リナリアとスピカ

 世の中には、持って生まれたものというものが存在する。どれだけ争ってもそれには敵わない、残酷な宿命だ。
これは僕がその宿命と向き合い、雁字搦めになった愛情を振り解いて、虚構に向き合う物語だ。
世界の全部、音楽に見えるほど音楽だけを愛していた。そこにひとつの真実と、彼女が現れるまでは。

 「あと3ヶ月後、といったところでしょうか」
眉間に皺を寄せた医者が自分に降らせる言葉を、一生懸命噛み砕いて意味として飲み込むのには時間がかかった。
とある珍しい病気を患い、あと3ヶ月で聴力を失うという旨の宣告を受けた。音楽家としては致命的な人生上のズレが生じた瞬間だった。全てが崩れるような、体温が下がる感覚があった。
この時点で、音楽を辞めるという選択には至らなかった。むしろ、あと3ヶ月の間でどれだけの音楽が残せるか、自分の最期を試そうとすら思った。もちろん、音楽を作り続けたいという思いはとても強く、自分の聴力を奪っていく得体の知れない病を恨む気持ちはあった。

 たった一つの残酷な真実を胸に帰路に着き、いつものように夕飯の準備をしていた。ひとりで住むには広すぎる部屋で、温かいコーヒーを片手に、ソファに腰を下ろす。ため息が出る。その視線の先には、ある絵画が飾られていた。
吉川芽生という名の芸術家が生み出した絵だ。僕は彼女の芸術をずっと追っている。彼女の絵から影響を受けて音楽を作ることだってあった。
なにも、芸術とは音楽だけではない。こんなに美しく、良い絵を見られるんだ。聴力がなくなったって、芸術の全部に触れられなくなるわけではない。彼女の絵は僕を前向きにさせた。ちょうどそんな時に、彼女が美術館面で関わる映画の主題歌の案件をもらった。若い少年と少女が創作を通して葛藤する、どこかノスタルジックな物語だった。彼女が関わっていると知った瞬間、案件を受けることを決めた。
打ち合わせの時、僕は彼女に初めて会った。映画に関わる色んな人が同席していたが、彼女にここで出会えたことは僕にとって、良くも悪くも、人生上非常に大きな出来事となる。

 「初めまして。吉川芽生です。この度はよろしくお願い致します。」
落ち着いた声のトーンで、しっかり真っ直ぐ目を合わせて話しかけてきた。綺麗に整えられた黒髪ボブの、凛とした雰囲気の女性だった。全体的にモノトーンで統一された、シンプルかつ個性的な装いにシルバーのリングが光った。吸い込まれそうな程黒い髪と瞳とは裏腹に、白く透き通る肌は儚く、赤いリップが目立っていた。
「初めまして。kaitoです。吉川さんの作品、ずっと前から楽しませていただいていました。影響受けて音楽作ることもあって。実は家のリビングにも吉川さんの絵を飾ってあるんです。今回ご一緒できてとても嬉しいです。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。」
ファンであることを伝えると、彼女の頬は心なしか紅潮した。
「本当ですか...!?私も、kaitoさんの音楽はすごく聴かせていただいてます。kaitoさんの新曲聴いて創作意欲湧くこともたくさんあります。だからとっても嬉しいです。」
こんなことを言われるとは思ってもいなかったから、正直とても嬉しかった。第一印象とは少し変わって、意外と素直に感情を表に出す無邪気な一面もあるんだなと思った。どちらにせよ素敵だった。自分の尊敬できる人と何かを作ることができるというのは、人生において、1番楽しいことの一つだ。
吉川さんとは、打ち合わせ等で何度か顔を合わせた。時には二人になることもあり、そんな時にはただただお互いの作品を称え合っていた。ある日、レコード会社を訪れた時、偶然吉川さんに会った。とあるバンドの新譜のジャケット写真に関わることになったそうだった。
「お久しぶりです、kaitoさん」
「あ、吉川さん。奇遇ですね。お久しぶりです。映画の方も順調みたいですね」
「kaitoさんの書いた主題歌、すごくよかったです。完成まで気を抜かずに頑張ろうって思えました。ありがとうございます!」
「いえいえそんな。でも、そんなふうに思っていただけるなら作ってよかったです。」
「あの...、良かったらなんですけど」
「はい、なんでしょう?」
「連絡先、とか」
最初に話した時とは打って変わって目を全く合わせない彼女の頬はまた、少し紅潮して見えた。
「もちろんいいですよ」
僕らはその時連絡先を交換して、美術館に行ったり、音楽を鑑賞しに行ったり、たくさん時間を重ねた。歳も近くて、だんだんただの仕事仲間だという認識からは遠ざかっていった。夜遅くまで語り明かしてついに終電を逃したその夜、初めて彼女を家に招いて、1人で住むには広すぎた部屋に2人で、彼女は僕に、話をした。
「ねえ、海人くん」
「ん?」
「聞いてほしい話があるの」
なんだか胸騒ぎがして、少し体がこわばった。それでも冷静を装って聞いた。
「どうしたの?」
「目、見えなくなっちゃう」
「え?」

