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川上哲治監督「哲のカーテン」に取材を学ぶ
「打撃の神様」で、巨人V9時代の監督を務めた川上哲治さんは生前、日刊スポーツの評論家を務めていた。話す機会はあまりなかったが、ゴルフコンペでご一緒させてもらったことがある。
その日は激しい雨が降っていて、私をはじめ出場者のほとんどは中止になると思っていた。しかし、川上さんが了承しなかった。クラブハウスに全員が集まると、川上さんがにこやかに言った。
「雨もゴルフの一部です。皆さん、楽しんでいきましょう」
我々は雨具を着てティーグラウンドへ出ていった。さすがに川上さんは80歳を超えていたので、周囲が必死に止めてレストラン待機となったが、雨が少し弱くなると、クラブハウスを飛び出してゴルフの腕前を披露してくれた。
川上さんは巨人の監督時代、後楽園球場での日本シリーズが雨で中止になると、選手たちを多摩川グラウンドまで連れて行き、ずぶぬれになりながら練習をさせたという。
真剣勝負の野球と、遊びのゴルフを同一に考えることはできないが、川上さんらしいエピソードだと記憶に残る。
ラウンド後は出場した全員に、川上さんの似顔絵が刻印されたゴルフボールをプレゼントしてくれた。
「私の顔をめがけて、思い切りたたいてください」
そう言ってくれたのだが、恐れ多く、今なおガラスドアの書棚に飾っている。
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私は、穏やかで、にこやかな川上さんしか知らない。だが、監督時代は報道陣をことごとく排除し、バトルを繰り広げていた。
有名なのは、キャンプから報道陣を閉め出した「哲のカーテン」である。
1962年(昭和37年)2月3日付の日刊スポーツ1面に、『宮崎に「哲のカーテン」』という見出しが躍る。
なお、冷戦時代のソ連外交の秘密主義と閉鎖性をたとえた「鉄のカーテン」という言葉があり、「鉄」と、監督名にある「哲」をかけている。
同日の紙面によれば、キャンプ初日、球場にはり紙が出されたという。
「報道関係者はスタンドでご覧下さい。グラウンドにはいっさいはいらないように願います」
この年から球団に「新聞係」という、今でいうところの広報担当が置かれ、新任の新聞係が記者たちに向かい「恐縮ですが、ことしの方針として決まったものですからご協力下さい」と宣言した。
川上監督が新方針を打ち出した理由は、次のように書かれている。
「キャンプは私たちの最も重要な時です。一刻の気のゆるみもなく、鍛錬に打ち込まなければならない。まずそれには休む暇のない日課表を細かく作った。これを遂行するには記者団が選手に話しかけることが一番困る。バッティングの順番を待っている時でも、精神力をボールに集中しなければならないものだ。そこへ〝どうだい当たりは?〟と記者団がちょいと声をかけただけでも、気持ちが乱れるものなんだ。カメラのシャッター音も同じだ。これがねらいなんです」
至極まっとうな見解である。当時の記事でも「たしかにいわんとするところはわからぬでもない」と理解を示している。
ただ、記者…私の大先輩は次のように反論を書いている。
「われわれは生きた取材が目的だ。たとえば長島がこれまでに打ったことのないほどの物すごい当たりでホームランを五本続けたとする。終わるや否やその当たりの感じを長島自身に質問することが、最も正確で、生きた感想だ。それを二時間も経過した練習後に聞いたら死んだ感想になる」
「目で見ただけで書けるのは技術論をもった評論家だ。記者はレポーターだ。公式戦でも選手の話を聞いたうえで、取材したネタを裏づけとして、初めて生きた文章が書けるものなんだ」
かねがね「話を聞きもしないでいいかげんな推察記事を書く記者がいる」と口グセのように語り、記者に〝話をきくこと〟と勧めたのがほかならぬ川上監督自身であったからだ。
私がプロ野球担当を務めた平成時代は、スタンドや三塁側ベンチなど取材スペースは限られており、グラウンド内に入ることはできなかった。ただ、それでも不便は感じなかった。練習中の感想は聞けない分、練習後の落ち着いた時間により深い分析を聞くことを目指していた。
現在は、報道陣はネット速報が強化されているので、私の時代とは動き方も違う。また、コロナ禍を経て、オンラインを使う取材も浸透している。時代に応じて、互いが折り合える取材方法を見いだしていけばいいと思う。
ただ、どんな取材方法であれ、記者は個々の視点を持ち、選手とじっくり向き合う役目を担うことは変わらない。「哲のカーテン」の時代の記事には、今なお参考になる点が多々残っている。