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川面凡児─禊行を復興させた古神道の大家

奈良朝以来衰退した禊行を復興

 「むこう一週間はいかなる異状があっても別に心配に及ばない。禊中の境遇は、他の人からは想像もできないことが多いから」

 明治四十二年一月十八日夜、川面凡児は神奈川県片瀬海岸で第一回の修禊を開始するに当たり、宿泊していた旅館鈴木屋の主人を呼び、こう語った。

 川面が弟子の奈雪鉄信とともに片瀬海岸に到着したのは、同日朝のことだった。まず海岸で禊祭を執り行い、鈴木屋の客間の床の間に祭った祭壇の前で夜中まで拝神した。翌十九日早朝、二人は起床すると、白鉢巻に、越中ふんどし、筒袖の白衣、白足袋のいでたちで海岸に出て禊行を行った。砂は凍り、海は荒れていた。日の出を拝み、怒涛の中にわけ入った。岸辺に上がると、富士嵐がヒューヒューと吹き降ろしてきた。

 禊行開始から四日目の二十二日夜、拝神中の奈雪に異変が起こった。『川面凡児先生伝』を著した金谷眞によると、奈雪は拝神中に突然天狗の襲来を受け、「イーエッ」と雄詰をして追い払った。その日深夜、奈雪は再び天狗の襲来に遭い、はね起きるやドタンバタンと大立ち回りを始めた。

 「いったい何事だ」。

 鈴木屋の主人夫妻が障子の外から見ると、「奈雪負けるな、それそこだ」と、川面が頻りに叫んでいる。主人は訳がわからず、恐れ慄きつつ、川面に事情を聞くと「初日に断っておいた通り、別にご心配に及ばぬ。安心しておやすみなさい」と言われ、恐る恐る引き取った。奈雪は翌二十三日朝、まさに半狂乱で修行に励み、全日程を終えた。常識的には考えられないエピソードも含んでいるが、これが歴史に残る川面の第一回の禊行の様子である。

 禊の起源は、『古事記』にある通り、黄泉の国から生還を果たした伊邪那岐命が、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」の瀬で身を清めるために禊をした故事に由来する。神代以来、禊は脈々と継承されてきたとされるが、奈良朝以後、形骸化していった。それを川面は自ら復興させ、それは現在の神社神道の禊行の雛型となっている。

 川面が禊行を復興できた背景には、彼の神秘的体験があったと説明されているが、ある古書の存在から説明することもできる。平田篤胤の『玉襷』には、彼が京都で貴重な古書を発見したときのことが書かれている。篤胤が値を聞くと、五十金だという。高額だが是非とも手に入れたいと思った篤胤は、そのまま宿に帰り、懸命に金の工面をして店に引き返した。ところが、時すでに遅し。タッチの差で筑紫の人が買っていったという。この筑紫の人こそ、川面の祖父だったのである。その古書には、奈良朝以前の日本神道の秘事が書かれていたとされている。

 阪本健一が「千歳にして一人、否不世出の宝器であらう。恐らく弘法大師や伝教大師に役小角の神秘力を加え、眼を宇宙、世界に向けた偉才と云ふべきであらう」(『今泉定助先生研究全集 第一巻』日本大学今泉研究所、昭和四十四年、三百三十五頁)とまで書いた川面の神秘力は、その古書によるものでもあったのではなかろうか。いずれにせよ、川面は禊行の実践とその理論化に大きな功績を果たした。

 川面は、人間を直霊(宇宙の普遍的な根源の意識)、和魂(精神)、荒魂(肉体)の位階でとらえ、一切のものの中に直霊が存在し、すべてはこの直霊によって霊的に結ばれているとした。肉体は「八十万魂」と呼ばれる、無数の魂の集合体だが、それら無数の魂が主宰統一されていないと、分裂して自己我が現れてくる。禊行の主眼は、この「八十万魂」に侵入してきて、全身の統一を失わせる禍津毘を制御することにほかならない。

 川面が確立した禊行を体験するため、筆者は六月六日早朝、東京都練馬区にある稜威会本部道場を訪れた。武蔵関公園に隣接する敷地は、豊かな自然に恵まれ、修行に相応しい場所だ。早速白装束に着替え、白鉢巻を締めて教典を準備、先導役の道彦から説明を受ける。水行に先立ち、道彦の先導により、祝詞をあげ、振魂、鳥船、雄健、雄詰、伊吹へと進む。

