表現の自由について①

あけましておめでとうございます。

文筆の面で、今年はフェミニズムを描写する方法、語り口と、表現の自由について考えていこうと考えている。以下はブログに書いたものの転載。


「表現の自由」について考えを深めていくつもりだが、一筋縄ではいかないことは明らかなので、どもったりつっかえたりしながら、ちょっとずつやっていこう。以下まとまりのない仮説である。そのうちに大きな記事に仕上げる。

論点は表現、あるいは言論の自由という語の射程範囲である。ひとことでいえばたとえばヘイトスピーチは認められるのか、ということだ。また、常識的には認められないとおもわれる芸術表現は、個人的には範疇とおもわれるが、そうおもう根拠はどこからきているのだろうかとか、そういうことだ。芸術表現はともかくとしても、ぼくはヘイトにかんしては、体感的には、当然認められないものと考えていた。ところが、多くの信頼できる識者たちが、内容としては当然同意できないし、ほんらいは存在すべきでもないが、原理的には発言そのものは認めていかなければならない、という立場をとっていることをみるのが多いのである。ほんとうにそうなのだろうか、ということだ。
たとえば内田樹は、表現、ないし言論というものを、相手を想定したメッセージとみることで、受信されることを前提に、メッセージを受け取る側への敬意を欠いたものは、そもそもメッセージとして成立しない、というような立論のしかたをしている。今回はなるべくそれとはちがうアプローチをしてみたい。

「表現の自由」という概念は人工物と考えられる。「表現」のあとにやってくるものである。表現の自由を保障するものは憲法(constitution)だが、ウィキペディアによれば、constitutionの由来は「皇帝勅令」ということである。人為的な制度である皇帝から、皇帝の名の下に価値がほどこされる、そういったものが憲法の原型である。ところが、じっさいにはわたしたちの原初の言語環境は、抑圧されたものではない。ここでは吉本隆明が参考になるかもしれない。


「人間が表現する言語とは、社会という関係性を指示する側面、(「指示表出」)と、そこに生じた矛盾を解消するために意識が自ら励起してあげる叫びのようなもの(「自己表出」)の二重性によって織り上げられているものなのだ」安藤礼二『吉本隆明』NHK出版 25頁


自己表出は指示表出を発生せしめた共同体的なものを前提とする。吉本隆明の議論は単純化できるものではないのだが、まず指示表出がやってくる、という視点は、ここではかなり重要である。


「言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことがなかった。やや高度になった段階でこの現実的反射において、人間はさわりのようなものを感じ、やがて意識的にこの現実的反射が自己表出されるようになって、はじめて言語はそれを発した人間のためにあり、また他のためにそうあるようになった」吉本隆明『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』角川ソフィア文庫 38頁


これらは、詩という、言語以前の感傷がどのようにして言語によって形容されていくのか、ということを説明した、これ以上考えられないほど原理的なとらえかたである。自己表出を表現ならしめるものは、指示表出を支える共同体の便益や実利なのだ。その内側につもった違和感が自己表出を呼び、「喩」を誘い出す。
「表現の自由」という機制が想定可能なのは、この自己表出が実り、各自各様の価値観が、指示表出で成り立つ共同体の表面をすべるようになって以降であると考えられる。なぜなら、指示表出が成立しなければ、円滑な交通や交換は成り立つことがないので、そもそも共同体が想定できないからである。指示表出の段階では、その言葉を規制すべきであるとか、必要であるとか不要であるとか、そのように考えることはできないのだ。
芸術表現はおそらく、この喃語のような叫びとしての自己表出を、共同体の内側に居場所を確保したうえで行われるものである。特段芸術に思い入れがない人間からすれば、なにゆえそのアートとやらにそのような特権を付さなければならないのか、というはなしになり、それは一理ある。しかしながら、芸術の居場所を確保しない世界は、要するに自己表出をある種のタブーとする社会であると考えられる。すなわち、便益にのみ向かって表出が行われる、個のいっさいが消失した世紀末的な世界である。芸術表現が必要であるとか不要であるとか、そういう議論は、たぶん出発点からして間違っているのだ。自己表出は、指示表出を前提としつつ、ひととひととが異なった存在である以上、そのなかに潜在しているものである。わたしたちが、みずからのことを「わたしたち」と呼ぶときに、すでに芸術は存在しているのだ。むろん、極端な逸脱は歓迎されるものではないが、おそらく、歓迎されない事態もこみで、芸術表現は自己表出の達成となるのではないか。たとえば、天皇を題材にした作品が不敬であるとして抑圧されるとき、ある視点からすれば、その抑圧まで含めて、人間社会における自己表出ということの範疇であると考えられるのである。

