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知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩(『日本』令和3年3月号)

■敬公の遺訓「王命に依って催さるる事」

 名古屋城二の丸広場には、「王命に依って催さるる事」と刻まれた石碑がひっそりと建っている。この碑文は、尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)が編んだ兵法書『軍書合鑑(ぐん しょ ごう かん)』の末尾に記された言葉である。

 「藩訓秘伝の碑」と命名されたこの碑は、昭和九(一九三四)年、歩兵第六連隊の第四中隊長を務めていた片桐寿が私財を投じて建立したとされている。尾張徳川家第十九代当主・徳川義親が揮毫した。

 ただ、この「藩訓秘伝の碑」の建立経緯は未だ詳らかになっておらず、筆者は名古屋城調査研究センター主査の原史彦氏らの協力を得て、その調査を続行している。

 さて、尾張藩と言えば徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この最終判断については、勝ち馬に乗ったに過ぎないとする冷ややかな見方もある。だが、この決断の真相は「王命に依って催さるる事」継承の歴史を知ることによって、初めて理解されるのではなかろうか。

 当初、この遺訓は歴代の藩主にだけ口伝で伝えられてきたが、第四代藩主・吉通の時代に明文化への道が開かれた。病にあった吉通は、跡継ぎの五郎太が未だ三歳の幼少だったため、遺訓の内容を侍臣の近松茂矩(しげ のり)に伝え、後に残そうとしたからである。

 茂矩は吉見幸和に師事した崎門学派で、吉通の遺訓を明和元(一七六四)年に『円(えん)覚(かく)院(いん)様(さま)御(ご)伝(でん)十五ヶ条』として著した。「王命に依って催さるる事」に関わる部分は以下のように書かれている。

 「御意に、源敬公御撰の軍書合鑑巻末に、依二王命一被レ催事といふ一箇条あり。但し、其の戦術にはそしてこれはと思ふ事は記されず、疎略なる事なり。

 然れども、これは此の題目に心をつくべき事ぞ。其の仔細は、当時一天下の武士は、皆公方家を主君の如くにあがめかしづけども、実は左にあらず。既に大名にも国大名といふは、小身にても、公方の家来あいしらひにてなし、又御普代大名は全く御家来なり。三家の者は全く公方の家来にてなし。今日の位官は、朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣と称するからは、是れ朝廷の臣なり。然れば水戸の西山殿(光圀)は、我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりと宣ひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず、此一大事を子孫に御伝へ被レ成たき思召にて、此一箇条を巻尾に御記し遺されたりと思ふぞ」

 ここに、「水戸の西山殿は、我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりと宣ひし」とあることに注目したい。

 

■敬公の遺訓を伝えた松平義行

 吉通は、元禄二(一六八九)年九月、尾張藩第三代藩主・綱(つな)誠(なり)の十男(九男とも)として生まれた。綱誠が元禄十二(一六九九)年に急死すると、吉通はわずか十歳で藩主となった。

 幼少時代の吉通を薫陶補佐したのが、敬公の長男・光友の次男にあたる高須藩藩祖・松平義(よし)行(ゆき)であった。義行は明暦二(一六五六)年十一月に生まれ、寛文六(一六六六)年、従四位下に叙し、左近衛少将摂津守に任じられている。

 元禄七(一六九四)年、綱誠は敬公の行実を修撰するように儒臣たちに命じた。ここには、敬公の尊皇思想を継承しようとする綱誠の志が窺われる。やがて、この修撰は『敬公行状』に結実するのだが、この事業を主導したのが義行である。

 つまり、義行は敬公の尊皇思想を十分に理解し、なおかつ吉通を補佐する立場にあった。吉通を補佐することは、綱誠の遺命でもあった。

 敬公の遺訓は、義行を通じて吉通に伝えられたに違いない。元愛知県立高校教諭の廣瀬重見氏は、綱誠が亡くなった時、吉通は僅か十歳であり、しかも綱誠が亡くなった翌年には二代・光友も亡くなったので、敬公の重大な遺訓を吉通に伝える人物は、義行以外にはいないと推測している。

