人生が私たちに求めているたった一つのこと

人生とはなんだろうか、ってことを以下のノートを読んで考えた。

かぐや姫の伝承|kunotandesu|note(ノート)https://note.mu/kunotandesu/n/n9181fcf7e240

ノートの中で、人は罪人としてこの地球に来ているのかもしれないという考察があった。

たしかにそう考えるとしっくりくることは多々ある。例えば転んで頭打つとかちょっとしたことで人は死んだり、障害を持ったりしてしまうナイーブさは、積み上げてきたものがあっけなく無くなってしまうという罰かもしれない。

表向きは、法に触れることをやれば罰せられるというのも、世の中がゲームのように楽しむことを前提に作られているというより、罪人が悪いことをしないように法でしばりをかけているような感じがする。

週5日働けば、2日だけ休めるというのが普通の人の生活スタイルだというのもそうだ。休憩や余暇で楽しむことがメインなのではなく、刑期を果たすかのような労働をすることがメインという罪人の生活そのものな感じだ。

たまに働かなくてもいい大金持ちやニートがいるが、そういう人たちも病気になって辛い思いをしたり、老いていくことでボロボロになっていく体の苦しみを背負う必要がある。そして身近な人の死や自分自身の死からは逃げられないのも、積み上げてきたものが無になってしまうという刑罰を味わっている感じもする。

竹取物語ではない他の例でいうなら、鎌倉時代の僧、日蓮も、自分がこの娑婆世界にいるのは法華経(正義の法)を犯したからだというようなことを言っている。その謗法によって第六天魔王の支配する無常の娑婆世界にいると。

しかし、日蓮は法華経の行者という、法華経のために行動する人間になればこの世界がすぐに理想の世界になると説いている。

ではこの大変なことの多い罪人たちの住む娑婆世界を、罪のない真っ白な人間として、希望を持って生きていくための法華経=正義の法とはなんだろうか。罪障消滅(ざいしょうしょうめつ、つみをなくすこと)して楽しく生きていくことは可能なのだろうか。

生きていく上であれば苦しみが減るというものがいくつかある。お金、健康、人間関係、安全、心の平安などだ。その中でも心の平安さえあれば、たいていの苦しみの中でも楽観的に生きていける。脳科学者の茂木健一郎は脳は楽観的でなければフルパワーは出せないというようなことを言っていたが、心の平安を保ち、基本楽観的でいれば、自身のフルパワーが出せてお金を稼ぐのにも近道がわかるし、健康になりやすいし、人間関係も良好になるし、事故にあう確率も減る。

つまり法華経=正義の法≒心の平安というわけで、この世界の法律とは、心の平安を保つことで生まれ持った刑罰を無効化することができるというものだ。

では心の平安はどのように確立されるのかというと、最新の科学では、仏教の教える瞑想を元にしたマインドフルネスという手法で、この身と心の罪人化状態から解き放つ可能性を説いている。先ほど話した日蓮の提唱するお題目を唱えるというのも、心の平安を作り出す手法の一つであろう。

罪人化状態から完全無欠の無敵状態へ。さまざまなやり方が考えられるが、基本的には世界は多くを求めてはいない。心の平安を保って、日々をその平安の心のままに生活することだ。それが人生が求めていることなのだ。それが罪を消して逆に世界から報酬を得るために必要なたった一つの大事なことなのだ。

以上のように完全無欠の無敵状態、宗教家戸田城聖のいうような「絶対的幸福状態=生きていることが楽しくてしょうがない状態」になりたい人は、マインドフルネスを学んだり、日蓮いうお題目を唱えることについて学んだりすればいいと思う。

私もまだまだ実験の道半ばなので、今後もこの理論が正しいか検証していきたい。

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