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空腹を満たすように読み、呼吸するように書く

以下敬称を略す。

内田樹出演のトークイベントに参加した。平川克美が経営する「隣町珈琲」でシリーズ展開しているらしい、平川克美・春日武彦の公開トークイベントに、たまにゲストが来るのだという。そのゲストが今回は内田樹だった。ナマ内田樹は人生初。『ためらいの倫理学』を後追いで読んだのが始まりで、20年前くらいから著書を読んではいたが、長らくどのような声や佇まいで、どんな調子で話す人物なのかは知らなかったし知ろうともしてこなかった。いつだったか、たまたま見つけた講演会動画で、しゃべる姿を目撃し、声を聞いた。それも随分前のことで、脳内で再生できるほどの記憶もなかった。

隣町珈琲については、平川克美の著書で存在は知っていた。どこかのSNSで画像を見たら、天井まで設置された書棚で壁は埋め尽くされ、そこにビシビシに本(平川克美個人の蔵書だったか?)が並んでいる店だった。さびれた商店街の空き店舗をリノベした店だと読んだ気がする。中延駅で降りて店を探しながら歩いた。たしかに高度成長時代くらいに形成されたと思われる、全国どこにも同様な風情で存在しそうな商店街だった。次々現れる看板を指差し確認しながら歩いていたら、「隣町珈琲」の看板に行き当たった。通りから階段を下って地下に入口がある。平積みの新本を眺めながら(こんなに新本を売っているのか、と意外に思った。知らなかっただけだが)入場を待つ列に並び、検温をして、名簿チェックをして、入店してみたら、想像していたよりも随分と広い店だった。その日の客席も、きちんと数えたわけではないが、ざっと100席ほどか。壁一面が本で埋め尽くされているように錯覚していたが書棚の面積比は思っていたほどではなく、壁面になにやら絵や文字がわーっと飾られていた。

「隣町珈琲」と銘打つだけあってコーヒーを売っていた(当たり前か)ので、買って飲んだ。飲み終えたかどうか、というくらいのタイミングで、トークショーがはじまった。向かって右端の扉が開いて、入場時から声が場内に漏れ聞こえていた当日の登壇者3氏が現れる。最初に内田樹。スリムストレートのジーンズにショートブーツを合わせ、首にはストールを巻いて「颯爽と」という感じの登場。続いて内田氏よりも小柄な御仁二人が出てきた。内田氏「平川君は向こう端、春日先生は真ん中の席へ」。レギュラー陣である二人が、ゲストに誘導されて着座するという、どこかしら不思議な場面だったが、なんとなく「内田氏らしい」といえば「らしい」。

この日のテーマは「私たちはなぜものを書くのか」。3氏ともとにかく著書が多い。

自分が積極的に読んできたのは3氏の中では内田樹だけだが、当初は新刊が出るたびに購読していたものの、あまりにも凄まじい発刊ペースに途中からついていけなくなり、だんだん買わなくなってしまっていた。氏の著書は書き下ろしもあるが、ブログ「内田樹の研究室」からのコンパイルものや、新聞雑誌などへの寄稿文をまとめたものや、講演録に加筆修正をしたものなどが圧倒的に多い。いずれにしても機をとらえては膨大な量のアウトプットを継続してきた人物だ。

その内田氏は「なぜものを書くのか」というお題に対し、自分にとって「書く」とは生理現象のようなものだ、と話していた。自分という生命装置を維持存続させるために書かざるを得なかったのだ、と。

併せて内田氏が話していたのは以下のようなこと。

「自分には人々に説いて聞かせたい主義主張、個性的な見解、独自の思想などはカケラもない。自分の中は空っぽで何もなく、外からやってきた何かが自分の中を通過していったような感覚である。それは自分が長年武道を続けてきたこととも関連していると思われる。合気道では、人間の力を超えた力が、自分の身体を通過し、自分の身体を介して発動する。文章を書く際にも、自分のスケールを遥かに超えたものが自分の中を通過し、アウトプットされることがある。そのとき自分はいわばイタコのような存在。それが『ものを書く』という行為における最大の快楽である。」

内田樹のアウトプット習慣は大人になってから身についたものではなく、少年時代からの蓄積の上にあった。中学2年のころにはSFファンのサークルのようなところで自分の小遣いのほぼすべてをつぎ込んでガリ版の刷りものを発行していたという。氏にとってはSFは刷りものを発行するための口実程度のことであったらしい。中身は二の次三の次で、アウトプットしたくて仕方がない、編集後記などを書いて人に読ませることがただただ楽しくてやっていた、ということのようだ。

このエピソードは以前、氏のブログか著書かで読んだことがある。内田樹の特徴の一つに、同じエピソードがさまざまな文脈において繰り返し登場する、ということがある。読みながら「この話、前にも読んだ」とは思うが、それが不思議と嫌な気もしない。前にも読んだことがある「この話」を、今回はどんなふうに文脈に織り込んで語ってみせるのか、その部分を味わうだけで愉しい気になってしまう。古典落語のようなものとでもいうか。。。