 また、『円覚院様御伝十五ヶ条』には、随所に「摂津守殿」(義行)の相伝と書かれている。例えば、第十五条「宝剣之大事」には、「もし異変有る時は、熱田海手の警固に託して、宝剣の備をなすべしと、前々御内意有之由、摂津守殿の御相伝なり」とある。ここからも、「王命に依って催さるる事」が義行によって伝えられたと推測されるのだ。義行は祖父・敬公の遺訓の重大性を認識していたからこそ、吉通にそれを伝えたのである。尾張藩尊皇思想の発展において義行が果たした役割は極めて大きい。

 

■義公に対する敬公の感化の大きさ

 義行の学識を培ったのは、師の天野信景(一六六三~一七三三年)である。天野は尾張藩で進物番・納戸役などを務め、その後金奉行・町奉行・先手鉄砲頭などを務めた人物だ。元禄十一(一六九八)年には『尾張風土記』撰修の命を受けるなど、藩を代表する学者として活躍した。

 荻野錬次郎は「天野信景は啻(ただ)に博学宏識にして衆に優れるの傑物たるのみならす、常に其心志を尊王の事に傾倒し皇室の式微を憂歎(ゆう たん)せしものにして之が一端は彼れが遺著に於ても証明し得らるゝものである」と述べ、信景こそ真に尾藩尊皇の率先者だと評価している(『尾張の勤王』)。天野もまた、吉見幸和とは同学の朋友という関係であり、崎門学を学んでいた。天野には、山崎闇斎の高弟・浅見絅(けい)斎(さい)の思想的影響も窺える。天野は、宝永元(一七〇四)年に絅斎の『忠孝類説』に註を付して『忠孝類説註』を著しているからだ。

 敬公の遺訓の継承において義行が重要な役割を果たすことができたのも、彼が確固たる尊皇思想を固めていたからにほかならない。ここで注目したいのは、そんな義行と義公との親密な関係だ。義行の随筆『埋(うずみ)火(び)』には、義公のエピソードが細かく描かれている。また、林董一氏は『将軍の座』で、吉通が藩主に就いた元禄十二(一六九九)年に、義公が義行に宛てた書簡を紹介している。

 「これより右兵衛督吉通殿は御息災にて、学問武芸を怠らず、ますます御成長にて、大樹の御後見もなされるようお祈りする。いうまでもないが、いまのうちが大切だ。あなた方は粉骨砕身、補佐の勤めをまっとうされたい」

 義公は、敬公以来の尊皇思想を吉通が復興することを期待していたのであろう。「我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なり」という義公の考え方が『円覚院様御伝十五ヶ条』に記されたことは、義公の思想が吉通に伝えられていたことを示している。

 義公の言行録『桃源遺事(とう げん い じ)』には、「西山公むかしより御老後迄、毎年正月元日に、おんひたゝれを召(めさ)れ、早朝に、京都の方を御拝し遊ばされ候。且又折節御咄(はなし)の序(ついで)に、我か主君は天子也、今将軍ハ我か宗室也。(宗室とハ親類頭也)あしく了簡仕り、取違へ申すまじき由、御近臣共に仰せられ候」とある。

 『桃源遺事』にある「我が主君は天子也、今将軍我が宗室也」はまさに、『円覚院様御伝十五ヶ条』にある義公の言葉「我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なり」に対応している。水戸史学会理事の梶山孝夫氏は、吉通が『桃源遺事』の流布本の写本を閲覧する機会があったのかもしれないと指摘している(『義公漫筆』)。義行と義公の親密さを考えるとき、義行を介して吉通に『桃源遺事』の内容が伝えられた可能性もあるだろう。

 ここからは、尾張藩と水戸藩が連携しながら、敬公・義公の尊皇思想を継承、発展させた歴史が浮かび上がってくる。

 義公は、敬公の弟・頼房の三男であり、敬公の甥に当たる。名越時正氏は、義公の「絶対的尊王の精神は敬公の感化による所大きかつたかもしらない」と指摘している(『水戸學の達成と展開』)。一方、高須芳次郎は『大日本史』編述の動機は「伯(はく)夷(い)伝」の感激にもあるが、敬公の感化に待つところが多かったと述べている。敬公の楠公崇拝は、義公による「嗚(あ)呼(あ)忠臣楠子之墓」の碑建立にも影響を与えたであろうし、義公の南朝正統論も敬公の影響を受けていた可能性が高い。

