解説での使用にしたがえばノンシリーズというようなのだが、浦賀和宏はノンシリーズの作品もけっこう書いている。いままで、どうやって浦賀和宏のすごさを伝えようか、ブログでは苦労してきたが、最後にこう、興味をもたれたかたはこれなど読んでみてはいかがでしょう、などと既存の作品をすすめてみたりするのである。しかし、このぶぶんがいつももやもやしていた。そりゃ、僕はいちばん最初に読んだ『頭蓋骨の中の楽園』や、安藤シリーズ第1作の『記憶の果て』、もはや流通さえしていない『記号を喰う魔女』などがおすすめなわけだけど、これはどれも安藤シリーズなわけ。僕はアベンジャーズ大好き人間で(数年前までそれはスターウォーズだった)、無職の現在では一日に1本あるいは0.5本くらいの感覚で、関連作品を鑑賞しているのだが、あんまりブログに書いたことはない。なぜなら、アベンジャーズはすべての作品を通して『アベンジャーズ』なのであるから、ブログを書くとしたら、ただたんに「見た」という記録と「おもしろかった」という感想を書くだけでこの僕が済むはずもなく、あまりにも長大すぎるのである。この感覚をどこかで知っていると、僕はずっと考えていたのだが、ようやくそれが浦賀和宏だとわかった。だから、浦賀ワールドのことを今後UNUと呼ぼうとおもうのだがどうだろう。というのは冗談としても、先生はマーベルもお好きなようだから、ひょっとしたら少しくらいは意識されているのかもしれない。
そういうようなわけで、「おすすめの作品」を長い考察のあとにつけくわえるときにいつもどうしようかどうしようかと迷ってけっきょくいっぱいおすすめしちゃうわけだけど、そういうときには、ノンシリーズ長編がぴったりだ。しかし、最近では『緋い猫』が(現時点では)ノンシリーズで、たしかに最高におもしろかったけど、浦賀和宏独特のものに満ちているかというと、そういうこともない。そうしたところで本作である。解説でも同じことが書かれていて、「持ち味のショーケース」、つまり全部入りなのだ。情念の籠もった初期作はその後、とも書かれているな・・・。おっしゃるとおり。

本作では、浦賀作品ではよくある方法だが、ふたつの視点、というより、ふたつのまったく異なるように見える物語が交互に描かれていく。たしかに、両者の物語は異なっているようだが、しかし、はなしが進むにつれて、そうもおもわれなくなっていく。「ハーフウェイ・ハウスの殺人」では、アヤコという語り手の、独特の語り口による物語で、なんだかよくわからないが、ハーフウェイ・ハウスという、人工的な楽園に暮らす子どもたちのはなしだ。彼らは、ハウスから外に出たことがない。周辺はフェンスに囲まれていて、そこから先にはいけないということになっている。だが、フェンスとは名ばかりで、そこには彼女たちが「オベリスク」と呼ぶ塔のようなものが点々とあるだけで、通ろうとおもえば通れるように見える。外界に興味を持ち始める年頃ということもあって、なにもしらない浮世離れしたアヤコたちは、やがてここをどうにか越えようと考えるようになる。というところに、健一という、アヤコの腹違いの兄だと名乗る男があらわれる。殺人というくらいだからこのあとひとも死んでいくのだが、まあそんな不思議な世界だ。
たほう、「ふたりの果て」の主人公も健一である。健一の母はシングルマザーで、大企業の社長の愛人だった。あるとき、その社長の娘が転落事故にあう。生きているのか死んでいるのかよくわからない、そんな状況で、久しぶりに健一に会いにきた父は、会社にこないかというのである。その、詳細がわからない状態になっている娘というのが、彩子なのである。
こういう物語が交互に描かれるから、当然、健一は健一で、アヤコは彩子なのだと、わたしたちは想像して読んでいくことになるだろう。だが、そういうなかに、微量の違和感がつもっていく。なんとなく、そうではないような感じがする。だとすれば、両者はどう交わるのか? まさしく浦賀和宏の天才と職業作家としての技術が凝縮された一冊となっているわけである。

浦賀和宏の作家としての復活が(僕はそういう経緯があるとは、具体的には認識していなかったが)『彼女は存在しない』からはじまっていることもあって、帯や広告の文句、また出版社の用意するPOPなど含め、この作家は世間的には「どんでん返しの名手」と認識されているようなところがある。それはたしかにそうで、最後の1頁まで気の抜けない作風であることはまちがいないのだが、なにかこう、もっとちがうんじゃないか、浦賀和宏だぞ、という気がないでもなかった。そういうなかで、浦賀作品における謎解きは批評と同質のものであって、くりかえされるどんでん返しは、最終的な真相の無二性を無効にする、というふうに僕は考えた。最後の数ページで、結末は幾度も裏返り、僕らは何度も驚くことになるが、その波がやみ、物語が終結したことを示すのは、「本がそこで終わっている」ということだけなのである。結末が覆りうるということから逃れることができないのだ。
こういうことを僕は『Mの女』の書評などで論じたので、くわしくはそちらを見てもらうとして、驚いたことに、本作ではそれと似たような言及があるのである。アヤコが、マナブという友達と事件について議論しているときに、探偵と犯人が相手の裏をかこうとしている、そのことを予測していっても、キリがないのではないかというくだりだ。