内田樹は「自分の書いたものを読むのが好き」なのだという。まずアウトプットがあり、それを読んだときに、自分が書いたものであるにもかかわらず他人が書いたもののように感じつつ、自分が何を考えているのかを事後的に知るのだそうだ。

このような氏にとっては、したがって原稿依頼など嬉しくて愉しくて仕方のないことなのだろう。実際に「締切に追われる」「ギリギリのタイミングで焦りまくって書く」ということはまずなく、ふと時間ができたときなどに「そういえば10日後に◯◯の原稿の締切があったから、今のうちに書いておこう」と前倒しに前倒して執筆するという。また「書く」ことに苦慮することもないのだそうだ。与えられたお題を前にして「そういえば」と連想したことをとにかくワンフレーズでもアウトプットする。その文字列を眺めているうちにそこから次の連想が生まれる。自分の中にある記憶の沼に手を突っ込んで、何かを引っ張り上げてくるような感覚だという。

こうして繰り出される大量のアウトプットの土台には、同じく大量のインプットもあった。

内田氏は少年時代からかなりの読書家で「本をむさぼり読んでいた」。活字を読んでいないと生きた心地がしない。本を読むのは空腹時にカツ丼をかき込むのと同様の行為。『赤毛のアン』や『若草物語』『あしながおじさん』などが愛読書だったそうだが、高校に入って同級生と本の話をしても自分と同じ趣味の人が皆無で、「自分が読んできた本はジャンクだった」と思い知り、そこからブランショやカミュ、サルトルといった書き手の著作を訳もわからずしかし泣きながらでもとにかく読むようになった。苦行のような読書の連続が我慢の限界を超えたとき、自分の中にさわやかな風が吹き抜け、それ以降はどんな本でも読めるようになったという。自分はいわゆる活字中毒者であり、トイレに入るときに読む本がないと耐えられず、トイレ内に書棚を設置していつでも本を読めるように備えている。インプットとアウトプット、本を読んで文を書くということが自分にとっては「生きる」ことだったという。

自分が読んできた本は全部「おもしろい」という内田氏。そこは座談相手の2氏とは異なるところだった。何を読んでもおもしろい。そして書評の類いはいっさいやらないとも話していた。猛烈な読書家であるので、書評依頼は何度となく受けてきたようだが、端から全部断ってきた。自分はどんな本でも「おもしろい!」と思って読むだけで、人に「これおもしろいよ」と勧めることはあっても批評はしないのだと(ただ、小林秀雄はまったく波長が合わず全然読めない、ということと、つまらなかったものについては人に語らない、ということは話していた)。誰かの本を批判するという行為は、その著者のパフォーマンスを落とす可能性こそあれ、その逆の結果はほぼ望めない、ならばそのような発言はしないほうがよい、と考えるのだそうだ。それは対人関係においても同様で、内田氏はかつて平川氏と一緒に会社を経営していた際にも、平川氏のアイディアを一つも否定することなく「それいいね」とオールOKを貫いていたという。それは内田氏が「平川氏自身のパフォーマンスを最大化する」という1点にフォーカスしきっていたからだった。平川氏のアイディアの一つひとつを吟味し「それにはこういう問題がある」「それは適切ではない」と指摘をしたら平川氏のパフォーマンスが落ちる。それよりも「それいいね」と何でも思いどおりにやらせたほうが平川氏も機嫌よく能力を発揮する。だからすべてを無条件に肯定しつづけてきた。「どうしたら平川君がアガるか」ばかりを考えていたのだった。ここからは想像にすぎないが、内田氏は教育現場においてもおそらく基本的には同様の姿勢を貫いてきたのではないかという気がする。若さゆえの未熟に対し、補足を加えることはあっただろうが、ストップをかけるよりは背中を押す立ち位置をとっていた、そんなイメージが浮かぶ。

「書く」ことにかんしてもう一つ興味を惹かれたのは、「起承転結」の「転」で垂直にポンと遥か別次元へ飛んだのち、予想外の「結」へ着地できた文章はおもしろい、という話。いわゆる「物語マザー」にもそのような構造がある。そういうものなのだろう。

3氏それぞれに書き手であり話し手でもあり、話し慣れているのだろうとは思うが、座談会形式で展開した話の中でも内田氏の談話は全体に筋肉質で勢いがあり聞き飽きなかった。

予定時間をややオーバーして、それでももっと聴きたい気にさせられる内容だったイベント。

終了後、商店街を歩いていたらタイ料理の看板に行き当たる。メニューを見るとカレーが中心らしい。もう時間も遅いしカレーなら大きく外れることはないだろうと見当をつけて、初めてのその店へ躊躇なく入る。オーダーしたカレーセットにはドリンクとタンドリーチキン、サラダ、デザートまで含まれており満腹になった。街場の割にはおそろしく低価格だったが、あの一帯の地価が安いのだろうか。

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