 敬公が薨じた時、義公が長文の「敬公誄(るい)」を捧げたことは、敬公の感化の大きさを物語っている。「敬公誄」からは、義公が父・頼房の葬儀を儒教の礼式で行い、領内久慈(くじ)郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬ったのは、敬公の志を継いだ結果であることがわかる。義公は「敬公誄」の序で、敬公の家臣たちが遺言に背いて仏式で法要を営んだことを厳しく批判しているからだ。

 

■「水戸家の家臣は陪臣ではない」

 もともと義公は敬公から強い思想的影響を受けていたのだから、尾張藩における敬公の遺訓「王命に依って催さるる事」の継承と、水戸藩における義公の遺訓の継承が響き合っていたのも当然である。また、義公の尊皇思想を考える上で、幕府に対する父・頼房の姿勢も考慮する必要がありそうだ。

 承応元年(一六五二)十月、水戸家の鷹師・吉田平三郎が、幕臣の真野庄九郎と争った末、真野を殺害して行方をくらますという事件が勃発した。但野正弘氏は『黄門様の知恵袋』において、この事件をめぐるエピソードを紹介している。

 幕府は頼房に対して、「陪臣が、幕府の直臣を撃ち殺した場合には、その者を尋ね出して切腹させるのが、神君家康公以来の御諚(ご じょう)である。速やかに吉田平三郎を尋ね出し、切腹させよ」(但野氏訳)と命令してきた。

 頼房は、「陪臣とは、諸大名の家臣のことを言うのだ。我が水戸家の家臣は、神君家康公より直接付属された武士であるから、陪臣ではない。幕府直属の武士と同列である。吉田を尋ね出すことは出来ぬ」と、はねつけた。しかし、幕府は再三にわたって吉田の捜索と処分を要求してきた。

 これに対して、頼房は幕府の要求に反発、屋敷に引きこもり、江戸城に登城しなくなってしまった。この時、尾張・紀州の両家は家老を派遣し、「もし、吉田を尋ね出すようなことがあれば、御三家の面目が立たない。絶対にそういうことは、なさるべきではない」と進言した。さらに、水野監物(けん もつ)や太田資宗(すけ むね)ら、頼房と親しい幕臣達も、水戸城に籠城して幕府と一戦を交えることを勧めた。また、奥州の伊達忠宗や九州の鍋島勝茂などの諸大名も、密かに頼房を応援すると申し出て来た。こうして、頼房自身も、幕府の要求は聞き入れないと決めたのだ。

 困った幕府は、松平信綱を小石川に派遣し、頼房を説得しようとした。これを聞いた頼房は、信綱が来邸したならば、「手討ちにしてくれようぞ」と待ち構えていたという。やがて小石川を訪れた信綱は、頼房をはじめ水戸家の緊迫した状況を見て、結局吉田平三郎のことは一言もふれず、型通りの挨拶だけをして退出する羽目となった。

 但野氏はこのエピソードを紹介した上で、〈水戸の頼房が、水戸家の家臣は幕臣と同様で、陪臣ではないという強い意識をもっていたことは注目に値します。則ち「水戸は徳川将軍家の親戚であって、将軍や幕府の家来ではない。」という自負心が極めて旺盛であったことを意味していると思います〉と指摘している。

 

■文公による義公遺訓謹書と崎門学派

 義公は元禄三年(一六九〇)十一月、藩主を綱(つな)條(えだ)(粛公)に譲り、水戸へ帰国した。その際、義公が綱條に与えた詩は、『常山文集』巻十五に収められており、その末尾には「古謂ふ君以て君たらずと雖も。臣臣たらざる可からず」とある。

 水戸藩第六代藩主・治(はる)保(もり)(文公)は、義公のこの一句を、楷書で浄写し、奥書を記し表装したのは、それから八十二年経った安永七(一七七八)年のことである。そこには、義公の一句を家訓として常に戒となし、子孫に守らせたいと記されている。

 名越時正氏は、この一句にある絶対の忠が「朝廷と幕府との間に、万一どのやうな不祥な事態が起らうとも、我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし、といふ重大な意味を有することを感得した文公が、やがてこれを長子武公に伝へたに相違ない」と述べている(『水戸學の達成と展開』)。

