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踊る

踊ること。わたしにとっては喜びであり、生きることであり、また同時に恐怖で、いつも不安がつきまとうもの、だった。長い間、ダンスと発音するたび、楽しい色に混じり合う不穏なイメージが浮かんでいた。

わたしは小さい時からダンスを習っている。上手い上手くない、振り覚えがいい悪い、音の取り方が早い遅い、体幹がどうの、踊り方がどうの。こういう基準のなかで上に上に、って追求することが全てだとなんとなく思ってここまできた。実際、それがすごく楽しくてずっとがむしゃらに踊ってた。本当に楽しかったし、それもとっても素敵なことだから否定するつもりはない。これも、大事なダンスの側面だと思う。

でもいつからか、結構長い時間「良いダンス」の基準がどこに行っても均一化されているように感じたり、そしてその物差しで自分が測られることになんとなく息苦しさを感じるようになった。ダンスって、もっと自由でいいんじゃないの?ダンスって、ほんとうにキラキラした人たちだけのものなの?って。そんなことを思って、ダンスとはなんとなくつかず離れずの関係を続けていた、けど、今日初めましてのダンサーさんに出会って、彼女の踊りを見て、やっぱりダンスを抱きしめたくなった。抱きしめようと決めた。彼女の少女のような獣のような必死でものすごく力強くて綺麗な踊りと表情を見て、心がいっぱいになった。これまで抱えてきたものが溢れてきて、全部手放してすこしずつ自由になりたい、と心の底から思った。わたしも、このままでいいんだ。なにも変わらないわたしのまま、歪な形のまま、うまく踊れないまま、踊って表現していいんだ。そうほぼ直感でわかった。いや、きっと踊らなくてもいい。彼女の前では、全てがダンスとして受け入れられるのだろうというものすごい力強くて優しい事実が、波みたいに押し寄せてきた。

呼吸が、ストレッチがダンスになることもあるだろう、表情が、寝相が、ダンスになることだってあるはず。踊りは、習っている人のためだけのものじゃないって思う。もしそうだったら、めちゃくちゃつまらないと思う。実際、そういう人たちほど本質を忘れてたりするんだから。わたしにとっての踊りは思ったよりキラキラしているものだけじゃなくって、もっと生っぽくて汚かったり深かったりして、生きることに密着している。と思う。

その日の気温で、空気の匂いで、気分で、体調で、食べたご飯で、着ている服で、髪の長さで、踊りはちがう。同じ振り付けを踊っても、その場所にある自分を含むすべてのものに左右されて、ダンスは変わる。複数人で踊っている時はとくに、「この場所でこのメンバーでこの瞬間を共有している」という事実はもう今後一生訪れない。気づかなくても一人で踊るのと人と踊ることは違って、何にも変わらないと思っても踊る手がその人から溶け出した体温に触れていたり、偶然生まれる連続性のようなものの中で踊っているのだと思う。そんな不確実で繊細で優しくてかわいくてかなしくてたのしくて笑っちゃってどうしようもなく生きていて、なダンスを、もっと自分らしく愛していけますように。なににも囚われず、自由にのびやかに、そこにある空気を、匂いを、自然を、周りの人を、踊りを通してもっと深く味わえますように。


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