Twitterに絵を上げるのをやめようか考えていた時の話

 こんにちは。
 思う事があり、久しぶりにまた文章を書きます。

この怪文章について

 Twitterの創作界隈の一部では以前、Twitterのアルゴリズムが改悪された件について連日紛糾していた時期がありました。

 そもそも創作に特化したSNSでないにも関わらず、多くの創作者がTwitterを発表の場に選ぶのは何故だろう、とあらためて考えていました。

 答えは単純で、人が多い──機会が多いから。言い換えれば、より多くの人に作品を見てもらう場として、現状ではTwitter以上の場が無いため、”選ばざるを得ない”という現実もあるのでしょう。つまり、「多くの人に見てもらいたい」という理由は、Twitterに絵を上げるという行為の目的として理に適っていると言えます。

 僕の場合はどうだろうか?

 実は、このことについて一年ほど前に悩んでいたことがありました。それだけでなく、Twitterに絵を上げる行為自体をやめようと考えていた時期すらありました。以下の文章の大半は、その当時に下書きに書き溜めていた悶々たるアレです。

 この怪文章は、最後まで読んだところで「ふ~ん、そう。まぁ好きにすれば」のような感想が得られるかどうか、というだけの、無駄に長い割には中身の無い自分語りですので、時間を惜しむ方にはおすすめできません。が、ここは鉄柵路というアカウントの中の人間に興味のある人しか読まないだろうとも考えているので、Twitterに文字数真っ赤な連ツイ投げるよりマシだと考え、8割は思考整理を兼ねた備忘録、残り2割は自己紹介のつもりで書いておこうと思います。
(かべうちでも良かったんですけどあっちは見出しとか使えないので)


Twitterのアカウントを引っ越した経緯

 いつもお世話になっております。鉄柵路です。
 突然の引っ越しで驚かれたフォロワー様もいらっしゃるかと思います。
 私の勝手な都合で振り回してしまう形になってしまい、申し訳ありません。
 移転の経緯としては、端的に言えば、前アカウントでの自由な創作活動が難しくなったためです。
 原因は全て私個人に起因する気質的な問題です。

 ・フォロワーが一万を超えた昨年あたりから無意識下で自意識が肥大化し(調子に乗っちゃった)、思考や発言が先鋭化傾向にあった
 ・肥大化したネット自意識を制御できずにいる一方で、うだつの上がらない現実とのギャップによって創作意欲が減速することがあった
 ・「評価は関係ない」「流行は追わない」等の「それ言うってむしろ意識しちゃってるじゃん」系発言や思考が、自由な創作意思に干渉し始めた

 根本的な問題として、そもそも私がSNSで絵を上げるようになった目的が「多くの人に見てもらいたいから」であったにも関わらず、実際に多くの人に注目された結果、絵ではなく自分語りをするようになってしまい、当初の目的がおざなりになってしまったという事があります。
 Twitter自体も元々は「pixivよりライトなプラットフォームで気軽に投稿したい」という動機から開始したものの、その手軽さ故にいつの間にかお気持ち申すマンになってしまい、私自身「表現したかったものと違う」「こんなはずでは」という思いに苛まれていました。
 物申すアカウントやメンヘラアカウントを別で設け、現行アカウントで黙って絵だけを上げるようにするなど自分なりに試行錯誤もしましたが、
誰もいない場所で物申しても余計に虚しいだけで、結局元に戻ってしまい無意味でした。
 つまり、私は絵を見てフォローして下さった多くの方を、自意識発散の捌け口として絵で釣って利用していた形になってしまっており、これは本当に申し訳なく思います。
 意志の弱さや甘え、総じて私の人格の未熟さが原因です。
 
 それで、今回移転に踏み切ったのは、以下のような効果を期待してのためです。

 ・絵と発信のみを行うメイン(精神)アカウント、閲覧のみ行うサブ(肉体)アカウントを分け(幽体離脱化)、創作活動の純度を高めつつ公私混同を防ぐ
 ・閲覧→(拡散→)思考→発信の間にアカウント切り替え・DM転送というワンクッションを置く事で「文字数真っ赤ツイートの連投」(思考の氾濫・感情突沸)を防ぐ
 ・メインアカウントTLは自分の発言と絵だけが延々流れる画廊状態にし、客観化(絵とお喋りの釣り合いの明確視)を促す
 ・いいね、RT、フォロワー数等の数値不可視化アドオン導入により自意識の肥大化防止と安定を図り、作品純度の向上に専念できる環境にする

 前アカウントの扱いについては、6年間続けた絵と思い出と共に残しておきますが、新しく何か上げることはもうないので、基本的にフォロー解除していただいて大丈夫だと思います。
 ただ、今後当アカウントが何らかの障害により投稿不能になった場合などの臨時拠点として使用する可能性はあります。
 私が原因で、私の都合で、フォロワー様に移転を強いてしまうのは心苦しく、身勝手の極みである事は重々承知しております。が、それでも「まぁ見てやるか」と思っていただけましたら、今後も変わらぬご愛顧をいただければ、大変嬉しく思います。
 創作の方向性自体は路線変更せず、えっちな女の子やえっちなメカやえっちな火器などの絵を描いていくつもりです。
 またゼロから心機一転頑張ろうと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 最後に、今まで多くの方にフォローいただき絵を見ていただけた経験が純粋に嬉しかったのは私の中で紛れもない事実であり、かけがえのない財産です。
 本当にありがとうございました。
鉄柵路

2021年3月8日の文字画像より

 長いよ。

 そもそもは、「最近なんだかお絵描き意欲がわかないなぁ」という気持ちがきっかけでした。

 その理由を突き詰めるべく自己分析を行い、対策として打ち出してみたのがアカウント引っ越しという行為だったわけで、ひとつずつ内容を要約すると、

・フォロワー増えすぎて自意識過剰になっちゃった
⇒フォロワーをゼロに戻してみようかな。

・聴衆が増えたと思い上がってお手軽に承認欲求を満たすべく求められてもいない要らんことを呟き過ぎた
→絵のアカウントとしての純度が低下し物申すアカウント化
→「こんなハズじゃねぇ」からの「おれはもうダメだ」化
⇒フォロワーゼロに戻したうえでフォローもゼロにして外部情報に触発された自分語りをしにくくしてみたよ。

・数字的なものが気になりだした
→自分が思う「良い/悪い」が「数字が出る/出ない」という価値観に書き換わり始めた
⇒(自分からは)自他共に数字見えなくしてみたよ。フォローもゼロにして自分の絵が他人の絵と同じTLに並ばないようにして価値並列化の阻害も見込んだよ。

・自意識をリセットするため目的別にアカウントを増やし、それぞれの目的に特化した運用を行う環境にした
⇒既存垢をROM専にしたから絵を上げてなくても生存報告にはなるでしょ。逆に絵垢は絵だけ上げるようにしていけばどうかしら。

要約してなお長いね

という感じになります。

 これらが効果的に機能したのか? ということは後述するとして、実際にここまで考えてやってみて、そもそも論として「ここまでのことをしてまで、俺はTwitterで何がやりたかったんだろう?」という疑念が新たに発生してしまい、悶々としておりました。

 というか、思っちゃったんですよね。

「Twitterに絵を上げるのを、やめてもいいのでは?」

 早々にタイトルを回収したところで、次項に移ります。


そもそもTwitterに絵を上げ始めた理由

 これを説明するためには、僕の創作遍歴を回顧するため、回想編に突入せねばなりません。

 しかし、初稿ではこの回想編だけで12000文字近くいってしまったので、それはそれでいつか別の記事にするとして、これまでの主な僕の創作発表の場とその方法を簡潔に挙げてみました。

① 高校時代・個人ホームページ開設前まで
 ⇒友人に直接会って見せる、メールによる寄稿、お絵描き掲示板への投稿

② 高校時代・個人ホームページ開設
 ⇒自分でホームページにアップ

③ 大学時代・pixiv登録
 ⇒SNSへの投稿

④ 社会人時代・pixiv、HP、Tumblr併用時代
 ⇒SNSへの投稿

⑤ 社会人時代・pixiv、Twitter併用時代
 ⇒SNSへの投稿

思えば遠くへ来たもんだ……

① 高校時代・個人ホームページ開設前まで 
 この時期は、(思い出として語れば長くなりますが)説明は不要かと思います。

② 高校時代・個人ホームページ開設
 いわゆる無料ホームページサービスです。僕と同世代の方なら経験のある方も多いのではないでしょうか。僕も今は亡きEasy Orahooやジオシティーズを愛用していました。

 これらのサービスでは、HTMLの知識がなくともテンプレートを活用すれば本格的なフレーム構造のホームページを作成可能。ただし、バナーアイコンなどの素材は当然全て自分で用意しなければならず、絵を公開する場合も自前でサムネイルを作り、本画像と共に一旦アップローダに上げ、そこから更にリンクを張る必要があるなど、その手順は煩雑でした。

 僕の場合、凝ったレイアウトのページを作った段階で満足してコンテンツを充実させる前に飽きてしまい、肝心のコンテンツの大部分が工事中のまま更新が滞り、忘れた頃にリニューアル、を繰り返す……という、絵に描いたようなダメ管理人の体たらくでした。というか、別にウェブデザインがしたかったわけじゃないし。でも、自分で作るからにはクールで凝ったものにしたいじゃないですか? だから色々調べてしまう訳です。

 その経験自体は無駄だったわけではないのですが、とにかく絵を公開するためにやるべき作業が多すぎて、気が萎えてしまったんですよね。特に、当時は自分のマシンがなく親のPCを間借りしていたため、作業時間を自由に確保できなかったのも更新が続かなかった理由だったと思います。

