私の履歴書、現在進行形(概要編その2:大学時代のころ)

大学時代。とにかく、迷いに迷った。
最初、京都市内の大学に通った。
まず、サークルに入らなきゃということで、テニスサークルに入り、練習だ合宿だという日々を過ごしたが、社会人になった後のことも考えなきゃと思い、専門学校にも通った。

でも、なんとなくもやもやとしたものは晴れず、別の大学の試験を受けて、そこに通うことになった。
ちょうどその時、「阪神・淡路大震災」があった。結局参加しなかった成人式の2日後のことだった。

その大学は、40名くらいの学生、特に外国からの留学生も含めて、亡くなった。
最寄りの駅は崩れ落ち、一番最後まで復旧されなかった区間だった。
しばらく代行バスで通ったものだ。

しかし、その大学での出会いは、非常に刺激的なものだった。
特に、5つほど年上で、一度東京での社会人経験を経て大学に戻ってきた方がいて、その方の影響を大きく受けた。
特に自分の生き方について根底から変わり、そして就職活動で大きな影響を受けた。
その方のことを、以降「兄貴」と記すこととする。

兄貴は東京の知人から日本経済新聞(東京版)の日曜発行分を取り寄せていた。
何をしているかというと、ちょうど日曜版には求人特集が充実していたのだが、
兄貴は大学の就職課に出ている求人などは目にくれず、東京版に出てくる会社に片端からコンタクトをとったり、
東京の大学の学生を想定した勉強会、ディベートの練習などを行っていたのだった。
僕は最初、日経の大阪版と東京版とで内容が違う事を知らなかったが、実際に並べてみると全く違った。
その当時、東京にはほとんど行ったことがなかったが、絶対的に東京の大学と関西の大学との間に情報の格差があるんだろうな、と感じた。

僕は兄貴に混ぜてもらい、勉強会にも参加するようになったのだが、そこで出てきた業種、それが「経営コンサルティング業界」だった。

1996年から97年ごろの話。
まだ関西では、大手都市銀行、総合商社、電機メーカーなど、一通りの企業が求人を出して採用をしていた。
でも、「経営コンサルティングファーム」や「投資銀行」といった会社は、関西での求人活動をしていなかった。

メンバーが就職活動などで知り合った友人などを連れてきて、勉強会と称して、ディベートの練習をしたり、飲んだりしたものだった。

僕はというと、これまで世界をよく知らない人間だったもので、世界の広さを少し思い知ったものだった。
で、そろそろ就職活動をするにしても、周りの人たちと同じことをやっていることに対して、疑問を抱くようになり、
ある時スパッと就職活動を休止し、自分を見つめなおす放浪の旅をすることになり、西に行く船に飛び乗ったのだった。途中、カネがなくなり、高知・宿毛で真珠の養殖工場、愛媛・八幡浜からさらに船で渡って大分・別府のユースホステルでヘルパーをしながら、宮崎・鹿児島・・・・と九州を一周した。

その後、知人のつてで、ちょうど選挙が行われることになったので、事務所に泊まり込みで手伝いに来ないかと言われて、カバン一つで当時あった「大垣夜行」と呼ばれる夜行鈍行に飛び乗り、東京・四ツ谷駅近くの事務所に向かったが、この経験も非常に思い出深かった。二週間ほど事務所の寝袋で寝起きし、一日中人間模様を眺めていた。

また、ある夏は、北海道に行って、一泊800円の「ライダーハウス」に泊まりながら玉ねぎ工場で選果の仕事をしていた。ちょうどその時、テレビを見ていたら、ダイアナ妃が交通事故で亡くなったニュースが流れてきた。

そんなモラトリアムを経て、自分自身就職活動をしようとして、最盛期は週に2往復、「大垣夜行」で往復した時期もあった。

そして、1998年4月、外資系のコンサルティング会社に入社することになった。

それぞれ詳しくは、後日改めて記事にします。


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