ベトナム・ドキュメンタリー文学紹介【連載】『私はお父さんの娘です』#1
ファン・トゥイ・ハー, ベトナム婦人出版社, 2020。
“Tôi Là Con Gái Cha Tôi” Phan Thúy Hà, Nhà Xuất Bản Phụ Nữ Việt Nam, 2020.
【訳者より】
著者のファン・トゥイ・ハーさんは、1979年、ハティン省フオンケー生まれ、ハノイ在住の作家で、ベトナム戦争後のひとびとの語りを丁寧に集め、書籍にまとめていらっしゃる方です。分野としては、ドキュメンタリー文学、というのでしょうか。本書は特に元南ベトナムの兵士だった方々のお話を中心に書かれており、これまであまり焦点が当たらなかったひとびとの「戦後」がありのままに伝わってくる作品です。聴き手と語り手が入り混じったような独特の文体も魅力ですが、日本語にした時にもうまく表現できているといいなぁと思います。元の書籍には写真は無いのですが、こちらでは著者から写真の提供をいただきましたので、本文最後に掲載しています。
※本文中、身体の障害に関する差別的な用語を使用することがありますが、原文を忠実に反映するため、そのまま掲載いたします。
◇ 目次 ◇
● まえがき ☚ 今回
● クオック・キエット ☚ 今回
● ザンおじさんと二人乗りした三日間
● フエへ
● カムロの母
● 「戦争が今まで続いていなくてよかった」
● チンおじさんの親指
● トゥオンサーの夜
● 「レンジャー野郎」
● 椰子の老木
● ホイトン寺の鐘の音
● サイゴンのバイクタクシー
● 女軍人
● 車いすの年老いた宝くじ売り
● 家鴨の卵のバーおじさん
● 私は疲れない
● カオラインの朝
● 「戦争は終わったのになぜ父さんはそんなに悲しそうなの」
● フエへ(再び)
● 傷痍軍人の歌声
● さようなら
● 私はお父さんの娘です
まえがき
この一年、私は南部に足しげく通い、かつて兵士だった方々にお会いしてきました。私に聴かせてくださったお話、私が見たことを書き留めました。
ここに書かれた物語は事実です。名前も、場所も。
私はお父さんの娘です。かつて兵士だった人の娘です。お父さん、あなたの娘は、かつて兵士だったおじさんたちに会いに行き、そこにお父さんの影を見ました。お父さんの魂と対話しているかのようでした。
私は我が子たちのために書いています。いつか、ある年齢に達し、必要があれば読めるように。読んでちょうだいね。著者はお母さんなのですから。
ここにあるお話は、皆さんはもうすべてご存知かもしれません。間近で見たもの、ともに過ごしてきたものかも。でも、私にとっては、初めて知ることでした。遅きに失したことをお許しください。
クオック・キエット
証書:
―傷病兵証
障害程度80%。右下肢上部1/3で切断。資格:生涯。1997年10月27日より発効。障害恩給受給資格有。
―除隊証書
ベトナム共和国(※訳注:旧南ベトナム)軍入隊1968年4月20日。1973年10月27日除隊。階級、下士。
―傷痍軍人扶助手帳
支給券番号1: 1973/10/27-1973/12/31 :18,600ドン
支給券番号2:受領日74/4、74/7、74/10 :18,600ドン×3=55,800ドン
支給券番号3: 受領日75/1 :24,480ドン
支給券番号4: 受領日1975/4 :24,480ドン
こんな書類、何にもならないんですけれど、父がずっと持っていたんです。もう父は亡くなりました。私、会社の方に引っ越して友人と暮らそうと思っています。こういうものをどこにしまっておいたらいいのかわかりません。代わりに持っていてくれませんか。
クオック・キエットはそう言って私に書類をよこした。
クオック・キエットとはフェイスブックに書かれた記事を読んだことから知り合った。
「解放後(訳注:1975年、北ベトナムによる南ベトナム「解放」のこと)四十年が経ち、あらゆる辛苦、あらゆる困難を経て、右脚を失い、加えていまでは両目の視力も失っている父ですが、おかげさまで現在も存在し、父親としての責務を全うしております。
現在は、痛みが父を疲弊させています。何度も病院に連れて行っていますが、手術費は私の手に負えない額です。
戦場にいたころの話を、長きにわたり父から聞いてきました。父は同じ隊にいた方々と会いたがっています。父の名前はダン・ヴァン・ティエン、軍籍番号69/127385です。負傷するまでの所属部隊は第7師団、第10連隊、第1大隊、第2中隊。私はクオック・キエットです。電話番号は…」