ちょうどいま読んでいる『公の時代』冒頭でチン↑ポムの卯城竜太が、現代は戦後というより大正である、というクリアな仮説を呈示していた。戦後民主主義は個性尊重で、三島由紀夫や会田誠や電気グルーヴのようなエクストリームな個が歓迎されてきたが、現在はそこに過剰なモラルが求められている。それがいいとかわるいとかいうはなし以前に、げんにそうなっている。これはむしろ戦前の、大正時代に近いと。こういう歴史の振動は、よく耳にするというか、体感的にもわかるものだが、あるいはこれは、指示表出と自己表出の振動と読み替えることもできるかもしれない。零度のエクリチュール、既存のどのような文体にも編みこまれることなく突然変異的にあらわれたなにものでもないスタイルが、あらわれた瞬間に一定のエクリチュールとなってしまうように、自己表出は、表現されることで指示表出となる、というようなわかりやすいはなしならよかったが、そういうことではないだろう。直感的な仮説になるが、芸術表現、自己表出は、指示表出が宿る共同体と自己のあいだの歪みが呼ぶ、違和感から発生するものなわけである。とするならば、表出が達成されたあと、そこにはある種の解放感があるのではないだろうか。もっといえば、それが、きちんとした居場所を与えられた芸術として、価値を認められたとき、ひとびとはじっさいに価値観を変容させて、指示表出を、というか共同体そのものを、少しずつ是正していくのかもしれない。そうすれば、自然と違和感は解消され、叫びの頻度は落ち着いていくだろう。しかしながら人間存在とは存在そのものによって疎外されているものである。動物たちがサバンナで形成する巨大な秩序のようなもののなかにわたしたちは組み込まれているのではなく、自意識や、他者との関係性は、絶えず自己自身を更新していくものなのだ。だから芸術表現は居場所を必要とする、ということなのだが、共同体の一般意志のようなものは、自己表出の堆積が量的に満ちたところで、向きを転じるのである。

ではヘイトスピーチはどのように考えればよいだろう。自己表出が叫びであり、赤ん坊がことばであるときには、これはメッセージとはなり得ない。ここには、相手がいない。やわらかい粘土を型にはめようとして、入りきらずにあふれでてしまうもの、これが自己表出であり、芸術表現であると考えればよいだろうか。いささか安易に、吉本隆明のこの特殊な概念を使いすぎてしまっているという感じもしないでもないが、本記事は仮説の堆積であるというエクスキューズはすでにしてあるので、大目にみてもらいたい。
芸術表現は、人間が個として存在を開始したそのときから、存在に含まれている。そのようにさかしらに言い立てて芸術表現を保護しようとすることが本論の目的ではないので、ここはまだ勉強と沈思黙考が必要なところだが、ともあれ、そう考えると、そうとうにリベラルで、知識人であるともおもわれる会田誠のような芸術家が、不謹慎さにほとんどこだわっているようなところがあるのも納得がいく。もはや時代が公になっているということなら、むしろ芸術家は、じぶんでその居場所を確保していかなければならないのである。だが、それでいて、ぼく個人においてはということになるが、ヘイトスピーチは認められないと考えてしまうのは、どうした根拠によるものなのだろうか、というのが最初の問いである。もし、仮に、芸術という名のもとにヘイトが行われるようなばあい、ぼくはそれをどう受け止めるのだろうか。よく考えてみたが、これは現時点では、「そのときになってみないとわからない」としかいいようがないようである。というのは、けっきょくのところ、自己表出はその出自を言及することができない表現だからである。遡ってみても、そこには、共同体的な共有物しかないのである。
ただひとつ、明確に両者が異なっていることは、書いたように(書いたよな?)、それがメッセージであるのかどうか、ということだ。ヘイトスピーチは、聴き手を想定している。それは、ヘイトの対象であり、賛同者であり、潜在的対象・潜在的賛同者である。とするなら、これはメッセージであり、受け止められ、なんらかの感情作用が発生することが期待されている。問題は、それが対象を損なうものだということだ。表現の自由とヘイトスピーチにかんして考えたとき、当然、この、相手を傷つけるとか損なうとか、そういうはなしは出てくるが、つねに難問で、なおかつ、ロジカルにつきつめた多くのばあいそれを認めざるを得なくなってしまう原因は、相手を損なうかどうかが基準であるというなら、すべての表現がそうなりうる、というところだ。ことばは、ひとを傷つけうる。とするなら、どんな言説も、ヘイトスピーチになりうる。そうすると、すべての発声に検閲をかける必要が出てくる。それはおかしい、したがってヘイトスピーチも認めなくてはならないと。だが、ことはもっとたんじゅんなのではないか。というのは、相手を損なうつもりで発声されたことばと、そのつもりがなかったことばは、ちがうということなのだ。

ここまで書いておいてあれだが、吉本隆明が出現したあたりから(だいぶ前半だな)、この問題に着手するにはまだ勉強不足、という感じがしていた。なのでいったんこのあたりで中断する。最後に確認しておきたいのは、抑圧された言論状況が“まず”あって、「表現の自由」という概念が誕生し、その理論のもとに、わたしたちは自由にものをいうことができるようになった、というストーリーでは、ないということである。指示表出は、自己表出の前提なのだ。ところが、憲法は言論の自由を保障するが、木村草太によれば、憲法は人類の失敗リストということだ。これだけはぜったい間違いのないようにしようということを記録して、明らかな文章にしておかないと、くりかえしてしまいがちなことが、憲法に記されているものの規制対象なわけである。つまり、もともとは、わたしたちの「表現」は自由である。ところが、なんらかの経験を経て、そうではなくなる。そして、それを認めると、社会が成り立っていかないから、憲法で定めよう、というふうになっていったわけなのである。とすれば、ひとは、ある段階で、表現の自由が失われ、そのことによって社会が健全に機能しなくなってしまうという状況を経験している、ということになる。まあ、それは歴史を振り返ればわかることでもある。そういう意味では、この失敗を経由して、自由は発見されているわけである。これは、ある種の過剰な芸術表現が抑圧とセットで成立するようにみえる現象に近いものがある。この歴史の振動と二面性について、次は深めていきたい。とりあえず『公の時代』を読んでから・・・。

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