仕事の関係で、お客様の経営破綻を何回か経験したことがある。 あるゴルフ場が立ち行かなくなり、民事再生法の申請を行うことになった。そのゴルフ場は、あるゼネコンの子会社であり、それまではゼネコンの経営者の一族が社長を務めていた。 ところが、民事再生の申請を行う方針が決まってから、その社長はゼネコンの経理部長にゴルフ場の社長を替わるように指示した。簡単に言えば、債権者などからの攻勢の矢面に立つ仕事をその人に押し付けたのである。 サラリーマンはつらい。上司の命令を
小伝馬町のビルに移転してからしばらく業績は順調だった。 ところが、1990年に日本の株価が大暴落してバブルが崩壊し、その後証券業界を震撼させた損失補填問題が起きるなどして、証券業界に「自粛ムード」が蔓延した。 その影響を受けて、わが社の大口顧客である証券会社の研修予算が大幅にカットされることになった。 当時、わが社は証券会社の研修以外にもいろいろな業務を行っていたものの、やはり大口のお客様の売上高が半減するような変化に耐えることのできる体力はなく、せっかく
証券会社の研修は、その後どんどん増え続け、新入社員研修だけではなく、中堅社員のマネジメント研修や2年次・3年次の研修まで広がっていった。 さらに、途中から証券アナリスト試験1次レベル対策研修も加わった。当時の証券アナリスト1次試験は、「財務分析」「証券分析」に加えて「経済」も受験科目になっていた。財務分析は私たちが普段研修でやっていることの延長で対応できたし、証券分析はHが一生懸命に勉強してテキストを作成して研修講師を務めてくれたが、経済だけは我々の手に負えず、大学教
私は、個人事務所の引っ越しを10回経験している。 この数は、たぶん通常よりも多いのではないかと思う。 この引越履歴は、私の仕事の成長、拡大、失敗など離合集散の結果によるものだ。それにしてもよくもこれだけ引っ越したものだ。 以前も書いたが、私は監査法人をやめて独立するときに、顧問先が1件もないにも関わらず、会計事務所の体裁を整えるために、マンションの一室を借りた。 事務所は借りたものの、私の事務所に仕事を依頼する相手先は1件もなく、事務所でボーっと過ご
学生時代に住んだアパートは、西武池袋線のある駅から歩いて10分ほどのところにあった。当時でも築40年くらいは経ったぼろ家屋だったが、家賃の安さにつられて住むことにした。 そこで初めての独り暮らしを経験したが、途中から大学がロックアウトになってしまい、結果的に引きこもり生活をすることになった。人と話すことが苦手だった私はアルバイトをする気にもならず、朝から晩までアパートで過ごした。冬はずっと炬燵に座って過ごしたため、痔になってしまった。それまで私はあまり本を読むことは好
私は、大学3年生から結婚するまでの間、東京下町の家の一部屋を間借りしていた。 親戚のおばちゃん(私の母のいとこ)は、東京の下町気質の人で、本当に面倒見の良い人だった。母が「息子が住むところを探している」と相談したところ、直ちに自分の家の近くの間借りを見つけてくれた。 その家に引っ越したのは、大学3年生の夏だった。おばちゃんは、私の懐具合も心配してくれて、その夏におばちゃんと夫のおじちゃんのやっていたニット製品のアイロンかけ(仕上げ屋)のアルバイトをやらせてくれた
私は、旧中選挙区時代の田中角栄さん(角さん)の選挙区の生まれだ。 角さんは、私の亡くなった父と同い年だった。しかも、角さんも私の父も、尋常高等小学校卒業という学歴まで一緒だった。 したがって、父は角さんの大ファンだった。昭和47年に角さんが総理大臣になった時には、自分のことのように喜んでいた。 角さんは、「コンピュータ付きブルドーザー」と言われ、官僚の人心掌握術は並ぶ者がいないと評されていた。首相時代に日中国交回復を成し遂げた功績は後世に名を残すものであっ
私は、地方に独りで出張することが多い。たいてい1泊か2泊なのだが、朝食はビジネスホテルのバイキング、昼食は出張先で準備されていることがほとんどだ。 問題は、夕食である。2泊3日の出張の場合には、2回夕食を食べることになるのだが、研修講師として出張するときは、その宿泊地が1年に1回程度、あるいは初めて訪れる場所のことが多い。 そうなると、夕食を食べる店を探すのに苦労する。私はいわゆるグルメではないので、別にとびっきりのごちそうを食べたいわけではないが、せっかくめっ
