私はボランティアで、「子ども食堂」と「みんな食堂」に月1回ずつ行っている。 子ども食堂は、コロナ以降食料品や日用品の配布を行っている。毎月150名前後の人が受け取りに来ている。 みんな食堂は、本当に食堂をやっていて、区の施設を使って調理し、毎回40食前後を提供している。前回のメニューは、カレーライス、フルーツゼリー、まいたけの煮物、スープだった。子供達にはカレーライスが好評で、お代わりをする子供もたくさんいた。小さい子に「日本一おいしい!」とか言われると、やって
正確には覚えていないが、確か遠藤周作さんの本の中に、アパートの2階でときどき奇声を上げる人の話が出ていた。 周作さんは、その人がなぜ奇声を上げているかを推理するのだが、結局、その人が過去にやってしまった恥ずかしいことを思い出して、思わず奇声を上げてしまったのであろうという結論になっていた。 この本を読んだとき、奇声を上げたのはまさに私だと思った。 いまさら思い出したくもないが、私は過去にさまざまな恥ずかしいことをやってきた。 親や家族に対する仕打ち、
皆さんは「のっぺい汁(のっぺ)」をご存じだろうか。これは越後料理で、昔から各家庭で年末に作り、正月に食べるものだった。 最近、東京でも越後料理を出す店が増えてきたので、食べた方もおられると思うが、のっぺい汁は冷たいまま食べる料理だ。 なぜ冷たいのかと言えば、のっぺい汁は大晦日に各家庭の主婦が大きな鍋で大量に作り、それを正月三が日にそのまま鍋から出して食べるものだからだ。要するにのっぺい汁は、家庭の主婦に正月くらいのんびりしてもらうための「手抜き料理」なのだ。
私は、子供のころから忘れ物が異常に多かった。 小学生の頃忘れ物をして、親に持ってきてもらったことは数知れず、高校生の時に、忘れ物をしてそれを取りに行く電車の中にまた別の忘れ物をしたこともある。あまりにも物忘れが多いので、忘れないように手にマジックで印をつけていたこともあったが、そのうち手に書いてあるマジックが何のためのものだったかも忘れてしまうような始末だった。 今原因を分析してみると、自分はひとつのことに集中すると、それ以外が見えなくなる傾向が強かったせいだと
先日、日本の被団協がノーベル平和賞を受賞した。長年にわたる核兵器廃絶に向けた取り組みが世界的に認められた結果で、同じ日本人として喜ばしい限りだ。 しかし、それ以外のノーベル賞は、2021年に真鍋淑郎博士が物理学賞を受賞してから3年間受賞を逃している。 それまでは毎年のように、日本人(および日本生まれ)の受賞があったように感じていたが、最近は受賞者が減ってきているのではないだろうか? 実は、今世紀に入ってからの日本人(および日本生まれ)の受賞者は米英に次ぐ人
先日、映画「荒野に希望の灯を灯す」を観てきた。アフガニスタンやパキスタンで医療活動に従事し、さらには不毛の地に用水路を建設した医師中村哲さんを描いた記録映画だ。 映画で見る限り、中村さんは小柄で穏やかな顔をした(失礼ながら)どこにでもいるおじさんのような印象だった。しかし、さすがに医師なので、患者さんを診ているときは真剣なまなざしだった。 中村さんを見ていると、本当に大事をなす人はその意思を内に秘め、表面的には凡庸な風貌をしているのだと感じた。 いつも「や
今まで書いてきたように、私は人生で様々な成功と失敗を繰り返してきた。バブルの時には仕事でも遊びでも楽しい思いをしたし、会社の資金繰りで綱渡りもした。共同経営者と意見が合わなくなり会社を退職したこともあった。 大口のコンサルティング先であった甲社が破綻した後、その後始末に関わった。一緒にやってきた大勢の人たちが甲社を去っていった。甲社は新卒の人も入れていたので若い人が多く、何をやるときでも活気に溢れていた。私は仕事を離れて、社員の皆さんと友人のように接していたので、彼ら
私は、神保町近くの大学に通っていたので、学生時代から神保町にはなじみがあった。 会計士を目指して勉強していた頃、神保町のすずらん通りにスヰートポーヅという餃子屋があった。戦前からやっていた店だそうで、にんにくを使わない独特の形をした餃子は、絶品だった。しかし、資格浪人の身分としては、めったに行くことができず、試験に合格したら、餃子定食を頼んで昼からビールを飲むことが夢だった。 ちょうど、その店の近くに小さいオフィスビルがあり、たまたまその7階が空いていたので借り