③ 大学時代・pixiv登録
 一人暮らしで自分の時間も増え、自分用マシンも入手したため、当時既に多くの絵師が参入していたpixivにようやく登録しました。ここに至るまでにも色々葛藤があり、pixivへの登録は正直当時としてはかなり高いハードルでした。

 しかし、HTMLタグをいじったりサムネを生成する必要もなく、絵をアップロードするだけできれいに並べてディスプレイしてくれるので、当時としてはかなりお手軽に感じましたし、ネットに公開する精神的ハードルが下がった事で公開頻度も上がりました。

 最も不安視していた「自分の絵に点数がつく」というシステムも、一度軌道に乗った後はむしろやりこみ要素のような中毒性を発揮しました。僕は現実だけでなくネットでもコミュ障であり、絵投下スレやお絵描き掲示板などで他者と交流した経験すらほとんど無かったため、自分の絵に見ず知らずの他人からコメントがつくというのも新鮮でした。

 実は当時、既にTwitterも運用していました(一代目のアカウント・削除済み)が、そちらにはあくまで絵は投げず、投稿したpixivへのリンクを貼って宣伝のようなことをしていました。ただ、Twitter上に一切絵を置かなかったのと、当時のpixivリンクは現在と違って文字情報のみしか表示されない仕様だったため、当然ながらフォロワー数やファボ、リツイートなどの数値はほとんど増えませんでした。どちらかというと、日常や自分語りメインのブログの延長的に使っていた気がします。

④ 社会人時代・pixiv、HP、Tumblr併用時代
 
この時期は、最も多くのサービスを併用していた頃で、より多くの方に絵を見てもらおうと色々考えていた時期でした。というのも、投稿するうえでは便利だったpixivは、非会員の人から見てもらうことが難しかったからです。初対面の人に絵を見てもらう際、名刺代わりに教えられるような絵の置き場が欲しい。しかしかといって今更個人ホームページに回帰するつもりもなく……。

 ここで、当時絵師の間で利用者が増えていたTumblr(タンブラー)に登録します。投稿した絵だけをシンプルに表示してくれるサービスで、pixivと違い外部からでも閲覧が可能でした。

 ホームページには直接絵を載せず、自分のプロフィールや連絡先などのみ記載し、作品はそれまでのギャラリーページに代わってTumblrへのリンクを貼り、それとは別にpixivのリンクも載せる形にしました。これで、pixivに登録していない方にも作品を見てもらえるし、何か宣伝する際はシンプルに自分のホームページへのリンクを紹介すればよくなり、そこから先は利用者の好みでサービスを選んでもらうという仕組みです。コンテンツの更新作業もホームページではなくサービス側で行えばいいため、ホームページはほとんど放置状態。ちなみにこれらのやり方は、当時複数の絵師さんがやっていたのを真似たものでした。

⑤ 社会人時代・pixiv、Twitter併用時代
 そしてこの形態が、もっとも長続きしました。結構この組み合わせでやってる方も多いのではないでしょうか。④のシステムは、絵を一枚描くたびに複数のサービスに適したリサイズを経ていちいち投稿する必要があったのを面倒に感じるようになり、結局は②のとき同様早々に行き詰りました。そこで、Tumblrよりさらに手軽に投稿できるサービスとして、一度退会していたTwitterを利用することに。

 結局、投稿の手軽さと誰でも見られるオープン性から、その後はむしろTwitterをメインに投稿し、pixivは気の向いた時に大作のみ、あるいはTwitterに上げたものをまとめて掲載する等の運用になっていきました。かつては割と熱を上げていたpixivは、ここ最近はほとんど覗く機会もなくなってしまい、ランキングに入ることもなくなりました。


 以上より、僕がサービスを選ぶ際に重視するポイントは、とにかく操作が直感的かつシンプルで面倒臭くないという点だと分かります。単にズボラで面倒臭がりなだけですが、言い換えると「作品制作がメインで公開やそれに付随する作業にはあまり時間や労力を割きたくない」という姿勢の表れでもあります。

 少なくともその点で、Twitterは現時点でも手軽さにおいてはおおむね満足しています。この「描いたらすぐに公開できる」という手軽さが、僕の場合モチベーションにかなり影響するわけです。

 では、そんな手軽なツールを使っている現状、何故表題のような悩みが発生してしまったのか。

 前術の通り、僕がTwitterを利用している理由は手軽さであり、それ以外の特性については正直あまり深く考えずに「以前使っていて使い勝手が分かっているから、新しいツールの使い方を一から覚えるより面倒が少ない」という程度の理由で手を出した感はあります。そこで次項からは、あらためて初心に返り「そもそもTwitterとは本来どんな特性を持ったツールなのか?」という事を、イラスト制作者という目線から自分なりに掘り下げて考えてみることにしました。


Twitterの弱点・制御不能な「拡散」

 Twitterのメリットについては「人口が多い」と先に述べているため、ここではデメリットを挙げています。なお、あくまでブラウザ版と公式アプリの使用を前提としています。

※ 以下、すべて個人の感想です。感じ方には個人差があります。
※ 現在Twitterで活動している絵師の方々やその活動、僕をフォローしてくださっている方がたの存在やその繋がりを否定する意図はありませんのでご容赦ください。

(予防線)

・ そもそもイラスト公開に特化していない

 いきなり身も蓋もありませんが、これが地味にストレスになっています。

 恐らくですが、運営側としては画像投稿機能はあくまで汎用的なSNSとして日常の写真等を載せるような運用を想定しているようです。はっきり言って、お絵描きヘビーユーザー向けに最適化されているとは言えないんですよね。画質は劣化するし、サムネのトリミングは思うようにできないし。

・ 画像一覧表示が出来ない

 pixivのユーザーページやTumblrのように、絵を一画面に整列して表示できないため、プロフィールからイラストだけを探すのがとても面倒です。メディア欄は日常写真やゲームのスクショが混ざり、単純に「この人はどんな絵を描いている人なのか?」を把握するのには向いていません。これは自分の絵を一覧で見たい場合も同様です。

 モーメントでまとめるという方法もあるにはありますが、そのやり方も分かりづらく、またモーメント自体は個々のプロフィールから参照できないためモーメントを掲載する為にモーメントへのリンクを貼ったツイートを別途行ったうえでプロフィールに固定表示する必要まであります(リンクをプロフィールに載せる事も可能だが文字数制限に引っかかる)。おまけに、このモーメントでもサムネイルを一画面に並べて絵だけを眺めるような画面にはならないため、最新イラストを見る為には時系列をひたすら遡らねばならず、使い勝手が良いとは感じません。この機能もやはり、本来はイラストではなく文章や写真をクリップする使用方法を想定しているのでしょう。


 ただ、これらは僕が今更述べるまでもなく、正直どれも利用者は承知の上で利用しているのだと思います。それでも、それを承知でプロイラストレーターはじめ多くの絵師やクリエイターがTwitterを発表の場として利用しているのは、先述の通り単純に「多くの利用者がいるから」=「見てもらいやすい環境だから」なのでしょう。これが言わば、Twitterの利点だと考えます。

 しかし、この「利用者が多い」事こそが、Twitterの落とし穴──三つ目の弱点になりうるのではないかと最近思うようになりました。

 「炎上」のリスクです。

 Twitterの特徴として、高い拡散性が挙げられます。リツイート機能によって、情報は芋づる式に拡散します。確かTumblrにも似たような機能があったと思いますが、イラストに特化しているpixivには無い機能です。

 しかし、この拡散性というのが非常に厄介です。

 僕は以前、誤った内容のツイートを行った事で事実とは異なる「嘘」を多くの人間に流布拡散してしまい、途方に暮れたことがありました。

 まず、基本的に一度拡散してしまった情報は後から訂正することが出来ません。ツイートを削除する事はできますが、既に多くのユーザーに拡散していた場合、削除を見越して魚拓を取られている可能性が高いです。まぁTwitterに限らず、ネットに公開してしまった時点で誰かのローカルに保存されている可能性は常にあると考えるべきでしょう。ネットニュースなどは後々こっそり修正や追記をしてたりしますが、現在進行形で拡散しているツイートは投稿後に編集すること自体不可能です。できることは鍵をかけて拡散を止めたりツイート本体やアカウントごと削除することですが、そこまでしたとしてもスクショだけが延々拡散され続ける状況すらあります。

 結局僕は訂正をリプライでぶら下げた上で訂正をリツイート連打するしかなかったわけですが、そもそも、たとえツイートを削除しても、もしくは編集ができたとしても、既に読んでしまった人間の脳から誤情報を消すことはできない。今回のように元ツイに訂正をリプでぶら下げても、全ての人がリプまで熟読してくれるわけではない。初っ端の自分がそうだったように、あくまでちょっとした時間潰しのトリビアをフォロワーへ提供したつもりで、どんどん拡散されていく。リツイートしたアカウントが刻々と増えていく状況で、個々のアカウントに謝罪と訂正を行うのも非現実的。

 悪意が無かったとはいえ、ウソの情報を流してしまった僕が目の当たりにしたのは、見ず知らずの人が「そうだったんだ」「知らなかった」と口にし、自分の流した誤情報に上書きされる形で知識を”破壊”されていく様でした。それを当事者として味わったことは今でも忘れがたい経験です。世間を騒がすデマや風評被害も、悪意ありきでなく、もしかしたら最初はちょっとした勘違いや無知がこうやって加速していった結果なのかな、と。発信が容易になった現代で、それに伴う責任をどこか忘れていたことに気付いたのでした……。

 先のツイートは、たまたまTLで旬だったハッシュタグに乗っかってしまったことや、誰でも話題にしやすい学校制服という題材をよりにもよって図解付きで投げたのが災いして予想外に拡散されてしまったようなのですが、幸い、というか、この時は理知的に誤りを訂正してくれた方が大半で、僕個人はそれほど大事には至りませんでした(というのは、その後に「別件」では大事になった、という事なのですが……)。