フェイスブックへの記載は2015年だった。読んだとき、夜中の十二時を過ぎていた。遅いとはわかっていたが、その人のフェイスブックにメッセージを送ってみた。返信があるかどうかはわからなかった。その人の父親が、そこに書かれた三年前の病状を抱え、今でも生きているかどうかもわからなかった。
午前三時、返信があった。「父のこと、関心を持ってくださりありがとうございます。今、父は入院治療中です。ただ、残された時間は長くないでしょう。父は様々な病気を抱えていますから。狭心症。肺がん。腰椎椎間板ヘルニア。それから最近は尿路がんも。残っている左脚には浮腫が出ています。もう食べられないので、栄養点滴をしています。」
病院のベッドに横たわる父親の写真が添付されていた。薄いブランケットがかけられている。片側の足先には、靴下がかぶせられていた。病室は清潔で、静かに見える。クオック・キエットはこの時間でも起きて父を看ていたのだ。
翌日、メッセンジャーを通して彼女からコールがあった。父は鎮痛剤を打ったばかりなので、私たちちょっとは長くおしゃべりできますよ。前の二回みたいに、父のうめき声で中断するってことなく。
父がトイレに行くときはいつも、痛みの少ない姿勢を探してあげて、支えます。父は重病だけど、家で寝ているしか無いんです。今年、父が入院できるように保険に入りました。父を連れて行った日、病院は受け入れを拒みました。ここは新しい病院だから、患者が死んで評価が下がるのを恐れている、って。私、約束しました。もしも父がこの病院で亡くなっても、私は黙って何事も無かったように車を呼んで連れて帰ります、って。
父の人生、あまりにも苦労が多かったから、人生最後の日々くらい、人間らしく生きてほしいんです。
父を入院させてくれました。お父さんの病状では、存在を長引かせるだけで、治療はできません、と医科長さんが言いました。私だってわかっていました。父が一日長く存在できれば、「父のいる私」が一日伸びるんです。
私はクオック・キエットに頻繁にメッセージを打ち、父親について尋ねた。
お父さんはどう。はい、いつも通りです。
あなたのお父さん、どう。はい、変わりありません。
ねえ、クオック・キエット 、あなた今、泣いていたんでしょ。ああ、私、もうどうしたらいいかわからないんです。父がここまで生きられたこと、父はものすごく頑張ったと思います。でも私、父に死んでほしくない。私の人生、父しかいないから。父以外に、何の希望もないんです。
来週、お父さんのお見舞いに行くわね、と私は彼女に言った。
四、五歳のころ、赤いキャッサバの葉に、食べても有毒ではない種類があることをすでに知っていました。垣根のところに行ってその葉を摘んで帰り、父にスープを作りました。六歳の時にはもう、父と宝くじ売りをしていました。父は自転車の荷台に座り、一本脚でこぎ、もう一方の脚は泳がせていました。私は父の横を歩きます。三年生になると、私ひとりで宝くじを売りに行きました。父は家にいて、竹細工の注文を受けていました。父は没頭して一日中編んでいました。夜中、目が覚めると座って編んでいる父の姿が見えました。父はいつも家の中。沈黙していました。
私は朝から昼の十一時まで宝くじを売ったけれど、十枚とか、十五枚とかしか売れない日もありました。昼過ぎになっても私が帰宅しないと、父は探しに来て、帰って学校に行くように言いました。私はいつも遅刻をしていました。五年生の先生は私の状況をわかってくれ、前の担任の先生たちのように叱ったりしませんでした。放課後、私は学校から鞄を持ったまま宝くじの代理店に行き、夜十時まで売って、帰宅し夕食をとりました。
六年生になると、父の両眼はもう何も見えなくなっていました。私は学校をやめました。宝くじ売りもやめ、よりお金をもらえる、氷を各店舗に届ける仕事につきました。夜中の一時に起き、七時まで働いて帰宅し、寝ます。ひと月九十万ドンもらえ、父と子が生きていくには十分でした。
学校をやめてしばらくして、補習クラスに行かせてもらいました。中学卒業証書も、高校卒業証書も持ってます。工場の労働者になりました。工場で働いている期間は、職業訓練学校にも通いました。授業の後は食堂に行って、皿洗いや給仕をしました。働いた分は食事で支給されるんです。ガス会社のチラシ配りでも何万ドンかもらえました。
お父さん、どう。ええ、私、今家に帰って洗濯してます。
誰がお父さんを看ているの?おばさんです。
おばさん?