仕事の関係で、お客様の経営破綻を何回か経験したことがある。 あるゴルフ場が立ち行かなくなり、民事再生法の申請を行うことになった。そのゴルフ場は、あるゼネコンの子会社であり、それまではゼネコンの経営者の一族が社長を務めていた。 ところが、民事再生の申請を行う方針が決まってから、その社長はゼネコンの経理部長にゴルフ場の社長を替わるように指示した。簡単に言えば、債権者などからの攻勢の矢面に立つ仕事をその人に押し付けたのである。 サラリーマンはつらい。上司の命令を
小伝馬町のビルに移転してからしばらく業績は順調だった。 ところが、1990年に日本の株価が大暴落してバブルが崩壊し、その後証券業界を震撼させた損失補填問題が起きるなどして、証券業界に「自粛ムード」が蔓延した。 その影響を受けて、わが社の大口顧客である証券会社の研修予算が大幅にカットされることになった。 当時、わが社は証券会社の研修以外にもいろいろな業務を行っていたものの、やはり大口のお客様の売上高が半減するような変化に耐えることのできる体力はなく、せっかく
証券会社の研修は、その後どんどん増え続け、新入社員研修だけではなく、中堅社員のマネジメント研修や2年次・3年次の研修まで広がっていった。 さらに、途中から証券アナリスト試験1次レベル対策研修も加わった。当時の証券アナリスト1次試験は、「財務分析」「証券分析」に加えて「経済」も受験科目になっていた。財務分析は私たちが普段研修でやっていることの延長で対応できたし、証券分析はHが一生懸命に勉強してテキストを作成して研修講師を務めてくれたが、経済だけは我々の手に負えず、大学教
私は、個人事務所の引っ越しを10回経験している。 この数は、たぶん通常よりも多いのではないかと思う。 この引越履歴は、私の仕事の成長、拡大、失敗など離合集散の結果によるものだ。それにしてもよくもこれだけ引っ越したものだ。 以前も書いたが、私は監査法人をやめて独立するときに、顧問先が1件もないにも関わらず、会計事務所の体裁を整えるために、マンションの一室を借りた。 事務所は借りたものの、私の事務所に仕事を依頼する相手先は1件もなく、事務所でボーっと過ご
学生時代に住んだアパートは、西武池袋線のある駅から歩いて10分ほどのところにあった。当時でも築40年くらいは経ったぼろ家屋だったが、家賃の安さにつられて住むことにした。 そこで初めての独り暮らしを経験したが、途中から大学がロックアウトになってしまい、結果的に引きこもり生活をすることになった。人と話すことが苦手だった私はアルバイトをする気にもならず、朝から晩までアパートで過ごした。冬はずっと炬燵に座って過ごしたため、痔になってしまった。それまで私はあまり本を読むことは好
私は、大学3年生から結婚するまでの間、東京下町の家の一部屋を間借りしていた。 親戚のおばちゃん(私の母のいとこ)は、東京の下町気質の人で、本当に面倒見の良い人だった。母が「息子が住むところを探している」と相談したところ、直ちに自分の家の近くの間借りを見つけてくれた。 その家に引っ越したのは、大学3年生の夏だった。おばちゃんは、私の懐具合も心配してくれて、その夏におばちゃんと夫のおじちゃんのやっていたニット製品のアイロンかけ(仕上げ屋)のアルバイトをやらせてくれた
私は、旧中選挙区時代の田中角栄さん(角さん)の選挙区の生まれだ。 角さんは、私の亡くなった父と同い年だった。しかも、角さんも私の父も、尋常高等小学校卒業という学歴まで一緒だった。 したがって、父は角さんの大ファンだった。昭和47年に角さんが総理大臣になった時には、自分のことのように喜んでいた。 角さんは、「コンピュータ付きブルドーザー」と言われ、官僚の人心掌握術は並ぶ者がいないと評されていた。首相時代に日中国交回復を成し遂げた功績は後世に名を残すものであっ
私は、地方に独りで出張することが多い。たいてい1泊か2泊なのだが、朝食はビジネスホテルのバイキング、昼食は出張先で準備されていることがほとんどだ。 問題は、夕食である。2泊3日の出張の場合には、2回夕食を食べることになるのだが、研修講師として出張するときは、その宿泊地が1年に1回程度、あるいは初めて訪れる場所のことが多い。 そうなると、夕食を食べる店を探すのに苦労する。私はいわゆるグルメではないので、別にとびっきりのごちそうを食べたいわけではないが、せっかくめっ