 また、先述の通り、投稿した側のユーザーは削除を除けば鍵垢にする以外で拡散を制御できないというのも厄介な仕様です。範囲を限定できないため「FF内の身内にだけ拡散する」という事は出来ず、誰かがリツイートを実行する限りどこまでも無限に広がっていきます。いわゆる「バズり」現象です。

 絵がバズると、それまで自分をフォロー(認知)していなかった人間まで絵が届くので、うまくいけばフォロワーが増加します。よって、

「バズる」
⇒「フォロワー増加」
⇒「さらにバズりやすくなる」
⇒「さらにフォロワー増加」

ゆきだるま

というサイクルが発生するので、一般的に絵師に限らず、Twitterユーザーは少なからずバズりを「有名人じゃん」「通知が止まらんwwww」等肯定的に捉え、目標とします。

 しかし、この現象の何が厄介かというと、公開範囲を限定できないために本来想定していたターゲット層以外の界隈にも波及してしまう危険性があり、その結果発生するトラブル──つまり「炎上」に繋がる危険を常にはらんでいる点です。自発的に「バズり」を狙ったならまだしも、「ここまで拡散するとは思っていなかった」場合が特にダメで、本項最初のセーラー服に関するツイートも「普段から思っている事を身内に向けてちょっと絵にしただけ」という甘い認識のもと深く考えずに投稿していました。

 僕自身体験して分かったのですが、これが発生すると高確率で面倒なことになり、最終的には鎮火の為にせっかく描いた絵を削除したり、鍵垢にする等の対処が必要になります。

 しかし既に述べた通り、絵を削除したとしても魚拓やスクショによって延焼が続く場合もありえます。当然、延焼が長引けば中には心無い言葉や謂れのない人格否定などを無責任に投げつけてくる人間も出てきます。そういった度を越えた人間は、元のツイートの内容など関係なく「理由をつけて他者を攻撃したい」という強固な意思によって行動しているため、もはや元ツイの訂正謝罪程度では抑止できないこともあり、創作意欲はもちろん人によってはメンタルもガリガリ削れます。そうなってしまったら最後、もう通知を切る、見ないようにするしかないです。僕はもう怖いので通知は切ったままにしています。

 では最初から鍵垢にしていれば大丈夫かといえばそうとも言い切れず、たとえ公開範囲をごく身近な身内に限定していたとしても、その内部にいる人間が外部に情報を漏洩してしまえば結果は同じです。バイトテロなんかもそんな結末ですね。鍵垢にしようが、アカウントが個人番号と紐づいているわけでもないので、いくらでも複垢で内偵が出来てしまいます。結果、限定公開にしたという事実そのものが「知られたらまずいと隠した」「自覚ある確信犯」と部外者に扱われてしまう危険すらあるため、事態の悪化具合は却って酷くなるような気さえします。その後に沸き上がる身内に対する疑心暗鬼も含め、です。

 ここまで気にしだすともはやSNSをやめるしかないでしょう。炎上も喧嘩もコミュニケーション、と割り切って楽しめる人はともかく、僕のように「ただ絵を描いてただけなのに」という人にとっては、避けるべき事態だと思います。

(実は、この経験を得るきっかけとなった「別件」の時の炎上までの経緯やTwitterでのやりとりを記録した記事をここで公開予定でしたが、あまりにも思う事ありすぎて膨大な文字数として膨れ上がってしまい、さすがに大人げないのと非生産的すぎて吐き気がしたため公開をやめました)

 このように考えた結果、僕の脳内で関西弁のあんちゃんが囁くわけです。

「炎上するような際どいネタをやらなきゃええやん。君子危うきに近寄らずやで」

 確かに、それは有効な策だと思います。少なくとも、今の僕ならそうするでしょう。ですが、そう簡単にいかない構造が、SNSには隠されているわけです。


自己と作品の評価を同一化してしまう

 これは何もTwitterに限ったことでなく、pixivや他のSNSでも発生しうる現象で、実際に僕も一時期このような状態になりました。ここでは主に「絵」を対象としていますが、文章や写真、コスプレなどあらゆる創作物に当てはまると思います。

 具体的には
・ 描いた絵が伸びた ⇒ 伸びた絵を描いた自分スゴイ! と増長する
・ 描いた絵が伸びない ⇒ 伸びない絵を描いてる自分ダメだ 氏のう

という症状に陥ります。特にTwitterではプロフィール欄に表示されているフォロワー数や、自他の絵がタイムラインで入り乱れ嫌でも目に留まることにより価値の相対化が起こるため、特にこの傾向が強まる気がします。

 これを、単純に

「描いた絵が伸びたのは、伸びる絵を描いたからだ」
「描いた絵が伸びなかったのは、伸びない絵を描いたからだ」

と捉えられるかどうかが分かれ目で、要は絵への評価と自分自身への評価を切り分けて考えられるかどうかなのですが、過去の自分含めて混同してしまう人が多く見受けられます。何故か?

 それは恐らく、「高評価な作品を作った人間は当然評価されて然るべき人間である」という権威主義的な思い込みや、「才能に恵まれた人物によって作られた作品が評価を受けるのは自然だ」という経験則によるものだと僕は考えます。有名な表現者は総じて人格者だと思いたい(思ってしまう)現象や、ファン心理を通り越して信者化してしまった果ての盲目化についても同様の現象であり、自分が他者を好きになることに合理的な理由付けを求めているからではないでしょうか。誰しも悪人より善良な人間を信じたいし好きになりたいと思うはずです。

 しかしよくよく考えればそうでないことは明白です。すごく良い絵を描いて公開されているのに全く評価されていない(フォロワー数が少ない)方もいれば、インフルエンサーの絵の中にも誰にも見向きされなかった一枚があるはずで、それらは見えていないから認知できないだけです。

 そもそも、Twitterに投稿した絵に対する評価とは何か?

 pixivには評価システムがありますし、ブックマーク数も指標になりますが、Twitterにあるのは「拡散数」と「いいね!」の数だけです。

(アクティビティ、エンゲージメントというデータもあるようですが、表面的な数字ではない、他者からは参照されない故に相対化できない、自分があんま気にしたこともないので、言及を避けます
→2022年12月時点で他人からも見えるようになちゃったっぽいので訂正。とはいえ自身のページ更新で増やせる等数値的に評価軸としては機能しない点は変わらず。評価度というより露出度に近い。

 単純に考えるならもちろん「いいね!」の数=評価ですが、Twitterの場合に重要なのは、前述のとおり「拡散」です。拡散が無ければ基本的に「いいね!」も増えません。「いいね!」単体でも拡散しない事はないですが、リツイートに比べれば微々たるものです(しかもその仕様は忌み嫌われており、一部では「いいね!」を控えてブックマークを使用する等の弊害が起きている……)。

 では、「リツイート数=絵の評価」なのか?

 僕は、そうは思いません。

 そもそも、人々が「リツイートをしたくなる時」とは、どんな時でしょうか? 僕なりに考えつくものを挙げてみました。


①「これはおススメ」「笑える」「おいしかった、楽しかったから皆に知らせたい」等の好意を伴う紹介
 これが最もポジティブで、Twitter運営が推奨している拡散の文脈だと思います。絵に関しても、基本的にはこの文脈で拡散されていると思います。

②「これ同じこと思ってたわ」「あるある」「分かるってばよ…」等の好意的共感や同意・同調を伴う引用
 主張や経験を記した文章や、文章を伴う漫画ツイートなど。①と似ていますが、絵もキャプション次第ではこの文脈で拡散されている気がします。このタイプのツイートは共感性に訴える点で①より拡散力が強い気がします。

③「これはマジで気を付けて!」という善意に基づく注意喚起や「助けて!」「知ってたら教えて」等の協力要請
 これは特に解説の必要はないでしょう。拡散希望などのハッシュタグがついたりしますね。

④「こんな情報も持っている僕ってインテリじゃろ?」「こんなおもろいネタ知ってる僕っておもろい人間やろ?」という愉悦感
 
正直に、①~③を装ってこういう下心でリツイートした事がない人間だけ、私に石を投げなさい。

⑤「おい見ろよ、こんなアホがいるぞ」という義憤や敵意による周知や暴露
 所謂「晒し」。③のような注意喚起を装っている事もありますが、だとしても個人的には好ましいやり方と僕は思えないので、この手の文脈でのリツイートを多用するアカウントに対しては何かしら自衛処置を講じています。

⑥「いや、そうは思わない」「これは真実ではない」等の否定を伴う引用
 ツイート内容に対する純粋な指摘か、指摘を装った的外れな自論の押し付けか、単なる個人攻撃かで悪意の有無が分かりますが、いずれにしても受け手次第では受け手の気分を害すると思うので、僕個人はこういう文脈でのリツイートはしないようにしています。文字数制限のあるTwitterは本来議論には向いていませんからね。

⑦「いいえ、しょうゆです」引用リツイートの仕様(元ツイ発信者に通知が届く)を理解していない無自覚者、または悪戯や悪意に基づくツイート
 論外ですが、意外と多いんですよね。子供なのか、距離感を測れないのか、或いは喧嘩を売っているのか、いきなりタメ口でリプの如く話しかけ(ている事に気付いているのかすら怪しい)てきたり、ネタも分からん画像をリプ同然に投げてきたり。アンタ誰だよ。