ええ。父の友人です。父の友人だし、父の最初の奥さんとも言えます。
どういうこと?
それまでの会話で、私はクオック・キエットが父親以外の誰かについて語るのを聞いたことがなかった。
おばさんのことは一年ほど前に知りました。
おばさんと父は、父がまだ軍隊に入る前に出会いました。父はビンズオンからビエンホアに行き、働いていました。おばさんはお葬式のラッパ吹きの娘でした。父は葬式に参列して村の若者と殴り合いのけんかになり、そこでおばさんに会ったんです。おばさんはたくさんいるきょうだいの一番上でした。おばさんの家族はみんな父のことが好きでした。その後父は軍隊に入り、脱走してビエンホアでペンキ職人をしました。おばさんと父は短い期間一緒に過ごしましたが、父は捕まり、また軍隊に入りました。二度目の入隊で、父は負傷しました。除隊され、父はおばさんを連れてロンカインで暮らしました。父が言うには、1973年、除隊された後、ロンビンの部隊の人たちが機械を持ってきて父が畑をするために土地をならしてくれたので、父には大きな土地があった、とのことです。けれども父が再教育キャンプに行って帰ってくると、その土地はすべて他人のものになっていました。父とおばさんは別の場所でさとうきび畑を開墾しました。さとうきびが収穫の時期になると父はまた捕まって「再考査」されました。次に戻ってきたときは、おばさんも父のことを待ってはいませんでした。父はおばさんを探しに行ったけれど、おばさんは戻りませんでした。おばさんは子どもが産めないので、父に別の人を探してほしかったのです。その後、父は母に会いました。二人は結ばれました。私が五歳の時、母は出ていき、私は父のもとに残りました。
その時から最近まで、おばさんとお父さんは会わなかったの?
ええ、その通り。去年、父は初めて私にこの話をしてくれたんです。おばさんを探してほしいと。
父はおばさんの住所を私に読み聞かせました。もしおばさんに会えなかったら、おばさんのきょうだいたちの家に行ってごらん、と。
おばさんは、ご両親が残した家にひとりで暮らしていました。私が訪ねると、おばさんはすぐに気づきました。親戚の人たちもみんな私のことを知っています。ティエンさんのお子さんだろう、ってそう言われました。
父の、これまでの年月についておばさんに話しました。おばさんは黙っていました。その午後ずっと黙っていました。私が帰るときになってようやく、お父さんは今どこにいるの、と口を開きました。
翌日の昼、おばさんは父を訪ねてきました。
父はハンモックに横たわっていました。おばさんは、菅笠をかぶって入ってきました。私はびっくりしてしまって。何か用事を探し、二人を残して出かけました。
おばさんが再会した時の父の状態は、すっかりやつれていて、その眼はおばさんを見ることができませんでした。
ふたりが何を話したのかはわかりませんが、おばさんは父の傍に昼からずっと座り続け、夜になってようやく帰っていきました。一週間後、おばさんはまた来ました。その一週間後もまた。半年くらい行ったり来たりしていましたが、ついには父と私のところに引っ越してきました。おばさんが来たのは、父の病状が重くなった時でした。おばさんは父の世話をしました。