 振魂は、瞑目して「大祓戸大神」と連唱しながら、玉を包むように右手を上にして掌を軽く組み合せ、連続して上下に振り動かす動作である。鳥船とは、神代にあった船のことで、掛け声とともに船を漕ぐ運動をし、心身を鍛練する。川面と交流のあった蓮沼門三が明治三十九年に設立した社会教育団体「修養団」も、この鳥船運動を採用している。一方、海軍軍人で、慈恵医科大学の創始者として知られる高木兼寛は、川面の禊行に参加し、川面の説くところが医学的に効果のあることを確認、行事を簡素化した「艪漕ぎ運動」を案出している。

 雄健は、足を開き、両手を腰に当て、道彦の発声に従って「生魂・足魂・玉留魂」と、一声ごとに気力を充実させながら唱える。言霊と呼吸法により心身と霊魂を浄化統一する所作だ。

 続いて、雄詰。左足を斜前に踏み出し、左手は腰に当て、右手の親指、薬指、小指を曲げ、人差し指と中指を伸ばして天之沼矛に見立て、「イーエッ」の気合とともに斜左方に切り下ろす。この動作によって、全身の統一を失わせる禍津毘を制御する。右手を戻す際には、禍津毘を救いあげて、直霊に還元して天に返す。伊吹は、息を吐きながら両手を拡げて差上げ、徐々に手を下げながら、大気を丹田に収めるイメージで息をゆっくり吸い込む。川面は伊吹について、「鼻より空気に通じて宇宙根本大本体神の稜威を吸ひ込み、腹内より全身の細胞内に吸ひ込みて、充満充実」させると書いている(『川面凡児全集 第六巻』二百六十一頁)。

 ちなみに、川面は「日本神代心肉鍛錬法」において、仙法、道術、座禅などの呼吸法、臍下丹田の集気充足法が身体の健全や精神の安静を目指したものに過ぎないとし、日本神代の伊吹には、人類すべての「吉凶禍福盛衰興廃」を左右するものとして息気を解釈する視点があると強調している。例えば、弱い呼吸の人の周囲には微弱な空気だけが充満し、その人は微弱な身体になってしまうといい、弱い呼吸を戒めている。また、声と気とは本来一体だと説いている。

 振魂、鳥船、雄健、雄詰、伊吹を経て、私たちは道彦の先導で屋外に出て水行場に向かった。そして、貯められた井戸水を使って、掛け声とともに、数分間水を浴び続けた。少なくとも心身の穢れが一掃された気分だけは味わうことができた。

 川面によれば、全身全霊で浄化、調和、統一、神化という神事を厳修するうちに、やがて鎮魂の妙境に入る。その境地においては、直霊が覚醒し、前世、前々世、と過去へ螺旋的に遡り、創造神である天御中主太神に到達・還元する。また未来へと螺旋的に宇宙の根本本体である天御中主太神に達するという。川面は「主観客観全然一変し、有我無我を超絶したるの霊我、神我として、その和身魂の五魂五官が開き、……顕幽漸く感応道交し、初めて神と念ひ、神と語り、神と行ふことを得るの鳥居を窺ひ得たるものとなします」と書いている(『全集 第一巻』六百三十六、六百三十七頁)。

 川面は禊行の復興者として名高いが、個人の救済のためだけに、行を普及させようとしたわけではない。彼には、祖神の真髄を会得せずに、個人の在り方、社会の在り方、世界の在り方を考えることはできないという信念があったのだろう。そうした川面の立場は、後に彼が設立した古典攻究会趣意書にある次の一節に明確に示されている。

 「祖神の真髄を会得せず、徒にこれを崇拝奉祀するはあやまれり。祖国の渕源を理解せず、徒に国家の経綸を叫ぶはあやまれり。天津日嗣の由来を解得せず、徒に忠君愛国を唱ふるはあやまりなり。……わが国神代の垂示たる古典は、宇内万邦、唯一無比の一大宝典として、世界にむかひ、大に誇りとするに足る」

一切の諸教諸学を総合統一した「大日本世界教」

 川面は文久二(一八六二)年四月、大分県宇佐郡両川村小坂、宇佐神宮の近くで生まれた。父川面仁左衛門は大百姓で、造酒業、呉服業も営んでいた。母八津子は信仰篤く信義を重んじる賢婦人で「凡児」という名はこの非凡な母に対しての称とされる。

 川面は十六から十八歳にかけて、豊後の国に名高かった涵養塾で漢学を修めた。明治十二年三月に塾を辞めると、郷里の馬城山に入山し修行したという。馬城山は宇佐神宮の裏に位置し、古来宇佐神宮の本体とされてきた霊山である。この修行の際に川面は仙童から奈良朝以前の禊流の秘事を直授されたとも伝えられる。