 引用リツイートについてはその仕様上思う事が多々あって、長くなるので箇条書きに。

  • 自分は目から鱗だったのですが、Twitterには「壁打ち」といって【本人(ツイート主)に直接届くコメントや引用ツイートなどを使っていてもそれは単に思った事柄をTwitterの機能を使って言っただけで、返信や反論等の反応を期待している訳ではない】──という文化があるようです。そんな事など露知らず、リプのつもりなのかと思って返信してみれば「自分のフォロワーに向けて紹介しただけで、あなたに向けて言ったわけじゃない」などと返してくる方も中にはいました。思った事を自分のフォロワーに対して表明したいだけであればRT後に普通にツイートすればいいはずですが、それが面倒で引用ツイートを使うのか、「ツイ主本人にも届く」という仕組みを単に知らないのか、そのような使い方をされる方が結構いるようです。個人的には、面倒にしろ「言いたかっただけ」にしろ無駄な諍いを生む悪習だと思わざるを得ませんので、巻き込みリプより辟易します。なので、引用RTには基本的にリプを返さないようになりました。

  • 例えば、街にいる人を見て「ダサい格好だな」と思うのはもちろん自由ですし「今日街にこんなダサいやつがいたんだよな~」と友人に話したりTwitterで語るのも、あまり褒められた趣味ではないと考えますが(盗撮などによる容姿などの個人情報を添付しなければ)自由です。しかし、本人に向けて指をさして「お前ダサいな!」と言うのは、例えどんな理由があったとしても人として失礼過ぎると思います。しかもその場限りで言ったならまだしも、SNSではそれが文章として残り、衆目に晒されるわけです。大袈裟に言えば名指しによる名誉の棄損です。Twitter上の特定のアカウントに対してコメントや引用ツイートを行うというのは、そういう事だと解釈しています。本人が「ただ言っただけ」「お前に直接言ったわけじゃない」「返事は期待してない」などと自分本位な理由を述べたところで、名指ししている以上それは通じませんよね。言われた本人は不快に思いますし「ケンカ売ってんのか」と思われても仕方ありません。むしろ、最初からケンカを売ることが目的の、いわゆる「煽り」と断定しかねません。自覚の有無に関わらず、場の秩序を乱して無用の争いを生む者は「荒らし」です。

  • 一方で、引用側にとってこの「ツイ主本人にも届く」という仕様は実際に自分のツイートが他者に引用されてみないとなかなか気付きにくいとは思うので、引用送信時に「内容は発信者にも通知されますが宜しいか?」と但し書きする、あるいは引用による通知を受け手側で任意に解除できるようにしないTwitterもアカンと思う。

  • まぁ実際のところ、ここでいくら喚いたところで減るもんでもないので、そんな秩序を無料で誰でも使えるSNSに求めても仕方ないし、本当に不快なら鍵かけるなりTwitterやめるなり自衛すべきなんでしょうけど……。


 と、なんか後半は文句になってしまいましたが、単に「拡散」と言っても自分が思い付くだけでこれだけの文脈が存在するわけです。自分のツイートが拡散された時、拡散者がどんな意図でリツイートを行ったのか? ……正直これは、ほとんどの場合分からない事の方が多いです。

 バズったツイートの拡散数が、このうちどの文脈に占められているかで、その後炎上するかどうかも決まるのではないかと考え、僕は炎上事件以来、ある程度伸びた絵はリツイート直後のツイートを表示するやつで拡散者の動向をチェックし、⑤~⑦のようなツイートが散見されたら炎上の兆候とみなしすぐに手を打てるように備えているつもりです。が、拡散者の多くは無言RTで、やはり前述のように「どんな意図で拡散されているのか?」は結局分からなかった事が大半でした(裏を返せば「気にする必要はない、考えるだけ無駄」という事でもある)。

 つまり、注目を集めていることは分かるがそれが好意的な反応かどうか分からない以上、意図不明な拡散は評価軸として機能しない──Twitterのリツイート数を純粋な評価=好意として捉えるのは些か恣意的すぎるのではないか? という考えを僕は持っています。なんならフォロワー数にも言えることですが、次の項ではリツイートについてもう少し掘り下げてみようと思います。


どうすればバズるのか

 多くの人に絵を見てもらいたい。
 そのためには多くのフォロワーが必要。
 フォロワーを増やす為にはバズりが必要。
 では、バズらせるにはどうすれば?

 以下はどれも、今更目新しい事でもなく、多くの方が実践されている基本に過ぎないと思いますが、何度かバズった際の経験を元に、あくまで持論として考えてみることにしました。


① 人の興味を引くような内容にする

 簡単に言えば、ユーザーに対し前項①~⑦のいずれかの感情を想起させるような内容の絵を描けばいい訳です(絵である必要はありませんが)。

 多くの人に人気のコンテンツの版権絵(特に現在進行形で展開しているもの)、誰しも(あるいは限られた界隈内において)抱く普遍的な疑問や不満、共感を得られやすい義憤等の感情を盛り込んだもの、或いは世間で白熱している問題提議や議論に対して分かりやすく持論を述べるなど、他人の目を引くような内容であればいいでしょう。

 話題性の追求という点では、界隈で流行っているハッシュタグに便乗するのも有効です。ツイートに一定の指向性を持たせることで、同じ方向性の人々の目に留まりやすくなるからです。

 興味深い事に、同じ内容の絵でもキャプションをよりティーザー(人々の興味を引くような内容)にすると伸び方が変わることもあります。文字情報の方が検索性は優れています。絵の内容だけが全てではないんですね。極端な話、絵とは全く無関係なキャプションを載せても、その文章へのツッコミという形で拡散させることさえ期待できるわけです。

 その意味で、決して推奨しているわけではありませんが、フェイクニュースも「事実ではない」が「人々の気を引く話題」という意味で拡散されやすい条件を満たしています。フェイクニュースは拡散に特化していますから、それはそうですね。これが発信者の意図しない形で発現したのが、先に紹介した誤情報ツイだったわけです。

 あとは、エロですね。エロは人類共通の感情です。言語の壁すらも飛び越えます。エロを描けば伸びる、という事実は、体感的に多くの絵師が共有している現象だと思います。人の性癖は簡単には変わらないため、ジャンルを絞れば一定の需要が見込めます。当然、それらを不快に思われる層や未成年ユーザーの存在を考えると万能ではありませんが、それでも許容母数としては非常に大きいと思われます。そもそもエロ=アダルト表現というわけでもないですからね。無機物にもエロはあります。

 さて、この「興味を引く」で重要なのは、必ずしもそれが「上質」であることや「正確」であることは求められていない点です。極論、緻密で精巧な彫刻デッサンより、未完成であってもタイムラインの話題の嗜好を機敏に捉えて描いたタイムリーな版権キャラクターの絵の方が、ツイートとしては伸びやすい傾向にあると言えます。

 手前味噌ですが、こんな顔も描いてない色もロクに塗られていないゴミみたいな絵でも数字だけなら稼ぐことができます。補足すると、この時はTLで「フィクションにおけるセーラー服の記号性をどこまで許容できるか」みたいな(だったかな?)話題があり、それに乗っかったものです。

 Twitterは品評会会場ではないので、自身の知名度が高い場合を除き基本的に話題に取り残された作品はいくら良いものでも流されて埋没していきます。遅巧は拙速にしかず。ここを理解していないと、

「オレはやはり絵が下手だからダメなんだ」
「アイツよりオレの方が基礎画力は上なのに伸びないのは、オレがクズだからだ……」

のような暗黒面に堕ちます。何言ってんだ、伸びている人はみんなうまいじゃないか! という指摘も、実は自分がそこを気にしているが故にそこにしか注目できていないだけで、別にうまくなくても伸びている人もいます。その現実を自分が認められていないだけです。

 あと、意外に「独自性」も不要である事の方が多く、むしろ、馴れ親しみやすい普遍性の方が大事だと感じることの方が多かったです。エロにしてもそうですが、全人類に通じる=共感性が極めて高い分野、とも言えます。そもそも強烈な個性を武器にしてバズれるような人は既に存在そのものが話題性を帯びているので、その時点で「いかにバズるか」というこの議論から逸脱するキラーコンテンツな訳です。

 しかし、バズる要素はそれだけではありません。


② 時間

 投稿する時間も大切です。単純に、より多くの人がいる時間帯に投げた方が、より多くの人が目にしてくれる確率が上がるからです。いくら天下の往来で裸踊りをしたとて、それが深夜か白昼堂々かで通報される確率には雲泥の差があります(あんまりな例えですが)。

 僕自身、一時期はpixivでも投稿時間をかなり気にして上げていました。最近でもVtuberのアカウントなどを見ると、どの方も大体同じような時間帯に投稿していて、ゴールデンタイム(死語)をかなり意識している事が分かります。

 ただし、これは割と多くの人が知っている法則なので、翻って「埋もれやすくなる」ことと表裏一体でもあります。コアタイムのタイムラインや新着イラストが鬼のような速さで流れ、自分のイラストをあっという間に押し流してしまった……という光景は、目にされた方も多いのではないでしょうか。

 では、どうすれば?