おばさんがいなかったら、私、この日々をどう過ごしたらいいかわからなかった。
私、父を連れて帰ろうと思います。病院は父を集中治療室に入れるというんです。長引かせるだけ。父の痛みを長引かせ、おばさんと私の苦悩を長引かせる。
お金のことも、私、もう無理なんです。
私、この件をおばさんと話し合いました。今晩中に父を家に連れ帰ります。
午前二時、クオック・キエットは私に写真を送ってきた。蛍光灯のぼやけた光の中、小さなベッドの上、父親がおばさんの隣に横たわっている。父親の手はおばさんの身体の上に投げ出されている。
前に彼女が言っていたのを思い出す。父は手で探っておばさんがいないと呼ぶんだ、と。病院で、おばさんは食事も父の床の上で食べるんだ、と。おばさんは常に声や音を出して、父にひとりじゃないと感じさせていないといけないんだ、と。
父が亡くなりました。
その翌朝、メッセージがあった。私に最初に連絡をくれた。父は2018年9月18日午前7時20分に逝去しました。
今は、おばさんが父と家にいます。私は役所で父の死亡証明手続きをしています。
私は彼女の父親をまだ見舞っていなかった。
一週間後、私は約束通りに南部に行った。サイゴンからバイクでドンナイに向かっているとき、クオック・キエットはタムヒエップのロータリーで出迎えてくれた。
私、父が亡くなってから今まで家に帰っていません。帰ると父を思い出すから。悲しくてとても耐えられない。
クオック・キエットは今、ある多目的洗剤メーカーの商品を売っている。ひと月の収入は四百万ドン。ここのところずっとネット販売をしていた。父の日々の世話をする時間を確保するために。近々、ほかの省にも足を延ばし、顧客を増やしたいとのことだ。
彼女が連れて行ってくれた家は、長い時間だれも住んでいなかったようなにおいを放っていた。一枚の壁が、空間のこちら側とあちら側を隔てていた。二つの部屋、と言えるようなものではなかった。
これが、父のベッドです。クオック・キエットはベッドの頭側に置かれている砂を入れた茶碗に3本の線香を立てていた。線香の器の隣には、おそらく父が亡くなった日からそのままのゆで卵が入った茶碗があった。ゆで卵はもう悪臭を放っている。線香は燃え尽きている。彼女は二つの茶碗を片付け、敷布団を引きずり降ろした。敷布団には、父があまりにも長い期間同じ場所に横たわっていたためにできた跡が残っている。おばさんが、この敷布団をとっておいてね、って言うんです。おばさん、持ち帰ってきれいに洗濯し、この敷布団で寝るんですって。
父のお葬式は、おばさんの家でしたんです。
ああ。
あなたの家はあまりに小さいものね。おばさんが、うちに連れていこう、その方がお父さん温かいから、って。それにあっちの家にはおばさんのきょうだいたちもいるし。私が役所にいる間に、おばさんはきょうだいの子どもたちに電話をして車をよこさせたんです。おばさんの親戚たちは父のことをおばさんの夫のように扱いました。みんな、家族の一員のように、手分けしてすべて手配してくれたんです。
でも、お父さん方のご家族は?
クオック・キエットは首を振った。その件については話したくない、というように。
下士階級で、1973年からの除隊証明があったのに、お父さんは再教育キャンプに行かなきゃならなかったの?