「現場に落ちていた手がかりが、犯人が探偵を騙すためにわざと残していった手がかりでないと、いったい誰が断言できるのでしょう。探偵は犯人の裏をかこうとします。しかし犯人は更に探偵の裏をかいてきます。だから探偵は犯人の裏の裏をかきます。でも犯人が裏の裏の裏をかいてないとは決して、誰にも言い切れないのです」308頁


これは応用がきく。展開にもかかわることなので伏せ気味にいうと、アヤコはある経験を「夢」だったと考えている。しかし、そう断定した意識の世界も夢ではないとは言い切れない。

「全部夢かもしれません。夢から目覚めた世界もまた夢で、そこから目覚めた世界も更に夢で、私がこうしている世界も夢なのかもしれません。だからこそ人は決断するのです。確かにここは夢なのかもしれない。でもそれを言ったらキリがないから、現実と定義しておこう、と」309頁

これを、そのまま作者のどんでん返しのルールというか、作品観としてしまうのは、ちょっとナイーブすぎるとはおもうが、しかし、重要な考えだろう。この発想から見えてくるものは、世界という謎に挑戦する、というありようが、浦賀作品のどの謎解きをとっても、その底のほうにあるではないないか、ということである。
とりわけ安藤シリーズではそうだったが、浦賀和宏のミステリにおいて「謎」と「世界」はほとんど同義だった。だから、ばあいによって、いわゆる「トリック」は、叙述そのものにかかわるもの、メタミステリだったりするわけだが、それが、たんに読者をだますためのものではなく、作品の展開にかかわっていることがほとんどである、ということが、より重要だろう。そのきわみが萩原重化学工業の2冊だ。究極的には陰謀論的な、荒唐無稽になりかねないはなしを、エンターテイメントとして、きんとした説得性を伴って成立させるためには、天才がもたらす着眼点だけではなく、作家としての力技も重要なものになるが、あそこまで極端なはなしではなくても、世界は、そして認識は、浦賀作品においてつねに最大の謎だったのである。このことと、「どんでん返しの名手」であることとが、無関係ではない、というおはなしだ。映画「マトリックス」では、人間が電池がわりに機械によって培養されており、わたしたちがみている世界はマトリックスと呼ばれる仮想現実だった。救世主ネオはそのなかでわずかな違和感を覚えつつも、どうしようもなく生きていたが、やがて現実世界のモーフィアスたちに目覚めをうながされて、機械と人間の戦争によって荒れ果てた世界に目覚め立つことになる。しかし、このことは、ひとつの絶望的な観点も呼び込む。ネオが目覚め、現実世界に降り立ったということじたいが、世界、また認識というものが絶対ではないということを示してしまった。である以上、あの荒廃した現実世界も、仮想現実でないと言い切ることができなくなってしまったのである。
視点を裏切る、認識を疑って暴く、ということは、そういうことなのだ。浦賀和宏はそこにつねに自覚的なのである。世界は幾度も裏返る。そして、そのことによって、裏返りに際限がないということも同時に示されてしまう。だから、ひとはそこを「現実と定義」するのである。
これは、『時の鳥籠』だったかな、『記憶の果て』だったかな、ちょっと手元にないので確認できないが、安藤と浅倉の会話で、ある出来事にかんして、後悔するのが怖くて決断ができない浅倉に、どんな決断をしても後悔するのだから、好きなほうを選べばいい、みたいなことを安藤がいうのであるが、これに通じている。また、これは『頭蓋骨の中の楽園』だったとおもうが、安藤がめくるめく展開についていけずに戸惑っているかなんかしているところで、お前が選べ、みたいなことをいうのである。すべてうろ覚えで申し訳ないが(なにしろ20年近く前のことなので)、本作の「現実と定義」のくだりを読んで、僕は安藤シリーズのこのあたりのことを思い出したのだから、たぶんそういうシーンがあるということはまちがいない。真実は到達するものではなく、じぶんで決めるものなのである。
しかし、それはミステリとしてどうなのか?という向きも、当然あっていいだろう。たぶん、このことが呼ぶ必然が、安藤直樹をはじめとした、超然とした人物たちなのである。くりかえすように、どんでん返しの果てにやってくる最後の結末が「結末」であることを示すのは、「本がそこで終わっている」ということだけである。そこで、もやもやを抱えずに読了とすることができるのは、最後の決断をしたものが、超越者だからなのだ。というか、そうでなければ、わたしたちは決して納得して本を閉じることができないのである。

しかし、本作はどうだろう。重大な種明かしになるので書けないのだが、本作は、「超越者に担保されるかたちで現実が定義される」という、いわば浦賀和宏的な様式美を明らかに乗り越えている。種明かしをしないように言葉を選ぶことですでに種明かしになってしまう、という種類の結末であるから、これ以上いえないのだけど、そういう視点で結末を待ってみるのも一興かと。

ここから先は

0字

¥ 150

いつもありがとうございます。いただいたサポートで新しい本かプロテインを買います。