③ 運

 そこで、あとは運です。運任せかよ! と思われるかもしれませんが、結局伸びるかどうかは運ですし、同時に運というものは自分で引き寄せることが出来るものでもあります(唐突なスピリチュアル要素)。つまるところ、①や②は③を引き寄せるための要素に過ぎません。

 具体的には、既に多くのフォロワーを擁しているインフルエンサーの目に留まるかどうかです。彼らに一度リツイートしてもらうだけで、爆発的な拡散が期待できます。そういう意味では、①なども「多くの人の気を引くような」ではなく「インフルエンサーの気を引くような」であってもいい訳ですが、多くの人の気を引く内容でなければいくらインフルエンサーの拡散であってもスルーされることがあるため、やはり重要なのです。

 インフルエンサーと仲良くなって定期的に拡散してもらえるような関係性を築くことが出来れば、やがて固定ファンがつき、①や②に気を付けるだけで安定した数字を取ることが出来るようになるのではないでしょうか。実際、僕自身も絵がバズってフォロワーが爆伸びした時期は、雲の上の存在だと認知していたアカウントによって拡散していただけたのが大きかったように思います。

 これらの事実に気付くと、ありがちな「でも神絵師のラクガキは伸びてるじゃん。俺のラクガキは伸びないのに。やっぱり俺はダメだ」みたいな考えは間違っていることに気付くと思います。ラクガキでも伸びているのではなく、拡散力があるから伸びている。上述のようなテクニックも交えつつ他の神絵師やインフルエンサーといった人脈を築いてきたからこそ拡散力がある。だからラクガキであっても多くのファンに届く。そしてファンが喜ぶようなラクガキをしている。……たぶん、そんな感じだと思います。知らんけど。

 ここまでで、何だかTwitter絵師指南のような内容になりつつありますが、自分の中でこれまで考えていた「どうすれば伸びるか」論を披露しました。そして、この一連の流れはある種のゲームであるという認識に僕は至りました。
 どんな素材をどう料理するか? それをどのタイミングで出すか? 運も絡みます。やり直しの効かない一発勝負です。

 勝てば数字がとれます。勝ち続ければさらに数字がとれますが、負けても傾向と対策を練ることで巻き返しを図れます。これはどれだけ多くの数字をとれるかを他者と競うゲームです。

 さて、ここで前項で紹介した賢明なあんちゃんの意見を、もう一度省みてみましょう。

「炎上するような際どいネタをやらなきゃええやん。君子危うきに近寄らずやで」

あんちゃん……

 いかがでしょうか。「せやかて工藤、そういうネタを取り上げんと伸びへんのやからしゃーないやないか」と思いませんでしたか? 

 ゲームに勝つために、より多くの成功体験を味わうために、更なる刺激に手を染める。ここに、Twitterの中毒性があるという訳です。実は、絵も、過激な政治的主張も、一時期話題になったバイトテロも、全ての根幹は自己顕示欲と紐づいた中毒性によるものです。

 そして、自らの利潤追求のために敢えて不安を煽るような情報拡散を行う構図。やってること。誰しもどこかで目にした事があると思います。そう、マスコミ業界です。


Twitterの本質は『釣り』なのか

 なにやら怒られが発生しそうな項目ですが、結局、僕はこの結論に辿り着いてしまいました。

 勿論、Twitterで創作活動をしている人間が全て『釣り』目的と言うつもりはありませんし、そもそも『釣り』が悪いと言うつもりもありません。

 釣る方は「どれだけ引っかかるかな」という期待もひとしお、観る側も敢えて釣られてみるのも一興、時間潰しに楽しめればそれもまた一興。釣り文化が無くならないのは、互いの需要と供給が一致しているからに過ぎません。大衆娯楽の一形態なのです。

 では、僕は『釣り』がしたかったのか? ……そうではなかったはずでした。「何のために絵を描いていたのか」という原点を、忘れかけていた自分に気付きました。

 描いた絵をTwitterに上げる → Twitterに上げるために絵を描く

なん・・・だと・・・

 いつの間にか、手段と目的が逆転してしまっていたのです。殊更に数字を追求せず、自分のペースで創作発表を楽しんでいる方々も多くいるはずです。自分もそちら側の人間になろう、というのが、最初に紹介した、多くのフォロワーを切ってまで強行したアカウント引っ越しの目的の一つでもありました。

 より多くの評価を稼ぎ、より高みを目指す。一見、健全で正当な目標に思えます。目的はもちろん、「より多くの人に見てもらいたいから」

 より多く? それって、具体的にどれくらいの数なんですか? 地区町村レベル? 県レベル? 国レベル? 全人類? ──そもそもが曖昧で、際限の無い目標だったわけです。

 思い返せば、かつての個人ホームページのカウンターの頃を思うと、精々多くてクラス全員──30人に見てもらえていれば、十分満足できるはずの承認欲求だったはずでした。しかし、人間とはかくも欲深い生き物であり、いつのまにか学年レベル、全校レベル、市内レベルにすら飽き足らないようになっていきました。

 多くの人に自分の存在を知ってもらう。絵を見てもらう。それは確かに喜ばしい事です。それは今でもそう思いますし、見てくださる方に感謝もしています。しかし、自分を見てくれる人が増えれば増えるほど、一人一人の顔は見えづらくなっていくのも確かです。桁が増えれば、もうそれはただの数字として認識されます。それを「増長している」と捉えられても、否定はできません。僕もそうでした。

 これを書いている時、ちょうどその事に言及しているツイートを見つけたので、紹介させていただきます。

 一方で、その代償として先に触れた「予期しない界隈にまで波及し炎上」というリスクも背負うことにもなります。

 アカウントの引っ越しでフォロワーを0に戻そうと思ったのも、フォロワーが多すぎることへのリスクを低減したいという思いがあったのは事実です。

 何を言っているんだ! そんなの多ければ多い方がいいに決まっている! だいたい今までフォローしてくれた人に失礼では?! ……仰る通りだと思います。実際そう思われても仕方ないと思いますし、前アカウントでは相互フォロワーだったものの新アカウントではフォローをいただけなかった方も少なくありませんでした。単純に引っ越しを知らなかった、しばらく交流がなかったので関係が途絶したと判断された可能性もありますが、新アカウントで誰もフォローをしない、フォロー返しすらしていないという姿勢に気分を害されたり「嫌われた?」「避けられた?」と感じられた方もいたかもしれません。本人ではないので憶測でしかありませんが。

 先程のツイートとは違う視点で「冷たくなる絵師」に言及しているツイートがありましたので、紹介させていただきます。

 絵師がフォロワーを数字としてしか認識しなくなるのと同様、ユーザーも絵師をコンテンツとしてしか認識しなくなる。公共性が高まれば、個は消失します。観ているテレビに文句を言うような感覚なのでしょう。そればかりか、「たくさんのフォロワーを抱えている有名人なんだからちょっとくらいの嫉妬は我慢しろ」みたいな有名税的考えすらあるのかもしれません。

 そして僕の場合、フォロワーの増加に伴いツイートの内容にも次第に歪みが生じてきました。

 以前「いつも楽しませてもらっております」というお声をいただいた時、ふと「いや、俺はただ描いた絵を貼ってるだけで、あなたを楽しませようとした覚えはないが……?」という感情が挟まってきた時がありました。「多くの人の目に留まるように」という身勝手な思いが、いつしか「多くの人を楽しませよう」というサービス精神に変容していたのでした。

 もっともっとみんなを喜ばせよう! 楽しませよう!
 それが数字にも表れていく! そうすれば僕も楽しい!
 
……一見、健全な創作のサイクルに思えます。

 サービス精神を見せれば、サービスを期待している人が集まります。ウケ狙いのネタ絵でフォロワーが増えれば、増えたフォロワーは当然さらに面白いネタを期待します。そうして待っていた中で急にシリアスで独善的な絵が投じられた時、彼らは反応をくれません。もちろん本心でどう思われていたかは分からないので、勝手な想像でしかありませんが、中には「期待外れだ」「もう飽きた」と言わんばかりのタイミングで離れていく人もいました。一部の絵師が悩む、所謂「絵を上げたらフォロワーが減る」現象です。

 何が言いたいかというと、フォロワーは「作れる」んです。至極失礼な言い方を承知で言いますが、釣りに例えるとしたら、餌を変えれば、食いつく魚も変わる。多くの釣果を得たいからと食いつきのいい餌ばかり使ってみても、いずれは飽きられてしまう。いろんな餌をとっかえひっかえしてみても、自分の食べたい魚ばかり釣れるわけではなく、時には毒を持った魚を引いてしまうこともあります。

 でも、僕が釣り竿も餌も使わず、普段食べている自分の好物を投げ込んでみた時、食いついてくれた方が確かにいたのです。相手は魚じゃない。いや、僕自身もまた魚だったのか……。僕が数字にこだわることなく、コツコツと地道に、自分の芸と向き合って歩んでいれば、それを認めてくれる人が集まってくれていたのかもしれないと、不遜ながら考えてしまうことがあります。だから僕が今になって「もうみんなが求めているようなものは描かないよ。それより自分が描きたいものを描きたいよ」と意思表示をするのは自由なのでしょう。しかしその路線転換は、当然ながら如実に数字に表れます。自分で作ったフォロワーを自分で捨てたのですから当然です。それを見越して「自分からフォロワーを0にした(0ならそれ以上減らない)」というのも正直あります。

 またそれとは別に、フォロワー数の増大により自身の露出が増えるという懸念もありました。何故露出が嫌なのかというと、フォロワーが増えれば増えるほど親族や会社の同僚等のリアル人間関係に接触してしまうリスクが増える為、(身勝手の極みですが)本当に僕の絵(とその趣向)に興味のあるフォロワーだけに絞りたい、という思惑もありました。

 僕は作風上、ネットで活動していることを基本的にリアルの人間関係で明かしていません(ごく数名の友人にのみ伝えています)。従って、炎上以上に恐れているのが身バレであり、フォロワー数という分母の増加やバズりはその危険性を上昇させることになります。

 昨日フォローしてきた人間がもしリアル人間関係に関わる人物だったら? と考えると気が気でないのですが、そうなってしまうといよいよ鍵をかけるしかなくなります。しかし先にも述べたように、フォローしてきたアカウントをひとりひとり精査できたとて「知り合いじゃない」保障などなく、仮にそうだとしても誰か一人がコミュニティ外へ情報を持ち出したらもう打つ手なしです。ここまで気にしだすともうSNSを辞めるしかないのですが、どうやらバズりなどにも基礎拡散力みたいな影響があるようで、やはりフォロワーが5桁近くになった頃からバズりの規模が大きくなったように感じました。翻って、あくまで個人的経験則でしかありませんが、フォロワー数として自分が納得でき且つ野放図な拡散には至らない数として1000~3000くらいを目処にこじんまりと活動できたらいいな、という思いがあります。というかそのくらいの頃が一番楽しかった記憶。

