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木の鳴る森を歩く

木が鳴る。

木の鳴る音が心地よく響くことはあるのだろうか。明るい時間帯に、注意せずとも人の気配を感じられる空間では、かろうじて心地よいものとなるかもしれない。しかし、ほとんどの場合、木の鳴る音というのは、なにか人の背筋を凍らせるような、背後に「なにか」を感じさせるような、不穏な予感を抱かせる。


どうだろうか、十分に光のあるときにも、もしも人の気配が全くしない、自分ひとりしかいない空間で聞こえる木の鳴る音は、きっと身を構えるような不穏さを帯びているに違いない。あの、ギギギという音である。音のするところの遠さがわからない、掴みどころのないなにかを感じさせる。

あなたはたぶん、音の鳴った先を探すようにほんの少しあたりを見渡すだろう。それも慎重に。なぜなら、あなたは、その音が鳴るまでは見えていなかったなにかに、遭遇しなければならないかもしれないからだ。


私が先ほど出会った音は、日が沈んだ森の中であった。完全に人が立ち入らない森ではない。道は整備してある。人が余裕を持ってすれ違える程度の広さの道だ。向こうからの人影がなければ、迷わず真ん中を歩くような狭さとでも言い直しておこう。

そこで鳴ったのだった。ギギギというあの音が。


私は予感した。怖い、と一瞬にして思った。


そして、そのことを不思議に感じた瞬間でもあった。ギギギと鳴ったのは、四方にいる背の高い黒い影たち、それは木々たちであった。

私は木が鳴ることを、先の瞬間まで知らなかった。構造物のために身を費やした死んだ木が、年を重ねていくなかで何かしらの空間や歪みが生まれたために、鳴るようになるものだとばかり思っていた。

生きている木も鳴るのであった。それは新しい発見だった。


もちろん経験に基づく木の鳴る音への反射的な認識は、首をすくめるような恐怖であった。近くにある木造の建物の扉が開いたのだと、一瞬にして自分を納得させ、ぱっと見渡すが、そのような構造物は見当たらない。ただ、木々が私を囲んでいるだけだった。そしてその音は一度で終わることなく、前方からも右からも左からも聞こえてくるのであった。恐怖を予感させる音は、生きている木の響きであった。そのことに、おかしみを感じた。口元がぽかんと開いて、畏怖の想いで目で周りを仰いだ。


「すごい、知らなかった」と思った。正確に言えば、その瞬間はそう思うことにしていた。

お化け屋敷のおどかしが、タイミングを見計らずに断続的に出てこられると何も驚かなくなるように、そこらじゅうから恐怖の予感だと即座に認識してしまうものが鳴るものだから、かえって恐怖は吹き飛んでしまったように感じられた。

だとしても、周りに人影がなく自分ひとりでその道を歩くことは、少しは恐怖を感じずにはいられない体験だったといえよう。もちろん夜の闇はそれを助長した。だからこそ、歩き続けるためにそのような認識の変換を、自分の意志とは関係なく勝手にしたのかもしれない。




人間は、いち人間と向き合ったときに畏怖する。
人間は、対人間という状態になって初めて畏怖する。
人間の自由の行使に怯える。
「私」という人間の不確実さが募らせる孤独への闇に迷い、怯える。

だが、本当に人間は畏怖する運命が刻まれているのだろうか。


人間は、自分たちの足元、頭上、身体を取り囲むすべての生まれ生きて生きていくものたちを、どうしても勘定に入れてこなかった。私はそう考える。


人間だけが感情を持ち、創りだし、なにかに対面し、自ら思考し、決定を下し、生きていこうとしているのだと考えているのではないだろうか?


希望が欲しい。人間が生きていく希望の道標が。


私たちは向き合うのでもなく、殺し合うのでもなく、自殺するのでもない。


向き合わなくてもいいのではないか?

性悪が真実なら、本当に殺し合いが始まるのか?

どこまでも落ちていく孤独という名の希望の不在は、死ぬという絶対的な動詞的な行為で忘れ去ってよいものなのだろうか?


(どこかへ続く)


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