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臨川茶室方丈日記「瓢箪」2021.2.17の【つづき】

臨川茶室方丈日記「瓢箪」2021.2.17のつづきです。


普彩先生の「瓢箪」にまつわるお話で、“瓢箪から駒”という言葉をお聞きました。


よく耳にする言葉で、有り得ないようなこと、という意味ですが、駒とは馬、瓢箪の中から馬が飛び出すような有り得ないこと、という意味です。


でも、前回のブログで、瓢箪は「空(くう)」を表していると書きましたが、「空」ならば、そこから馬が飛び出しても何ら不思議はないのです。


「空」とは、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静のこの世界の姿、空っぽなのではなく満ち満ちて無限なのです。


例えば、この自然界にはもともと電気があり、それに気づきそれを取り出して使っているように、自然界・空(くう)から電気を発見、取り出し利用していますので、有り得ないような“瓢箪から駒”の馬が飛び出したようなものです。


決して有り得ないことではなく、気づき・発見し、工夫して使うことができます。


“瓢箪から馬”は、有り得ることなのです。


秀吉の馬印が瓢箪、戦で破格の働きをした秀吉に信長が贈ったものといわれています。

まさに“瓢箪に駒”、有り得ないような働きをした秀吉への褒美でした。

秀吉は、実際に瓢箪を馬にぶら下げ、戦で功をあげる度、数を増やしていったそうです。


また、それよりも前の時代の上杉謙信は、手柄を立てた武将に褒美を与える際、いろいろなものを皆の前に並べ、そこにも瓢箪があったのですが、誰も瓢箪を手に取りませんでした。一人の武将が、

瓢箪を手に取ると、謙信は自分の乗ってきた立派な素晴らしい馬をその武将に与えました。


謙信も瓢箪を選んだその武将も、秀吉に瓢箪の馬印を褒美にとらせた信長も、数多くの瓢箪を自分の馬にぶら下げた秀吉も、


“瓢箪から駒”を、自分の精神力で有り得ないことを掴んだ、


気づき発見し「空」から取り出し実現させたといえるでしょう。


私たち人間のその精神力こそ、無限の可能性を内包した「空」です。


私たち自身が瓢箪なのだと、禅では教えてくれていること、その掛け軸「瓢箪」からそう感じました。



普彩先生のお話されることは、はかり知れなく深遠で、私に理会できることは少しですので、私はこうお聞きしました、私はこう感じました、としか表せないこと、ご了承ください。


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