 明治十八年、川面は「古今独歩の政治家たらずんば空前絶後の大哲人たらむ」という青雲の志に燃えて上京する。苦学するうち、涵養塾時代の友人で、当時小石川の伝通院にいた中島文徴と出会い、その紹介で伝通院六十六代目住職の松濤泰成と巡り合った。川面は、松濤から一切経を貸し与えられ、それを三度読破したいという。

 明治二十年に父仁左衛門が死去したのを機に一家は上京、すでに上京して苦学していた川面と寄居をともにすることになる。母八津子は大正七年一月に死去するまで、定収入のない川面を助けて内職を続けたという。

 この間、川面の信仰心は急速に強まり、宗教大(現大正大学)学長などを務めた黒田真洞に師事して仏教の研究に傾倒していった。黒田に見込まれた川面は、翌明治二十一年には伝通院に一室を与えられ、仏教書の本格的な研究を開始する。さらに、当時の名僧、福田行誠、森田悟由、高津柏樹、勝峰大徹、原担山らとも交流した。

 明治二十五年に伝通院に縁の深い淑徳女学校が設立されると、川面はその教壇に立ち、三十二年まで教鞭をとった。彼は、自宅で毎日神様と仏様を一時間以上も拝み、学校でも常に合掌していたという。そのため、生徒たちも、自然と合掌するようになった。

 教鞭をとる傍ら、川面はジャーナリストとしても活躍している。明治二十九年頃には、自由党の党報を主宰、その後明治三十二年には『長野新聞』の主筆に就いた。さらに『熊野実業新聞』の主筆を経て、明治三十九年まで各新聞雑誌に寄稿する時代が続いた。

 明治三十九年春、ついに川面は宗教人として立った。東京の谷中三崎町に「大日本世界教・稜威会」(大正十年に社団法人稜威会となる)を旗揚げしたのである。その目的として、「信仰を統一し、解釈を統一し、実行を統一し、世道を解頽を救ひ、人身の腐敗を救ひ、以つて個人を統一し、家庭を統一し、国家を統一し、世界宇宙を統一し、各自按分平等の自由幸福平和を獲得せしめん」ことが掲げられた。ここには、日本の神道が一切の諸教諸学を総合統一した全神教だとの信念が示されている。ただし、彼は次のように説いている。

 「日本より全神教を唱道実行するが故に大日本世界教なれども、支那より全神教を唱道実行する時は大支那世界教なり、乃至英仏独米等より全神教を唱道実行する時は大英国世界教なり、大仏世界教なり、大独世界教なり、大米世界教なり。世界の民族は全神教たらざるべからず。世界教たらざるべからず。その名と言語と文字等を厭はゞ自国の言語、自国の名称、自国の文字に依りて唱道実行すべし。然れども苟しくも全神教を唱道実行するときは、その名称、言語、文字こそ異なれ、必ずや日本民族の宇宙観たらざるべからず。然らざれば全神教とするに足らず、世界教とするの価値なきものと知れ」(『全集 第六巻』六百七十八頁)。

「日本神道に一新紀元を画す」

 彼は、古神道の奥儀を極めただけではなく、仏教、中国思想、西欧の宗教、思想に関する広範な知識を備えていた。キリスト教、ユダヤ教、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、スピノザ、シェリング、ライプニッツなどにも精通していたのである。さらに、柔道、剣道などの奥儀も極めていた。だからこそ、行を通じて体得した独自の宇宙観を理論的に説明することができたのではなかろうか。

 川面の宇宙観は、天御中主太神を人類万有、人生宇宙の大中心点の大自観ととらえる。天御中主太神から「生霊・足霊・玉留霊」の三霊となって分泌分出するのが「稜威」(霊出づる/三出づる)であり、それが宇宙万有、人生人類を天照発顕ましましつつあるとする。こうした宇宙観を体系的に説明したのが、大正二年に刊行された『日本民族の宇宙観』である。海軍の秋山真之はそれを一読し、「祖国にかかる道があるか」と長嘆し、川面に帰依したという。

 川面が多くの有力者の尊敬を集めていたことは、あまり知られていない。川面に引き寄せられた御岳教の管長神宮嵩寿は、管長職への就任を依頼したが川面はそれを断っている。ちなみに、出口王仁三郎は明治四十年から御獄教西部教庁に迎えられ、大本庁の理事になったが、神宮嵩寿が神懸りして綾部大本に戻るよう説示したとされている。