 最初は、聞き間違ったんだと思った。
彼女は偶然にも、失明を宣告されていた。
目が見えなくなってしまう彼女に、音楽を残そうと思った。確かにある彼女への恋心と、霞んでいく一方である僕らの未来を五線譜の端から端まで書き起こしていく。
秘密を打ち明け合ってからというもの、僕らの距離が近付くのは早かった。
「耳聞こえなくなったらさ、音楽できなくなるんだよね」
「怖いよね、わかるよ」
「あのさ、僕すごい馬鹿みたいなこと思いついちゃったんだけど、言ってもいい?」
「え?なに?いいよ」
「僕らが視力と聴力を失う前にさ、お互いの音楽と芸術の技術を託し合おうよ」
「どういうこと?」
「失った後は、僕が芸術家、芽生が音楽家として変わらず芸術を続けるんだよ。素敵だと思わないか?」
「そんなことできるのかな。できたら、すっごくいいけど」
「やってみない?」
「やる」

 彼の作る音楽は、複雑だった。
楽しい気持ちになって、心が穏やかになって、だけどどこか闇を抱えていて、作っている当本人はなんだか寂しそうに見えた。そんな彼に、音楽を教わっている。世の中には、持って生まれたものというものがあるらしい。私には音楽の才能なんて無い。正直、彼を妬ましいと思う。目が見えなくなるのがわたしではなく、彼だったら。耳が聞こえなくなるのが彼ではなく、私だったら。絵の才能を持って生まれたのが私ではなく、彼だったら。音楽の才能を持って生まれたのが彼ではなく、私だったら。そんな邪念みたいなものがずっと浮かんで、そんな自分が嫌になる一方だった。彼のアイデアは一見名案であるように思えたが、それは自分に絵以外の才能が無いことを突きつけられることとイコールでもあった。彼の音楽を追いかけて追いかけて、追いつくのもままならない。彼の聴力が無くなる時には、追い越せるようになっていないといけないのに。焦る胸だけが鳴って、気持ちが忙しかった。そんな憂鬱な気持ちなのに、私は彼をどんどん好きになった。惹かれていった。理由はわからなかった。私に音楽のことを語る彼の低くて乾いた声も、真っ直ぐ五線譜を見つめる美しい目も、近くにいる時に分かる柔らかい匂いも、私を揺らして止まらなかった。いつしか、彼の話が耳に入らなくなって、ずっと彼の横顔だけに意識が向いてしまった。ふと目が合って、擽ったい空気が流れる。彼もおんなじ気持ちなんだなと思った。嫉妬心と愛情が入り混じって、心は渋滞を起こしている。
目が見えなくなる前に、彼に何かを残したいと思った。必死に考えた結果、彼が近くにいない時間を使ってリナリアの花を描くことに決めた。花言葉は、この恋に気付いて。私の場合、恋という一言に、kaitoという音楽家への憧れも、恋心も、同じ芸術家としての嫉妬心も含まれていた。

 もうすぐ私たちの視力と聴力が限界を迎えるであろう頃、私は彼の家にリナリアの絵画を贈った。届くのはもう少し先だろうけど、反応が楽しみだった。その時には、視力を失ってしまう私の後悔は、もっと絵を描き続けたかったなんてものではなく、もっと彼の笑顔を、生きるその姿を見ていたかったというものに変わっていた。そんなことを考えながら眠りについた次の朝、私の視力は息絶えていた。そして彼から、彼の作った曲が届いていた。タイトルは「リナリアとスピカ」。今すぐ、彼に会いたいと思った。同じ感情を持て余していたことを、抱きしめ合いたかった。そんな時、インターホンが鳴った。ドアの外に、誰が立っているかは見えない。手探りで外にいる人物と、インターホン越しに会話をした。
「どなたですか?」
返答はなかった。もう一度呼びかける。
「あの、どなたですか...?」
やはり、返答はなかった。もしかして、と頭をよぎったのは、聴力が途絶えた海人くんがそこにいるのではないかということだった。歩き慣れた家の中だったから、視力がなくてもなんとかドアに辿り着いた。ドアを開けると、
「芽生」
私の名前を呼ぶ海人くんの声がした。
「ごめんね、海人くん、見えなくて」
「ごめん芽生、芽生がなんて言っているかわからないけど、僕、もう聞こえないみたいなんだ」
聴力と視力がない私たちは、コミニュケーションを取ることすら簡単ではなかった。だけど私たちは、どちらからともなく抱きしめ合う。涙が溢れて、止まらなかった。
「芽生、リナリアの絵、ありがとう。もし君が望むならこれからも隣で、ずっと一緒に芸術家として生きたい。」

これは、芸術とたった一つの残酷な真実と、世の中の宿命が織り成す、なんとも悲痛で美しく、儚い物語であった。

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