引越履歴-その3

 小伝馬町のビルに移転してからしばらく業績は順調だった。
 
 ところが、1990年に日本の株価が大暴落してバブルが崩壊し、その後証券業界を震撼させた損失補填問題が起きるなどして、証券業界に「自粛ムード」が蔓延した。
 
 その影響を受けて、わが社の大口顧客である証券会社の研修予算が大幅にカットされることになった。
 
 当時、わが社は証券会社の研修以外にもいろいろな業務を行っていたものの、やはり大口のお客様の売上高が半減するような変化に耐えることのできる体力はなく、せっかく意気込んで引っ越した小伝馬町のビルから出ていかざるを得なくなった。やはり月に400万円の家賃負担は重荷だった。
 
 次に引っ越したのは、スーパーマーケットが入っている古いビルの4階で、そのスーパーマーケットが大家さんだった。ビルは古びていて、エレベーターは乗るたびにギシギシと音を立てた。
 
 引っ越し先のオフィスは50坪ほどで、小伝馬町のビルの半分になったため、以前使用していた机・椅子・応接セットなどはもったいなかったがずい分捨てた。
 
 まさに「都落ち」という感じだった。
 
 しかし、ただ単に収益が減少しただけなら、程度にもよるが、身を縮めてじっとしていればそのうち回復することも考えられたのだが、わが社の場合には、そこに人間関係が絡んできた。
 
 当時わが社の社長はHだった。Hはそもそも自分が取ってきた仕事なのに、私が社長でいることが不満だったらしく、証券会社の研修が始まってしばらくした段階で社長を交替するように主張し、私は会長に祭り上げられていた。
 
 さらに、順調に業績が伸びているうちは、良かったのだが、業績が下降しだすと、彼は他の役員に対して不満を漏らすようになり、役員間の人間関係がぎくしゃくしだした。
 
 私は「和をもって貴しとす」がモットーだが、Hはブルドーザーのように切り開いていくタイプで、ダメな奴は付いてくるなという方針だった。
 
 会社が順調だったときは、「良いコンビ」だったが、業績が下降線をたどるようになると、衝突することが多くなった。
 
 そのうち、Nが会社を辞めたいと言い出した。その時点で、私もHとは一緒に仕事ができないと思っていたので、彼を引き留めることはしなかった。
 
 結局、Nは税務部門の人間を引き連れて出て行った。その後しばらくして私も会社を退職することになった。
 
 会社には、優秀な人材が多く集まり、有意義な活動をしてきたのに、こんなことで空中分解したことが悔しかった。
 
 やはり、証券会社の研修業務のウェイトが高く、おんぶに抱っこになってしまったことが空中分解の最大の原因だと思う。
 
 あれだけ優秀な人材がいたし、いろいろな企業のつてもあったのだから、普段から危機意識を持っていれば、もっと別の仕事を獲得できたはずだった。
 
 会社を退職したことにより、私は今までやっていた証券会社の研修業務からは抜けることになった。研修業務は私が中心になって行っていたし、研修担当者とも良好な人間関係を築いていたので残念だった。
 
 ただし、私はHのことを少しも恨んでいない。恨むどころか、独立して鳴かず飛ばずだった私に活躍するひのき舞台を与えてくれたのは彼なので、その意味では心から感謝している。
 
 結局、私はわずかな税務の仕事と、証券会社の一部の関連会社の研修業務を引き継ぐことになった。一緒に仕事をしていた役員が自らのオフィスを間借りさせてくれることになったので、そのビルに引っ越した。
 
 私にオフィスを間借りさせてくれた役員は、当時、証券会社のある部門に出向しており、さらに、その後設立した監査法人の代表も務めていて、収益基盤がしっかりしていた。そのおかげで私は安い家賃負担でオフィスを借りることができた。
 
 ところが、2~3年たったころ、彼のビジネスの規模が大きくなり、より大きなオフィスに引っ越すことになった。間借りしている身としては一緒の所に移転するわけにはいかず、やむを得ず、私も移転先を探して引っ越さなければならなくなった。
 
 そして引っ越したのが、東京神田神保町にあるビルだった。神保町は、私が学生時代からなじみのある場所で、どうせならば土地勘のある場所が良いと思って学生時代によく通っていた食堂の近くのビルの一室を探してきた。

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