 平田篤胤没後の門人で、皇国学の振興に尽力した井上頼圀も、川面に注目した。井上は川面の話を聴いているうちに、古事記や日本書紀が世界唯一の神典であることがわかってくると嘆賞し、長男頼文をはじめ、国学院の弟子たちを大勢連れてきたほど傾倒していた。皇学に造詣の深い井上真優のような人物も、川面の説を聞くや、即座に会員になった。

 玄洋社、黒龍会に属していた本城安太郎も、川面の活動を支えた。大正元年八月に、川面は夏の禊の先駆けとして、軽井沢の山奥、双見狭霧の滝で禊行を行ったが、もともとこの付近は本城が所有していた土地で、片瀬の大寒禊に尽力した愛敬利世が購入して、稜威会が使用できるようにした。

 この年十月二十六日には、本城の紹介によって、旧神祇伯家の白川子爵が川面を来訪している。白川子爵は、白川門下に入るよう勧めたが、川面はこの誘いも断っている。後に白川は、「川面は実におかしなことで、宮中以外に知られぬことまで知ってをる」と知人に漏らしたという(金谷眞『川面凡児先生伝』みそぎ会星座連盟、昭和十六年、百八十五頁)。

 一方、大正二年から十五年まで、三多摩自由党壮士の指導者、森久保作蔵は稜威会の発展に尽力している。森久保は、玄洋社の来島恒喜が明治二十二年十月に条約改正に反対して大隈重信に投擲した爆弾を調達した人物である。

 大正三年は稜威会躍進の年となった。川面は、秋山真之のほか、法学博士鵜沢聡明、海軍大臣八代六郎、検事総長平沼騏一郎らを前に講演の機会を得、川面の名が有力者層に浸透する端緒となった。これを受けて同年十二月に、川面の講演会を開催し、その講義録を出版することを目的とする「古典攻究会」が、秋山、鵜沢らを発起人として、築地の水交社で発足した。その発会式には、八代六郎、秋山真之とともに、頭山満、杉浦重剛らも顔を揃えた。ここで杉浦は次のように語っている。

 「川面先生には本年九十歳になられる御老母があつて、先生は今なほ独身で孝道をつくしてをられる。私が先生を知りまして二十余年の久しきになりますが、先生は一日の如くに奉仕してをられる。先生の如き忠孝の御実行があつて、然る後に、神ながらの道を御講じになるといふことは、洵に当を得てをることとおもひます」(前掲書、二百五、二百六頁)

 古典攻究会が大正六年一月に静岡県興津で開催した寒禊には、全国から教育者、陸海軍将校、神職など百十余名が参加している。同年三月、京都八坂神社で古大社の宮司を集めて行なわれた古典攻究会は大成功を納め、川面の名は神道界で認知されるに至った。決して楽な道のりではなかったに違いない。金谷は「青年時代よりあらゆる艱苦欠乏に堪へ、食ふに食なく、着るに衣なき境遇を突破して、永く忘れられたる、祖神の垂示を闡明し、もつて日本神道に一新紀元を画した」と川面の歩みを振り返る。

 秋山真之は毎月二回の古典攻究会例会に必ず列席するほどの力の入れようだった。秋山が、交流のあった葦津耕次郎に川面の真価を説いた結果、耕次郎は大正六年三月に、正式に川面の門に入った(西矢貴文「大正期の葦津耕次郎」『神道宗教』平成十九年一月、三十三頁)。

 川面と耕次郎の関係から、今泉定助も川面へと引き寄せられていった。大正十二年、大寒禊の最中、全国神職会幹事の秋岡保治とともに、今泉は川面を訪問している。以来、今泉は川面の思想に学びながら、国体論へ行的境地を導入していくための模索を続け、独自の皇道思想を確立する。今泉は、大正十四年には自ら会長を務める神宮奉斎会で川面の禊行を採用している。

 この間、大正十年七月九日には、頭山満、杉浦重剛らが発起人となり、内務大臣官邸で川面の講演会が開催された。「宇宙根本原理と日本国民性」と題し、肇国の大精神から、宗教体系、哲学体系、科学体系について説明、聴衆に大きな感動を与えた(『川面凡児先生伝』二百八十三頁)。同年十二月には片瀬で全国の神職を対象に、内務省神社局の高官を迎えて冬の禊を開催している。