 筆者が注目するのは、崎門学派弾圧事件(宝暦、明和事件)の余波も冷めやらぬ中、文公が義公遺訓を謹書した安永七(一七七八)年の二月に、近松茂矩が死去していることである。

 正徳三(一七一三)年に吉通が死去してからおよそ半世紀後の明和元(一七六四)年になって、『円覚院様御伝十五ヶ条』が著されたことと、崎門学派弾圧事件にはかかわりがあるのではないかと筆者は推測している(詳しくは拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』)。特に注目されるのが、宝暦九(一七五九)年に京都から追放された竹(たけの)内(うち)式(しき)部(ぶ)の門人伏原宣條(ふし はら のぶ えだ)らの動きだ。

 尾張藩尊皇派と伏原のつながりを示す歴史的事実はある。安永二(一七七三)年に、河村たかし名古屋市長の祖先で、尾張藩尊皇思想の発展に貢献した河村家が収集した二万冊もの書籍を、河村秀穎(ひで かい)が一般公開するために「文会書庫」を設けた。それを命名し書を贈ったのが伏原だったのである。この年から翌安永三年にかけて禁中賄方の不正に対する幕府による大量検挙事件が起こっている。その四年後の安永六(一七七七)年には、秀穎の弟・河村秀根が、京都に通じて謀叛を企てたとの無実の罪で訴えられ、投獄されている。

 河村兄弟は、藩主・吉通、近松茂矩と同門(垂加神道派の吉見幸和の門人)である。尾張藩の崎門学の動きを幕府は警戒していたに違いない。

 文公の義公遺訓謹書と崎門学派弾圧事件とは無関係だったのか。義公時代に築かれた水戸と公家の関係は、文公時代にどのような状況だったのか。未だ筆者にはそれらを明らかにすることができないが、この時期に、文公が義公の尊皇思想を復興しなければならないという並々ならぬ決意を固めたのは間違いないだろう。

 もともと義公が着手した『大日本史』編纂事業では、水戸に招かれた崎門学派が重要な役割を果たしていた。延宝六(一六七八)年には闇斎門下の鵜飼練(れん)斎(さい)が水戸に仕え、元禄五(一六九二)年に彰考館総裁に就いている。元禄六(一六九三)年には、『保(ほう)建(けん)大(たい)記(き)』を著した栗山潜(せん)鋒(ぽう)が彰考館に入った。さらに、元禄十二(一六九九)年には潜鋒の推薦で三宅観(かん)瀾(らん)が彰考館編修となった。同年彰考館総裁に就いた打越樸斎(うち こし ぼく さい)もまた、崎門の学風を受けていた。

 文公は停滞していた『大日本史』編纂事業を軌道に乗せ、藩内に学問を奨励した。天明八(一七八八)年には、彰考館総裁立(たち)原(はら)翠(すい)軒(けん)の推挙で、藤田幽谷が彰考館に入っている。北畠親房の『神皇正統記』とともに『保建大記』から強い影響を受けた幽谷は、寛政三(一七九一)年に『正名論』を著し、尊皇斥覇の立場を鮮明にした。

 「鎌倉幕府が開かれますと、兵馬の権は武家に移り(覇者と位置付けてゐる)、室町幕府に至つては幕府を京都に、乃ち皇居の近くに置き、覇者として天下に号令しました。……摂政も関白も名のみとなつて、公方(室町将軍)の右に出る者はなく、まさに武士が大君となつたようなものでありました。……天に二つの太陽は無く、世界に王は一人であります。我国には真の天子がおはします以上、幕府は国王を称してはなりません」(宮田正彦氏訳)

 

■『武公遺事』と『円覚院様御伝十五ヶ条』

 義公遺訓は、文公から第七代藩主・治紀(武公)に伝えられた。青山延(のぶ)于(ゆき)が編修した『武公遺事』にはこう書かれている。

 「公(治紀)は御平生 朝廷を殊の外御崇敬被遊けり、或る時、景山公子(注・武公の子、烈公斉昭)へ御意遊されけるは、たとひ何方の養子と成候とも、御普代大名へは参り不申候様に心得可申候、普代は何事か天下に大変出来候へば、将軍家にしたがひをる故に、天子にむかひたてまつりて弓をも引かねばならぬ事也、これは常に君としてつかうまつる故に、かくあるべき事なれども、我等は将軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなば、少(いささか)も将軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり、何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては、不義の事なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじと仰せられ……」

