見出し画像

センスとはなにか?をあえて定義してみる

まず「定義」という言葉をぼくは次のように定義しています。

「飛んでいるちょうちょをつかまえて虫かごに入れる行為」

飛んでいるからこそうつくしいちょうちょを捕まえることによって損なわれるうつくしさについてわからないわけではありません。
多義性を持つ言葉を一義的なものに固定する傲慢さというのもあるでしょう。
ひとがいればその数だけ(そのひとなりの)定義があるというようなすべてを包摂する意見を言いたければ「こうである」という断定的な「定義」をすべきではないかもしれません。ただ「あえて」定義しないひとと、定義することができないひとが「多様性尊重」という名のもとに「いろんな意見がありえるのでは?」とだけ言うひとはまったく別のひとであることは言っておく必要があるかもしれません。
とはいうものの、ただつかまえてみることでしか見えないものもあります。
そしてそれが議論の(採集でいえばある種研究の)とっかかり(起点)になりえるわけです。

その前提でぼくなりの「センス」について説明していきたいと思います。

「センスとは何か?」と問われたときにぼくはよくGoogleマップのたとえ話をします。
マップの倍率を高めていくと、だんだん建物の枠組みや、お店の名前などが出てきたり、細い路地の存在が立ち現れてきます。これを「解像度」ということもできるかと思いますが、ぼくはいかに詳細まで見えるか(高い解像度を持つ視力を持てるか)を「センス」と呼んでいます。
さらにいえば、解像度の高い地図を持ちながら現在自分がいる場所とこれから自分が辿り着きたい目的地を設定することができる能力、ということもあろうかと思います。
そして、そこから最短の経路設定を選択し、じっさいの運転によって目的地に辿り着く能力を「スキル」と呼んでいるのです。
これがぼくにとっての「センス」と「スキル」の定義のようなものです。
つまり、自分としての目的地が見えないから、多くの周囲の人たちにとっての目的地を自分の目的地にしておく、ということは「センスがないこと」のあらわれ、ですよね。
「センス」には主に解像度の高い視力とともに、主体性(他者からどう思われるかはさておき、自分として「こうしたい」という欲望をきちんと持っているのか、ということ)を必要としています。

つづけて「どうやったらセンスを身につける/高めることができるのか?」について考えてみたいと思います。

たとえば、自分はどうありたいのか?を前提にしつつ、自分は何を買いたいのか?とかどこに行きたいと思うのか?というような自分の言動と購買行動の原因を、自分でちゃんと分析/言語化していくことも大切だと思います。
結局のところ、他人の理解というのは、自分への理解の解像度を超えることはないので、自分の理解に対する解像度が低い人は、他人への解像度も低く、他人が考えていることを考える(他人の立場に立つ)こともむずかしくなるような気がします。
それは小説を読んだり、ドラマや映画を見て、登場人物の心情や、行動の意図について解釈するのもよいトレーニングだと思っています。

ぼくの実体験をもとに言えば、大学生の当時カフェに行って「なんて心地よい場所なんだろう」と思ったとしたら、その原因/理由を探します。カフェとは心地いい場所なんだ、というような捉え方で終わることはありません。もっとカフェの要素を分解して、そのなにがぼくにそう思わせているのか?を考えます。

また別の機会に温泉宿でもホテルでもレストランでもなんでもいいのですが、そういう場所における体験でも「なんて心地よい場所なんだろう」と思ったとしたら、そこでも要素分解して考えます。すると、カフェとかホテルというような場所性ではなく、心地よさを感じさせてくれる抽象的な要素がみえてきます。具体的な体験と抽象的な思考(要素分解→概念整理)を往復しながら繰り返していきます。
意識してがんばって勉強するのではなくって(ぼくはそんなに根気強い努力家ではないので)生活のなかに無意識で勉強してしまう構造をインストールしていって、気づかないうちにセンスが高くなるための遊びのようにできないものかな、と思っています。


あらためて心地いいカフェの話に戻れば、カフェというカテゴリー(縦軸)による腑分けだけではなく、感覚や体感によるカテゴリーではない横軸(ここでは心地いいと思う感性)を自分なりに設定し、その(縦軸と横軸の)交点に、そのときの体験を置いていきます。
日々いきることで、さまざまな体験や行動をすることによって、その交点はどんどん増えていきます。その行為はある種テキスタイル(布)を編むようなものになっていきます。
それが10年、20年経つと、それぞれの体験によってできた布が編みあがり、それはその人にとっての「センス」といってもいいものになると思っています。
これを解像度ということに結びつけると、「布」というよりも「レンズ」と言ったほうがいいかもしれません。体験がレンズを磨き上げ、見える景色を変えていくのです。

とながながと説明してきましたが、これは大きな見取り図であって、これどおりにやればこうなるというマニュアル(確実な方法論)ではありません。
もし少しでも参考になったのであれば、何かを取り込みながら、日々の生活を少しずらしてみてください。すぐに結果が出るものではないかもしれませんが、変化の起点にはなるはずです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?