 アカウント自体も6年目になっており、数値上フォロワーとして計上されているが実はアクティブでない、あるいはミュートされているアカウントも相当数あるのでは? 実際のところ自分を見てくれている人数はどのくらい? と思ってもいました。フォロワーが増えるのは傾向として基本的に絵がバズった時であることを念頭に、そうでないタイミングで敢えて「フォローし直す、付け替える」という面倒な行為を強要したのも、自発的にそれを行ってくれるような人を選別したいとの思いが正直あったためです。

 ですので、総じて、言葉は悪いですが、ふるいにかけさせていただいたという面もあったのです。ごめんなさい。

 あとは、僕自身が「長年続けてたくさんのフォロワーを獲得したアカウント」それそのものに対してあまりにも価値を置き過ぎてしまうと、消火不能な炎上などの際にリスクとして切り捨てる判断を迅速に行えなくなる、という危険を排除する目的もありました。自分自身の「フォロワー数への執着」そのものとの決別のためには、一度その価値を自らの意思で0にする必要があったのです。

 確かに、やり方は他にあったかもしれません。でもそれ以上に、自分自身が「フォロワー○○人のユーザー」であるという自覚が、僕の中で精神的な重荷になっていたのは事実です。……これだけは言わせてください。僕が断ち切りたかったのはフォロワー数と共に肥大化したアカウントとそれに紐づいた自分自身であり、けっしてそれまでの繋がりを断ち切り全てをリセットしたかったのではなかったのだ、と。

 しかしながら、フォロワー数という指標は単純な大小関係を示す数値でしかなく、それを構成する人の層というものは数値に現れないものです。

 純粋なファンなのか、ファンを装ったアンチなのか、あるいはどちらでもないオチ目的なのか。

 それら全てを承知のうえで「それでも数字が欲しい!」と言うことは、果たして正しい姿勢なのか。「ウケないと分かって描いた絵だ」との自覚をいくら持っていても、それが続けば「作り手としてもうダメなんだろうか」と思ってしまう事だってあるものです。

 それは、僕が作り手として弱いからなのでしょうか。

 ウケない作品は、無価値なのでしょうか?


Twitterは『消費』

 Twitterの特徴として拡散性──バズりを挙げました。それはユーザーの興味や感情に基づいているという話もしました。

 では、投稿する時間の重要性として登場した、時間軸についてはどうでしょうか。

 Twitterには時間軸が存在し、基本的に過去に遡って何かが求められる事ってありません。pixivや従来的なブログ等と決定的に違うのは、ここだと思います。

 Twitterで重要視されるのは、現在です。過去の情報を検索する機能は、そもそも充実していません。今この瞬間、同じ時間を共有しているという一体感、ライブ感。ここ最近のスペース機能の追加や、ユーザーが日常的に参照していないアカウントはFF関係であっても「今はユーザーはそのアカウントに興味がない」と判断されTLに表示されない仕様なども、その姿勢の表れととれます。

 唯一過去を遡れるのは、拡散された情報のみです。拡散が長く続けば続くほど長期間タイムラインへの残留が許され、最初は見過ごしていたかもしれない人間も含め、結果的にさらに多くの人の目に触れる機会が生まれます。だからこそ、絵師はこぞって過去絵をリツイートするのです。

 ですが、それすらも一時的なものです。過去に投稿した内容が、しばらく経って掘り起こされるという事は(過去の失言が取り沙汰されるような局面を除いて)滅多にありません。絵の情報としての価値は、初動が全てです。そこで伸びなかった絵は、タイムラインの底に沈んでいきます。

 絵が消費される。──この感覚に違和感を覚えたのは、僕だけではないと思います。

 そして、「ならばインスタントに消費されることが前提の絵を描けばいい」と舵を切る。提供迅速化と効率化のため、細かい場所は描かない、トリミングされる細部は気にしない、省力化、とにかく見た目のインパクト、人の目を引く絵作り──。

 それ自体を、誤りと断じるつもりはありません。多かれ少なかれ、絵の本質は「いかにうまく嘘をつくか」「いかに注目を引くか」だと考えています。正直に描くだけなら写真の下位互換にしかならない絵でも、人間の錯覚や補正力に訴えかけて「本物以上に本物に見せる」ように描かれた説得力のある絵は、最早それが写実的であるかどうかを問題にはさせません。より多くの人の目に留まるようなテクニックも同様です。

 僕自身そういう考えで絵を描くようになり、そういう絵が想定通りに評価された時は嬉しかったのも事実ですが、絵は使い捨てです。一度評価された絵を何度も使い回すのはみっともない。だから雑にまとめてpixivに上げる。見返す事はほとんどありません。そしてまた、新しい絵を描きはじめます。数字のために。

「絵を描くって、こんなだっけ? この絵は、誰のために描いているんだ?」

 ふと、そう思い至りました。

 もちろん、見てくれている人がいるから、続けられる。応援してくれる人、喜んでくれる人、その反応が数字として表れ、伝わる。そのために描く。

 でも、けっしてそれが全てではなかったはずです。まして、数字をとるために描き、数字をとった後は過去のものだと捨ててしまうなんて。幼少から描いたものはほとんど細大漏らさず全て保管してきた自分が、自分の絵をそんな粗末にしていていいのか。消費に任せたままでいいのか。

 記念日系タグの便乗に力を入れていた時期は、それがまるで締め切りのように思えて、描きたくない絵を誰かに描かされているかのような気分にさえなりました。今思えば、ほとんどノルマ化していました。

 挙句、描きはじめたものの「タイムラインに上げるタイミングを逃した」という理由で描くのをやめてしまった絵も多々あります。どうせ今描き上げても、もうウケない。旬が過ぎている。自分で自分の絵を、そう断じてしまえる。

 作品を無価値にしていたのは、数字ではなく、僕自身でした。

 時間が経とうが、TLの空気を無視していようが、自分が良いと思えるものを地道に提供する。そういうやり方だってあったはずです。むしろ、最初はそうだったはずでした。認められるまで時間はかかるかもしれない、数字なんてとれないかもしれない。でも、少なくとも自分は納得は出来る。創ったものも消費されずに、残る。

 それに比べれば、リアルタイム性にどこまで価値があるのでしょうか。「今」は、常に「過去」に置換されます。どれだけリアルタイム化が進んだところで、通信にコンマレベルでもラグがある限り、ネットに映る全ての情報は厳密には『過去』です。それどころか、脳が知覚するあらゆる事象は全て過去です。リアルタイムであると思い込んでいるだけ。誰かと時間を共有している方が安心するから、脳がそう思い込ませているだけです。時間の流れとその感じ方は人それぞれ違いますが、でも一方で、家中の時計とカレンダーを捨てたとしても描いた絵の価値は変わりません。

 それで、僕は結局、あれだけ拘っていた数字を、非表示にしました。

 しかし、数字を気にしないようにするとなると、いよいよTwitterで絵を発表する意味は、果たしてあるのか? 本当に、消費という釣果を追求する釣りだけが、Twitterの本質と言えるのか?

 そこまで考えた時、僕に欠けていたものを再認識しました。

 それは、相互性です。


そっか、SNSってコミュニケーションのための場だったんだ。

 絵をコミュニケーションの道具として捉えられるかどうか? と考えた時、pixivにはないTwitterの特徴として「ユーザー間の交流のしやすさ」があったのではないか? と今更ながら思い至りました。

「絵をコミュニケーションに使う? どうすればいいの?」

 そもそも、僕自身、その答えを一度は導き出していました。

 以前描いた記事でも言及しましたが、幼少期、既にコミュ障を発症していた僕は、休み時間の黒板など人目のつく場所に誰もが知っているアニメのキャラクターを描いたりすることで「自己を認知し話しかけてもらうきっかけ」を作って自分からは話しかけることなく待ちに徹する──という消極的コミュニケーションを図っていました。

 やがて話しかけてくれる優しい人と出会い、仲良くなって友達になると、一緒に遊んだゲームのキャラクターを描いて見せたり、テキストの偉人にラクガキをして笑いを誘ってみたり、正月にはその子が好きなキャラ(それが自分の認知外のキャラであっても)を資料を集めて年賀状に描いたり──

 そうなんです。僕は、絵でコミュニケーションをする事が、かつてはちゃんと出来ていました。何故、出来なくなってしまったのか? いつから、自分のためにしか絵を描かない、独り善がりな絵描きになってしまったのか?