 ドイツの東洋学者ニヤナチロカ、オーストラリア人霊能学者フランク・ハイエットら、川面との面会を求めた海外の思想家は少なくない。明治二十九年には、インドからダルマパーラ(拙著『アジア英雄伝』展転社、平成二十年、八十─九十四頁)が来日し、その神通力を誇示したが、川面には一目置かざるを得なかった。さらに、昭和二年春には、納札の蒐集・研究で知られる、アメリカの人類学者フレデリック・スタールが川面との面会を求めた。

「世界皇化」論の源流としての川面の国体思想

 川面は、社会思想の面でも、独自の主張を唱えた。七百頁を超える大著『社会組織の根本原理』では、組合、土地配分、企業などについて独自の思想を展開している。あくまで、それらの議論は宇宙の真理に基づくものであり、西洋近代の人間観とそれに支えられた政治経済の在り方に対する根源的批判となっている。例えば、近代経済について、「在来の経済は個人経済より出発したる基礎であると共に、個人にのみ集中するを目的としたるものにして、云う換うれば利己的経済である。…利己的経済にて人間の安定するものでない。利他的経済にて安定するのである」と説いている(『全集 九巻』二百五十九頁)。

 このように、理想的社会組織の在り方を提示した上で、彼は「国民は精神的にも歓喜し、肉体的にも勇躍し、心肉不二一体に活躍活動し、その国家は太陽の天に沖するが如く興隆し来り、世界万国の羨望する所となり、悉く則を我にとり、範を我に習い、独り自国を救済するのみならず、世界列国の救済し得る結果を顕す」と主張した(前掲書、二百八十八頁)。川面にとって、宇宙の真理に基づいた日本国体の真髄は、世界に及ぼすべきものであった。彼は『建国の精神』において、天皇(スメラミコト)とは「スベル(統べる)ミコト」という意味であるとし、「天皇は世界人類を統一し、世界人類は天皇に心服同化するという意味なのである」と書いている。ただし、ここでいう「統一」とは、武力による征服などでは毛頭なく、「彼より我の後を慕ひ、我の威厳を仰ぎ、我の助成、我の擁護、我の統治を求めつつ我に心服し、我に同化し来るものを、居ながらにしてこれを統一主宰する」という意味である。今泉定助が終生説いて止まなかった「世界皇化」論の源流がここにある。

 彼は、行を通じて到達した独自の思想を記録することに並々ならぬ決意で取り組んでいた。大正十一年頃から、余命は長くないと感じるようになり、各地の禊指導の間にも寸暇を惜しみ、著作の執筆を急いだ。同年六月十六日の日記には、「われはその神勅神命に従うて、為し得るものを為すべし。われの為し得るものは、文章著作なり。文章著述なれば、われの自由になし得るものなれば、これ神のわれに命じたまふ証明なり。今はわれこの神勅神命をかしこみ、わがなし得る限りの文章著作に従事すべきのみ。文章著述をもつて、太神大神の大御心を述べ、後世子孫に遺すべし。後世子孫中に、よくわれの遺志を継ぎ、われに代りて国家世界を救済し、唯一無比の、この人生を煥発建設するに至るべきなり」と著述活動に対する使命感が明かされている『川面凡児先生伝』三百七十八頁)。

 昭和三年頃になると、周囲に死期の近いことを漏らすようになった。年末には箱根に篭り「この道を世にのこしたくおもふがに筆どりあかす谷の夜ながを」と詠んでいる。川面は、十巻に及ぶ全集にまとめられるだけの膨大な著作を遺した。

 翌昭和四年一月二日から六日まで、恒例の小寒禊が片瀬の浜で開催された。これが、川面最後の禊となった。同年二月六日に体調を崩し、十日には肺炎になった。十三日に危篤に陥り、一旦は小康を取り戻したものの、二十三日午後川面は六十六年の生涯を閉じた。

 昭和十四年二月二十三日、川面の十年祭が東京九段の軍人会館で挙行された。参列者は二千人を越え、総理大臣平沼騏一郎、文部大臣荒木貞夫、全国神職会長水野錬太郎の祭文奏上、鵜沢聡明、今泉定助による記念講演が行なわれた。同年十月には、伊勢神宮に参詣する人の禊場として「神都禊祓場」が設けられ、平沼騏一郎が会頭を務める財団法人大日本みそぎ会がその運営を担当することになったが、実質的には川面の弟子の巽健が取り仕切っていた。

 昭和十六年八月二日から五日間、神奈川県足柄郡の日本精神道場で、大政翼賛会主催の第一回禊が行われた。今泉定助門下の働きかけにより、採用されたのは川面の禊であった。これを機に、川面の禊は全国に広がり、今日の禊の雛型となったのである。

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