ええ。片脚も無いのにね。私もそれは理解できません。地方によってまちまちの判断があったのかも。父は不運なケースです。父の人生はあまりにも不運な出来事の連続なんです。
物心ついて、私、父の口の中には歯が四本しか残っていないことに気づきました。父が言うには、食べる物も足りなかったし、再教育キャンプにいた年月の終わりの方にはほとんど抜けてしまったよ、って。それを聞いて私も初めて知ったんです。父は何も言わなかったから。
父は、解放(訳注:1975年)から2013年まで公民権を失っていたんです。2013年に父の病状が重くなり、もうだめか、っていうときに、父の人民証明書(訳注:ベトナムの身分証明書)発給手続きをしにいきました。そんな時になって、なんで父は人民証明書が必要だったの、って思いますよね。でも、私が必要だった。父には死ぬ前に公民であってほしかったんです。ほかの誰もがそうであるように。役所で言ったんです。父の死亡手続きをするので、出生証明書を出してください、って。それを聞いてその人は、「そうね、もう何もできないのに、出さない理由もないわよね」、って。
もう何もできないのに。考えてみて。父は四十年近く公民権が与えられなかった。その前に負傷して。その前は兵隊に行って。父に、彼らが恐れるような「何かができる」としたら、どの期間のことなのかしら?父の中に私が知らない危険な人物が潜んでいたとでも言うのかしら。
私自身もそうでした。十八歳の時に人民証明書を作りに行ったんですけれど、二十三歳になってようやく受け取れました。役所は私に交付通知書を渡しました。五年間待つ間、私はその紙を持ってたぶん五十回くらい役所に行ったと思います。いつ行っても、まだできていない。「まだできていない」、なんです。「できない」、じゃないんです。私は学校に行くときも、就職活動をするときも、ほかのありとあらゆることで人民証明書が必要な時にはその交付通知書を代わりに持っていきました。その紙もすっかり黄ばんで。私が書類提示の際に交付通知の紙きれを取り出すたびに、みんなうっとうしそうにしていたわ。
なぜ父が家族から追い出されてしまったかって?それは、家族が抱える悲しみです。
何か覚えていないかと問われれば、八歳の、ある午後のことが私の頭に浮かんできます。
父は殴られました。血が、父の頭から顔に流れていました。私はただ立って見ていて、泣いていました。父は診療所に運ばれました。その後、父はハンモックのついた車に乗せられ帰宅しました。庭まで来ると、父はまた引きずりおろされました。用水路の方に引っ張り出されて。父は用水路に放り込まれました。ドリアン畑の傍にある用水路に。
傀儡の不具野郎。その言葉が私の脳裏に深く焼き付いています。
びっこ野郎は、お父さん 。傀儡の不具野郎は、お父さん。あの用水路に横たわっている人は、お父さん。
夕暮れ時で、近所のひとたちは食事中でしたが、食べかけで飛び出して、見ていました。ただ見るだけ、誰も止めません。最年長のおじさんが最後に走り出てきました。おじさんは用水路に飛び降りて、父を担いで家に連れ帰りました。父は朦朧としていました。
父はその日から死んだんです。父は自分を死んだとみなしました。死んだように生きました。
まだ小さかったので、大人の話はよく分かりませんでした。私はクオック・キエットが話すのを聴いていた。彼女とともに悲しんだ私は、もっと悲しい話をここに書きたいとは思わない。
クオック・キエットが帰宅しているのを見て、近所の人がやってきた。
どなたかしら?
ハノイの記者さんよ、調べることがあっていらしたの。父の記事を書くのよ。
ご近所さんはニンビンの人だった。家を買うために北部から来たばかりとか。親しそうな話しぶりから、彼女の家を頻繁に訪れているらしいことがわかった。
あらまあ、何でもっと早く来なかったの。お二人は本当に素敵よ。このおしどり夫婦の愛の物語を書いてくれる記者さんの電話番号、どうやったら手に入るのかしらって冷やかしていたんだから。
おばさんをご存知なんですね?
