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想像の世界と犯されない夢・甘いだけのフィクションから逆算するノンフィクション


明け方途方に暮れてみようという時に、タイでみた景色を思い出そうとする事がある。
アユタヤの土と香る牧草の匂いや、バンコクのドブと排気と香る、レモングラスとスイートチリソース。熱された地面から立ち上る湯気が、目に見えそうな昼と夜。
いわゆる大地というものがより感じられるように思い、僕の日本における有限の景色から、無限の景色へ目を閉じて。やがて身が煙のようになって飛んでいき、気がつくと僕は青く茂った熱風のアスファルトに立って、ジリジリと額を焼かれている。

その景色が輝かしいのは、僕がそこに住んでいないからだと思う。日本だって、来訪者からしたら無限に映る事があるだろう。当たり前の話だ。タイが微笑みの国なのは、僕が外から来た人間だからだ。
そこでは沢山の子供と大人が夢を描いては消して、時に打ちひしがれて、それでも結露したようにわずかな夢が形となる瞬間があって、そうして人々が死ぬまで暮らしている。国の形はどうあれ、人というのは結局そういう生き物だから、そうだとわかる。

旅行っていうのは、綺麗なものしか見えない。汚いものすら、綺麗に受け取ってしまう。それはまるで空気清浄機や浄水器のように、なんでも分解して綺麗にしてしまうから、行く先々で受け止めてくれる人にとってもそれは都合がよく気持ちのいい存在かもしれない。
さながらワンナイトラブ、トゥーナイトラブ、何泊でも旅行なら、ワンナイトラブ。綺麗なものしか見せてくれないし、綺麗なものしか見ようとしてない。

そんなことを考えているうちにやがて僕は腕まで真っ赤になり、甘くて仕方がないコーヒーを買った。次の瞬間には象にだって乗れるし、路面店の草でキマりまくる事だってできるし、野垂れ死ぬ事だってできる。
それでも一度でもみた景色の一つが、綺麗だって思えるなら、旅行をする意味はあるだろう。それは希望そのものだ。

今、目の前で褐色の男が手を合わせてお辞儀をしている。僕もそれと似たポーズを取って、お辞儀をしてみせた。なんて気持ちいいんだろう。汗も枯れる日照りのベンチで横になってみても、気持ちいいだけで、死んでしまう事は絶対にない。僕はタイに住んでいないから、全て本当の事にはならない。
そんな風にして誰かにとっての汚物が、僕にとって時折美しいものであることを知ると同時に、僕の中にある汚物が、誰かにとって時折美しいものであることを感じたいのかもしれない。

かくして、僕にとってのタイは今もとても美しい。
明け方、途方に暮れてみようという時に、タイでみた景色を思い出そうとする事がある。

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