【小説】ネコが線路を横切った3
喫茶店にて
「どうぞ」
マスターは、店の中に春海を招き入れた。
30年前、マスターの店は駅の西側にあった。
いつのまにか店は駅の東側に移り、洋風居酒屋から喫茶店に変わっていた。
店内は、昭和の映画に出てくるそのまま、レトロな雰囲気の喫茶店。壁はレンガ調で、テーブルと椅子は木目の落ち着いた濃いブラウン。
入って右手にカウンター席が8席あり、内側は厨房。
左手には、向かい合って座るテーブルが3つ。店の奥には、10人ほど入る個室がある。
春海は、カウンター席のいちばん奥に座った。
はじめて来た店なのに、レンガ調の壁やブラウン系の店内で気持ちが落ち着いてくる。
30年を、一気に乗り越えた。
「何飲む? いつもの?」
「え、あれ、できるの?」
「もちろん」
「ホットココアソフトクリーム大盛のせ」
かしこまりました、と、マスターは言ってカウンターの中に入った。
蛇口をひねるその手。
ココアパウダーを入れて、小さな泡立て器で混ぜるその手。
やかんを持つその手。
マスターの手は、春海の記憶のままだった。
細くてごつごつしている。
人差し指を伸ばして、中指と薬指と小指を握ると、手の甲に浮かび上がってくる骨が、男を感じられて好きだった。
「はい、どうぞ」
春海の前に、カップが置かれた。
淡いミントグリーンのマグカップには「COCOA」と黒い文字で描かれている。
マグカップの深さよりも高く、ソフトクリームがそびえたち、いちばん上にはミントの葉が一枚。カップには、クリームソーダ用の長いスプーンがさしてある。
ミントの葉をカップの脇においてから、春海はソフトクリームをひとくち食べた。
口の中に入れると、ソフトクリーは一瞬で溶けてしまう。甘さと冷たさだけが口の中に残る。
そうだ、と、マスターは言って、カウンターの下から一冊の本を取り出した。
「サインして」
その本を、春海は手に取った。
単行本の表紙には「ネコが線路を横切った」と、白抜きの文字。
斜めの明朝体の文字には躍動感がある。
青空を背景に緑の茂みを飛び越えていく黒猫と、イメージが合っている。
「作家は、一度廃業したんだけどな」
「今だけ、戻ってサインして」
春海は、バッグの中から筆ペンを出した。
インクの色はピンク。
表紙をめくる。
「名前は書く?」
「この店の名前で」
マスターが差し出したショップカードには「喫茶SIN」とあった。
喫茶SINさま
藤村架奈
鮮やかなピンク色の文字の上に、春海はティッシュをはさんで、本を閉じた。
つづく
※この物語はフィクションです。
実在の場所や団体、個人とは関係ありません。
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