私ここに来ない日は無いのよ。あんなに仲良しなのに、死ぬ間際になってから探し当てるだなんて。ここに来るといつもおじさんは寝床に横になって、おばさんは隣のハンモックにいて。あんな話こんな話、語り合っていたわ。おしどりがさえずり合うみたいに。おじさんたら、おばさんが市場に野菜を買いに行くだけでも落ちつかなくなっちゃって。すぐ、フオン、フオンはどこだ、って呼ぶの。人生の最後にあんな時間が持てたなんて、おじさんにとって喜ばしいことよ。
私の父の話は、そんな感じです。
父には私がいた。私は父の友人。
私にとっても、父は友人だったんです。わかるかしら。宝くじ売りをしていた時、ぼうっとしている男の子に会いました。宝くじの売り方もわからない、売ってもお金のもらい方を知らない、いつも取られてばかりいました。その子の父親も私の父とおんなじ。でもあちらは家も無かった。他人の家の軒先で暮らしてた。父親が亡くなった後、あの子はどうしたかしら。あの人たちのことを考えると、自分たち親子は幸せだな、って思うんです。
人はどんな状況に暮らすことになっても、比較、というものを持ち出すらしい。なんと前向きなこと。そしてなんと心が痛むことか。
お父さんは何か残したの。いいえ。おばさんが集めて全部燃やしました。私はギターをもらいたかったんだけど、おばさんがだめだって。兵隊に行っていたころから使っていたギターなんです。仕事から帰ると、父がギターを抱えておばさんのために歌っている姿を何度も見ました。「夢を見た。僕らはささやきながら家路につく。誓いのびんろう樹のあるかつてのふるさと。僕は乾いた草の上を歩く君に手を添える…」(カントーの夕暮れ―Chiều Tây Đô―ラム・フオン)。その時の父の顔は深い悲しみに沈んでいました。私、たぶんあの歌をまた聴けるようになるまで、すごく時間がかかると思います。おばさんがあのギターを燃やしたのは、見たら嗚咽がこみ上げてくるから。
Chiều Tây Đô - Hoàng Thục Linh | "Âm Nhạc & Đời Sống"
義足は持っていようと思ったんです。でも納棺の時、それを入れてやらなくっちゃお父さんはあっちでどうやって歩くんだ、って言われたんです。
あっちにいっても父は「びっこ野郎」なんですかね。
びっこ野郎。父には名前があったけど、人はびっこ野郎と呼びました。小さいころ私が市場に行くと、おばちゃんたちに聞かれました、この子は誰の子。ああ、びっこ野郎の子に決まってるじゃない。
クオック・キエットに、おばさんに会いたい旨を伝えた。やめときましょ、おばさん今、辛いんです。父が亡くなってから携帯も切ってしまっているの。必要ならおばさんから電話するから、って言われてます。おばさん、私に悲しんでいる顔を見られたくないの。
私たちが話している間、二匹の猫が部屋の中でじゃれあっていた。一匹は黒猫で、もう一匹は脚が不自由だった。近所の犬に嚙まれたから。親しみを感じてくれたのか、一匹が私の足に体をこすりつけてくる。もう一匹は胸に飛び込んできた。
父の猫なんですよ。
あなたがいないとき、猫たちのえさはどうしているの?
あらかじめおせんべいと水の茶碗を置いていきます。
かわいそうな二匹の猫。ひと月後、クオック・キエットから知らせがあり、黒猫が死んだという。近所の犬に噛まれたから。残った脚の不自由な猫も、同じ犬に噛まれて二週間後に死んだ。
私、父が亡くなったことをザンおじさんに電話で伝えます。それからあなたのこと、おじさんにご紹介しますね。
ザンおじさんってどなた?
ザンおじさんは、時々父を訪ねてきていた人です。おじさんなら、あなたの記事の参考になるようなこと、知っているかも。
買ったばかりで、父が使わなかった新しい車いすがあるんです。私、ザンおじさんにお願いして、どなたか必要な方がいらっしゃらないか聞いてもらうつもりです。差し上げたいの。
私は、クオック・キエットに渡された書類の束をしまった。ゴックさん、フエさん、ドンさんの写真や手紙、思い出の品が入った棚に、今、彼女の父の書類が加わった。
これらの品々を、私はいつまで保管できるだろうか。
🍂
先日の旧正月の前、クオック・キエットにメッセージを送った。もう一度読み直してみてね、どこか修正すべきところがあるかしら。
私、今病院にいるんです。薬のため、木曜日から 。
どういうこと?
これまで言わなくてごめんなさい。私、このことは父にも言っていないんです。以前、交通事故に遭いました。失血が多かったので、病院で輸血を受けたんです。運悪く、ウイルスに感染 してしまいました。いつも旧正月近くなると、父に仕事に行くと嘘をついて治療を受けていたんです。
もう四年経ちます。毎年一回注射を打ってもらうんです。おかげで血液検査の指数も下がっているけれど、注射をやめたら以前のように上がってしまうの。注射をすると血圧が異常に上下して、ひどく調子が悪くなってしまって。だから入院して、状態が安定してから帰宅します。毎年ここに入院するたびに、お父さんは何を食べているかしら、と心配ばかりしていたけれど、今は安心して寝ていられるわ。
(了)
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