イ・スヒョンさん、関根史郎さん、村田奈津恵さん、児玉征史さん。私たちは、この人たちの名前を忘れてはいけない。 この人たちは、いずれも踏切または駅で人を助けようとして亡くなった方々だ。 イ・スヒョンさん、関根史郎さん。2001年1月26日、新大久保駅でホームから落ちた人を救うために線路に降りて列車にはねられて亡くなった。彼らの勇気ある行動には心から敬意を表したい。今、新大久保駅に彼らの慰霊碑がある。 村田奈津恵さん。2013年10月4日、JR横浜線中山駅付近
家族で演奏会に出たことがある。 子供たちは小学校低学年の頃、ピアノを習っていた。毎週、我が家へ若い女性の先生が来て教えてくれていた。 私も小さい頃少しピアノを習ったことがあったが、「赤いバイエル」止まりだった。そんなことを言ったらどんな習い事もうまくいかないだろうが、とにかく、反復練習を強いられるピアノは面白くなく、遊びたい盛りにピアノの先生のところに行かなければならないことが苦痛だった。 ところが、どんな工夫があるのか、私の子供たちは練習をいやがることな
私は、日本簿記ゲーム協会の会長を務めている。 ただし、現在のところ会員は私一人である。 ある証券会社で簿記の研修をやっていたとき、研修担当者から「もっと簿記を楽しく学べる方法はないでしょうか?」と尋ねられたことがきっかけで、ゲーム形式で簿記を学ぶことを思いついた。 このゲームは1チーム4~5人で会社を作り、社名を決め、社長、財務担当、銀行の役割を果たす人を決めてからスタートする。 参加者全員がゲームの進行に従って、決算書を作成し、最後に利益を最も上げ
岡林信康に「手紙」という歌がある。 実話に基づいて被差別部落出身の女性を歌っている曲で、彼女は、好きな人と結婚の約束をしたものの、その出自が彼氏の親に知られてしまうこととなる。その結果、彼氏が親から「あんな奴と結婚するのだったら、お前に店を継がせる訳にはいかない」と結婚に反対されてしまう。 彼女は、自分と結婚することが彼の夢を奪うことになってしまうと思い、結局身を引くことにした(その後彼女は自殺した)。 私は学生時代に初めてこの歌を聴いたとき、涙がこぼれた
ある駅に「ふるさと納税日本一」というM市のポスターが貼られていた。 これは、日本で一番ふるさと納税の寄付を集めているという「自慢」なのだろう。 しかし、私の見方はぜんぜん違う。日本一ふるさと納税の寄付を集めているということは、日本一他の自治体から、本来そこに収められるはずであった税金を掠め取っているということではないか?そのような恥ずべきことを堂々とポスターで自慢する感覚がまったくわからない。 念のため、ふるさと納税のからくりを説明すると、たとえばA市に住
私は23歳になった時に試験に合格し、監査法人に入社した。 試験に合格したと言っても、当時の公認会計士試験は2次試験と3次試験があり(1次試験は大学の教養課程修了で免除)、私は2次試験に合格して「会計士補」になっただけで、この後、1年間の補習所の教育と2年間の実務経験を経て3次試験の受験資格が与えられ、合格して晴れて公認会計士になるというしくみになっていた。 監査法人は、主として上場企業の会計監査を行うことが仕事で、私も日本全国あちこちのクライアントに出張して監査
私は、酒を飲んでいるとき、原則として仕事の話はしない。 酒を飲んで仕事の話をするのは、仕事に対しても、酒に対しても失礼だと思う。 いやらしい話で恐縮だが、一昔前「ノーパンしゃぶしゃぶ」が流行った。 当時の新聞報道によれば、銀行などのMOF担(当時の大蔵省担当者)が大蔵省の役人を接待するときにそこをよく使っていたそうだ。 ノーパンしゃぶしゃぶでは、ろくに下着をつけていない女性が接待をするが、しゃぶしゃぶも食べることができる。つまり、食事をしながらお色気
言葉はその時々の環境や時代背景等によって変わるものなので、一概にどれが正しいか判定をすることは難しい。使い慣れない言葉でもみんなで使って多数派になってしまえば、そのうち市民権を得ることになる。 しかし、昭和のおやじとして好みを言わせてもらえば、おいしい食べ物を食べた時に「やばい」というのは頂けない。はっきり言ってその言葉を聞くと虫唾が走る。 「やばい」というのは、もともとやくざや犯罪者が使う隠語で、「危険だ」「まずい」という否定的な意味で使われていた。おいしい食