 思うに、自己肯定感を正しく成熟させることができなかったからでしょう。

 贈り物をし合うには、信頼関係が必要です。仮に自分にとって不要なものが相手から贈られてきても「まぁ、こいつだから仕方ないな」と笑って許し合える関係が互いに構築できている場合に限り、贈り物はコミュニケーションとして成立します。そうでない場合、一方的な物品の押し付けにしかなりません。

「自分が何を選んだとしても、相手はその選択を尊重し、許容してくれるだろう」
「それが結果的に的を得ていなくとも、相手が喜ぶであろうというこちらの好意や善意を汲んでくれるだろう」

そのような前提は、無自覚であっても存在しています。

 他方、僕は贈り物がとても苦手です。単純に世間知らずが過ぎて何を選んだらいいのか、人が何を欲しがっているのか分からないという以前に、こんな物で喜ばれるのか? むしろ失礼にあたったりはしないか? よもや怒られたり嫌われたりするのでは? という恐怖が常にあるからです。

 ところで、Twitterには「風船」という文化があります。予め設定しておいた誕生日になると、その日一日、そのユーザーのプロフィールページに風船が飛ぶようになる仕様です。

 風船が飛んでいるユーザーをたまたま見つけ、その相手が親しい間柄であるならばお祝いを送る、というのはまだ理解できます。しかし、大抵のユーザーは「自分のプロフィールページに風船が飛んでいるスクショ」を投稿し、「風船が飛んだ!」等とフォロワーに報告する訳です。これは、恐ろしい行為です。

 誰からもお祝いが届かないという寒々しい光景を一切予期していないのか、そんな事はあり得ないと言い切れるほどの信頼関係を特定のフォロワーと築いているのか。しかも「誕生日でした」「お祝いの言葉を下さい」ならともかく「風船が飛んだ」という迂遠かつ客観的事実しか言わないのです。意味する事は同じですが、「風船が飛んだ(からお前ら祝ってくれよ)」という言外のメッセージが含まれているであろうことは隠しようがありません。絶対に誰かが祝ってくれるという確証が無ければ出来ない行為です。

 なんという自己肯定感の高さ……。

 しかも、この行為へのリアクションとして実際にお祝いのコメントが寄せられています。これも信じがたい事です。

 僕なら、

「いや、歳を食う事を否定的に考える人だっているかもしれない。僕の場合はそうだ。自分の歳などこれ以上数えたくないし、出来るなら忘れて永遠に12歳ということにしたいでちゅ。果たしてそのような人におめでとうを言って、相手は喜ぶだろうか?」

と考え、躊躇してしまいます。「まぁ常識の範囲で言うぶんには相手も大人なら社交辞令と受け流してくれるだろう」という打算こそ考え付くものの実際には言えないし、先程の贈り物の例に例えるまでもなく、両者間で信頼関係に基づく合意が暗黙裡にとられていると考えるべきでしょう。もしかしたら書面を交わしているかもしれません。

 誕生日を祝うという文化、もしかして割と世界共通だったりするんでしょうか。だからこそ、皆他人の誕生日という極めてパーソナルな情報を収集しようとするのでしょうか。自分から他人の誕生日を祝った経験がほとんどない僕は、そのお返しとして誕生日を祝われた事もあまりありません。だから、祝われる気持ちも祝う気持ちもよく分かりません。それ以上に、一度誰かから祝われてしまうと今度は自分が相手にお返しをしなくては失礼なので、そうなるとますます相手の誕生日というデータの記憶に迫られるため、なるべく自分の誕生日を知られないようにしている節すらあります。……まぁ、日頃言えない感謝の言葉を伝える年に一度の体のいい機会……という程度の認識は社会常識として出来ているつもりなのですが。

 贈り物から話が逸れましたが、この誕生日というのもあくまで一例です。言いたかったのは、人間社会は「お互い様」の精神に基づいた相補性で成り立っている部分が多分にあるという点です。

 そう、コメントです。コメント機能はpixivにも存在しますが、Twitterの方がより活発なのではないでしょうか。

 もう想像がつくと思いますが、僕は自分からコメントを送ることはほとんどありません。何か言いたい事があっても、せいぜいリツイート後にツイート(所謂『空リプ』)するのが関の山です。理由は先に述べた通り、自分の発言が失礼にあたるかもしれないと考えてしまうからです。もっと包み隠さずに言えば、自分の存在が相手に不快感を与える──相手に嫌われる事が怖いんですよね。

 無論、怖いのは誰でも最初は同じです。失敗を繰り返し、少しずつ人との距離の取り方を学んでいく──これが極々健全な成長の流れだと思っていますが、僕はその流れに乗れませんでした。確かに誰でも失敗はするが、失敗が許される期間はおおむね決まっている。そこを過ぎれば、「出来て当然」と見做され、出来ていなければ『非常識な人』という烙印を押され、失格です。そして何度も失格に甘んじられるほど、僕は面の皮が厚くありません。何度も言うように、相手に嫌われるのが怖いからです。

 他方、自己肯定感が高ければ他人にどう思われようが気にならないし、誰かに嫌われたとしても自分を絶対に信頼してくれる人間関係を別チャンネルで用意できるので、ひとつの人間関係に執着する必要がないし、ましてやネットの罵詈雑言など受け流してしまえるでしょう。知らんけど。買い被りかもしらんけど。

 それでも、自分から最初にボールを投げることが出来なくても、せめて投げられたボールを受けて返す事くらいはできるのでは? というところですが、紆余曲折を得た今、僕は基本的に作品へのコメント返信は気が向いた時以外はしないようになりました。

  • 「増えすぎて追い切れなくなった」「良い返しが浮かばなかった」「単純に忙しくて通知を見過ごしていた」等により返信できなかった場合、過去に返信したユーザーとの間に不平等が生じる(どうして自分には返してくれないの? と思われると困る)

  • かと言ってロボットのように「ありがとうございます!」で全レスするのも意味が無いような気がする(気がするだけでそれだけでもやる意味はある気もする。コンビニでお釣りを受け取る時に言うのと同じみたいな)

  • そもそも反応が欲しくてコメントをしている訳ではない人が存在する(前項『壁打ち』を参照)

 理由としてはこんなところです。

 とにかく、「自分からコメントをしない」「コメントが来ても返さない」──これはもう、コミュニケーションの拒絶と言われても反論できない状態です。なんでSNSなんてやってるの?


誰かと仲良くなれば、誰かが敵になる

 ところで、何故そこまで『平等』にこだわるのかというと、自分が外野から見た時に『囲い』や『界隈』のように思われそうな関係性を作りたくなかった、というのが大きいです。

 正直、僕は『界隈』、或いは『派閥』という概念が好きではありませんでした。

 確かに、誰かと仲良くなりたい、語り合える同好の志と繋がりたい、という気持ちはあります。しかし一方で、誰かが誰かと仲良くなった時、その輪の外側にいた人間は板挟みになるか爪弾きに遭い、別のコミュニティに属さない限り、孤独に陥ります。一度完成してしまったコミュニティに切り込むほどの積極性が、今も昔も僕にはありません。

 一旦コミュニティに属せば安心かと言えばそんな事もなく、「今は良くても、次は自分が切られる番かもしれない」という不安や疑心暗鬼と向き合い続けることになる。嫌われないように、誰に対してもいい顔をして、自分の意見は表明できずにいる。そうまでしても、集団に利する存在と認められなければ、いずれは捨てられる。ならば最初から繋がらなければ、絶ち切られる不安や寂しさに身を裂かれずに済む。

 だれかを敵対者と認定することで、他者と連帯、団結する。それは人類が進化の過程で習得した社会性という能力であり、未だ人類から戦争がなくならない呪いでもある。そもそも、敵などいなければいいに越したことはない。だが、共通敵が存在しない共同体は目的意識を持てずに瓦解する。人間は一人では生きていけない。”敵”が必要なのだ。僕はみんなで仲良く”敵”を殴りたいのか、あるいは”敵”でありたいのか。そのどちらにもなりたくないのだ。

 全ての人間が仲良くなることなど有り得ないし、その必要もない。不必要に衝突するくらいなら、棲み分けていればいい。そうやって棲み分けた結果が孤独なら、それが人のあるべき居場所なのだろう。世界中の誰しもが、誰とも仲間にならなければ、この世界に仲間外れはひとりもいない。それこそが、真の平和なのだと──

 そんな風に考えたことありませんか? 僕はあります。少年時代から今に至るまで、僕は何度もそのようなポエム思考に陥り、強固なATフィールドを展開し、次第に他者や世間体に対する興味を持てなくなっていきました。僕がTwitterで度々自嘲している『YOSUTEBITO』化です。

 リアルなコミュニティに比べ、かつてのインターネットの世界は気楽でした。基本的に全員が名無し故に孤立からスタートし、かつ一期一会が原則なので、合わない相手と無理に一緒にいる必要もありませんでした。顔や名前はもちろん、居住地も性別も年齢すら分からない相手と「フッ、どこの誰だか知らんがコイツはなんとなくオレと同じものを好んでいるようだな……」というユルい連帯感のみで繋がる──僕には、少なくとも現実世界よりは居心地の悪くない場所でした。

 しかし、インターネットの世界もいまや大きく変わりました。スマホの爆発的普及により、WEB閲覧者もPCよりスマホ使用者の方が多くなり、誰もが日常的にネットへ接続する時代の到来により、それまでネットに漂っていたアングラ感はすっかり消え失せました。同時に、かつての住人が当たり前に共有していた一種の不文律やネットマナーも廃れ、旧人類と新人類との間での不要な軋轢や衝突が目に付くようにもなりました。

 現実世界と切り離された逃避の場所から、SNSの出現に伴って現実世界と地続きになった現在、かつてコテハンが忌み嫌われた時代とは裏腹に、当たり前のように素顔や地声を晒して活動する人間が増え、公共性の高まりと引き換えに匿名性は消失しました。なにせ、今は一国の長すらTwitterで発信する世の中です(営利企業が提供するインフラに過ぎないTwitterを過信し過ぎでは? とその是非を考えますが、先述した通り「目につきやすい」から重用されているのでしょう)。
 
 ネットに個人情報を晒すという意味においては、前述の誕生日にしてもそうです。残されたアーカイブで辿るしかなかった情報は、今やライブ配信でリアルタイムに収集するのが当たり前になりました。顔も知らない他人に金銭を送ったり一緒にゲームができたりしています。こうやってしたり顔で書いてはいますが、正直、もうなにがなんだか分かりません。