 ここにある「天子に御向ひ弓をひかせられなば」という表現は、『円覚院様御伝十五ヶ条』の「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」を即座に想起させる。武公の周辺でも『円覚院様御伝十五ヶ条』が重視されていたのではあるまいか。

 筆者には、『軍書合鑑』→『桃源遺事』→『円覚院様御伝十五ヶ条』→『武公遺事』という尾張、水戸の尊皇思想継承が一本の線でつながっているように見える。

 

■水戸学と尾張学

 さて、尾張藩では、寛政十二(一八〇〇)年一月に、第十一代将軍・家(いえ)斉(なり)の弟・一橋治(はる)国(くに)の息子である斉(なり)朝(とも)が第十代藩主に就いてから、約五十年間、四代にわたって将軍家の系統からの養子が藩主を独占した。名古屋市教育局文化課が刊行した『徳川義直公と尾張学』(昭和十八年)は、押し付け養子にともない、「要路権門に幕府に依存する者が勢力を張り、かういふ事情のために義直の勤皇精神が徹底されなかつたのであらう」と指摘している。

 一方、水戸藩は押しつけ養子を阻止した。文政十二(一八二九)年、第八代藩主・斉脩(なり のぶ)が病になると、付家老の中山信守(のぶ もり)らの門閥派は、将軍・家斉の第二十子・恒之丞(後の紀州藩主・徳川斉(なり)彊(かつ))を養子に迎えようとした。しかし、幸いなことに斉脩の死後、その遺書が見つかり、斉昭(烈公)が藩主を継ぐことになった。

 水戸藩の尊皇思想の展開を見ると、藤田幽谷によって整えられた基盤の上に、文政七(一八二四)年に会沢正志斎が『新論』を、弘化二(一八四五)年に藤田東湖が『弘道館記述義』を著し、国体思想における水戸学の地位を不動のものとした。

 これに対して、尾張藩では尾張学は開花しなかった。とは言え、鬼頭素(もと)朗(お)のように「尾張学」の成立を認める者もいる。鬼頭は〈尾張学は藩祖義直の脈々たる勤皇の大精神の源流によつて、上歴代の藩主のみならす、下民間側に於ては、元禄・享保の時代に至り、吉見幸和・天野信景・真野時綱等の特色ある学者に伝承されるに及び尾張学としての最高潮に達し、更に河村秀根に及んで、ついに「紀典学」の名称のもとに集大成され、体系づけられるに至つたのである〉と書いている(『尾張学概説』)。

 尾張藩では、押しつけ養子の時代に敬公遺訓の発揚が一時的に停滞した。しかし、嘉永二(一八四九)年六月に慶勝が第十四代藩主に就くと、敬公遺訓が力強く体現されることになる。慶勝は、高須藩第十代藩主・義(よし)建(たつ)の二男として、文政七(一八二四)年三月十五日に生まれた。義建の父義(よし)和(なり)は、水戸の文公の二男である。また、慶勝の母もまた、水戸の武公の娘である。つまり、慶勝の血筋は水戸徳川家とつながっていたということである。斉昭は、慶勝の叔父に当たる。

 『武公遺事』にある通り、斉昭は義公の遺訓を直接武公から伝えられていた。そんな斉昭と慶勝が幕末の尊攘運動で連携したのは、運命的でさえある。

 尾張藩と水戸藩は、それぞれ敬公の遺訓、義公の遺訓の継承によって、明治維新の言動力となる國體思想を発展させた。ただ、尾張と水戸の連携は未だ十分には明らかにはされていない。振り返れば、尾張藩と水戸藩には義公時代から人的な交流もあった。例えば、義公に仕えた内藤高康は、もともと尾張の出身だ。尾張と水戸の交流という視点から両者の動向を見るとき、それぞれの歴史に新たな姿が浮かび上がってくるかもしれない。

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