 にもかかわらず、僕は未だに当時のネットの空気感から抜け出せずにいます。Twitterにしてもそうです。僕はかつて使用していたブログの延長的に使用していたため、過去を綴るだけがネットだと認識しており、「今」という時間軸の存在に対応できませんでした。僕が一度載せた絵をリツイートで再回覧しない理由のひとつも、そこにあります。ブログに、同じ絵を何度も載せたりはしないでしょう? 描き上がり、掲載した時点で、既に凍り付いた過去に閉ざされている。過去の絵を駄作だと踏みつけることはしないまでも、関心のピークは過ぎていて、次の絵に向かってしまっているわけです。過去作品を再掲する時は、あくまで現在との比較や引用目的の時だけかしら。

 特にここ数年、Twitterの空気自体も大きく変わりました。YouTuberの台頭により、これまで投稿者の自己満足に過ぎなかった再生数や評価といったSNSの数字に、現実的な金銭価値が発生しました。絵師の世界でもコミッションサービスの普及により、絵でお金を稼ぐことが当たり前になりました。Twitterにも「投げ銭」が導入されるとの話まであります。

 これらの時代の変化は、かつてSNSでの数字に執着していた僕としては、一概に歓迎できない思いがあります。

 「投げ銭」について僕が思っていることと近い事を述べられている方のツイートを紹介しておきます。

 嫌儲とまでは言いませんが、何というか、こうやって金が絡んでくると少なからず「趣味で遊んでいた中に突然大人がやってきて、遊び場を金儲けの場所に変えてしまった」みたいな居心地の悪さを感じるようになってくるんですね。

 もちろん、僕のように趣味の延長で細々と活動している方もまだ多くいるでしょう。しかし、確実に「金を稼いだ者勝ち! 稼げない奴はカス!」という、現実世界と共通する無言のマウントや圧力が濃くなっているように感じます。以前にも「もっとうまくなろう! 絵を伸ばそう!」「仕事絵! 宣伝!」「神絵師の腕を食う!」「焼肉!」のような空気は一部でありましたが、このような気概が実体的な経済との結びつきにより、より先鋭化・全体化しているように思えます。

 もちろん、これはあくまで僕個人の感想であって、一般的には良い流れだと思っています。むしろ、かつてクリエイターを目指していたものの志半ばで辞めてしまった自分のような人間こそ、歓迎すべき時代の到来と言えます。自宅に居ながら本業とは別に、絵でお金を稼ぐ事が出来る。同好の志と出会える──その選択肢によって、現実に救われている多くのクリエイターがたの存在を無視することは出来ません。

 しかし、今の僕には、ただただ眩しすぎるだけの光景のようです。それを仰ぎ見て無惨な思いを噛み締めるくらいなら、自分の見たいものだけを描きながら日陰でひっそり暮らしていたいのです。ダンゴムシは暗く湿った石の下でないとダメなんです。

 改めて、ネット世界が現実の資本主義社会と地続きになってしまった事を実感しながら、「このマッチョイムズにはもうついていけねぇかもな……」という感情が日に日に増していたのは確かです。そうなれば、あとはネット上のあらゆる固有なアカウント──人格を抹消し、名無しに戻る以外方法はありません。

 色々と脱線しましたが、まとめると、

・ まともに他者と交流できてないのにSNSやってて意味あるの?
・ もう競争には疲れたよ……

でっていう

 以上が、Twitterに絵を上げるのをやめようか考えていた理由なんですよね。

 長いよ。30000文字近く使って今更話すような内容でもないよね……。

 この「文章が無駄に長い」という特性も、言いたい事だけ言って読者の事を鑑みていない僕の独善性の表れなのかなと思います。ごめんね。


創作は自救行為である

 ではこのままネットに絵をあげることをやめ、YOSUTEBITOとして生きるのかい? という話なのですが、やっぱりそうはしたくない、という思いがあったので、さらに自分の中を掘り下げてみたんです。

 それで気付いた事があったのですが、先に何度も述べた「自己肯定感」と「自信」って、根本的には違うものだな、と思い至ったのでした。

 自分に自信を持てない人間だと自覚し、他人からもそう言われながらずっと生きてきたので我ながら不思議なのですが、僕には自己肯定感が無い一方で、どうやら自信はあるみたいなんです。そもそも何の自信もない奴が、30000文字近くも浪費してネットで自分語りなんかしないでしょう。

 自分自身を肯定できない──存在を否定してしまう一方で、自分のことを信じている。僕は、僕の何を信じているのか。それが、今後の創作との向き合い方に対するヒントのように思えました。

 導き出したキーワードは「成長」でした。

 僕は、絵という狭い分野においてのみ、自分自身が今後も成長を続けていくだろうということを信じているみたいです。だから描くのを辞めない。描かなくなる時も、描けない時もあるが、筆を折ろうと思ったことはなかったんです。

 自分という存在や、自分の作品に自信があるわけではない、否、むしろ無い。だから積極的には発信していないし、自分自身を誰かに売り込んだりも(賞やコンクールへの応募など、評価が目的の活動という意味で)しない。自分の作品に値段がつくということに関しても実感がない。まして金儲けには興味が持てない。

 誰かに勝とうとか、負けたくないという気持ちもない。多くの人間に認められ、賞賛を得たいという上昇志向もない……ないない尽くし。強いて言えば自分を生んだ根源的な存在である両親に褒めてもらいたいという未成熟な承認欲求は正直今も燻ぶっているが、それはもはや叶わぬ夢である。

 もちろん、絵を辞めたら他にやることがない。したい事もない。という消極的な理由もあるにはあります。なにごとも結局長続きせず、飽きてしまう。でも、人生に飽きたら終わりです。そのギリギリの崖っぷちで、辛うじて絵には飽きずにいられる。まだまだ面白そうだと思える。やりたいことだと思える。

 しかし、今までは無限だと思われていた衝動や創作意欲というものも、特に何の兆候や心境の変化も伴わず、ある日突然消失してしまう、という経験をして以降、創作に対する向き合い方も変わりました。絵を描きたいとか、描きたくない、という以前に、描こうという気すら起こらないという状況に、一度でもなったのは初めてでした。その時は絵以外にもあらゆる興味関心が一度に消失し、創作意欲に関しては復元されましたが、それ以降一切興味が戻らなかった分野もあります。失ってしまったことに対する感慨や喪失感すら感じられないというのは、さすがに予想外で戸惑いました。

 今後も同じことが予期せず起きるかもしれない。死ぬ直前に「やればよかった」と後悔するくらいならやっておけ、とよく言いますが、後悔するということは終わってしまうことが惜しいと思える程度には素晴らしい人生だったと言い換えることもできます。後悔すらできない虚無な人生なんてあんまりだ。そういう思いから、最近は自分のやりたかったことに対して少しだけ正直に、素直になるようにしました。

 「こんな絵を上げてもウケない」「誰にも見てもらえない」「誰も望んでいない」という価値基準から、「でも、描いてみたいという気持ちが本当なら描いてみるべきだ」という発想に変えようとしています。それはまさしく、自分を信じる、自信に繋がる行為であると信じます。

 ……いや、極論それでなにがどうなろうと別にいいんです。やりたいと思えることをやった、それを自分で認められた、というだけの容認過程が大事で、成長とか成果というものはあくまで副産物に過ぎないし、結局主観でしか評価しようがない。

 前の絵よりもっといいと思える絵を描こう。でもそれは誰かのためじゃなく、自分のためでもない。そうしたいという欲求を自分で叶えることができた、というプリミティブな体験です。赤ちゃんは最初は自分で飲み食いできないので泣くしかないのですが、自分で食欲を満たせるようになれば泣く必要はなく、本能に従えばいいだけです。それくらい生理的な行動で、崇高な表現活動でもなんでもないんですね。「コレは体に悪い」だの「アレは健康に良い」だの選り好みするのは大人だけ、食べなければ死んでしまうのは結局本人ですから。

 そしてたぶん、そういう自分の姿を、生きている姿を誰かに見て欲しい。認めてほしい。──これに尽きると思いました。きっと、こんな自分でも自分を好きになりたいんだと思います。


で、今後結局どうするの

 やっぱり、居場所としてのpixivをもう少し大事にすべきだったなぁ、と。ただ、Twitterで自分語りを始める前はpixivのキャプションの文字数がパンクしていたりしたので、生成されるガスをどこかしらで抜かねばならず、純粋に「絵だけで戦う!」という訳にもいかないため、いっそTwitterは語る場所にし、絵は然るべき場所に上げる……という、初期の活動スタイルに戻してみようかとも考えました。

 文字数真っ赤が気になるようなら、それこそここを活用すればいいわけですし。Twitterのクライアントと違ってPCからもスマホからも下書きを編集したり推敲したりできるのは、何気に助かっていたります。実質雑文置き場ですね。

 で、pixiv以外にもうひとつ、誰でも見られるスペースを設けたいと考えました。

・シンプルに絵だけを羅列する

・余計な報酬系の数字は表示されない

・投稿方法が簡単でそれによって創作意欲を阻害されない

 そうすると、一周周って昔のような個人ホームページに帰着してしまうのですが、もう絵を仕上げるたびにタグと格闘するのは御免被りたいんですよね……。

 究極的には、画面に画像ファイルをドラッグ&ドロップしたらそのまま反映される(余計なキャプションやハッシュタグの入力すら面倒臭い)くらいのズボラ仕様がいいんですが。

 イメージ的には、文字通りの意味でのギャラリー──美術館のように、何のノイズもない空間にただ絵だけが陳列されている──そんなシンプルな空間。それは、人に見てもらう以外に、自分でも振り返りやすい、という要素もあります。Twitterに絵を上げるようになってから、自分の描いた絵をじっくり振り返る機会が減りました。

 ここまで思考を進めて、やっと思い当たりました。

 ポートフォリオ。多分僕のやりたかったことは、これです。

 結局tumblrに戻るのかよ!


 ……で、紆余曲折の末──……

⑥ 社会人時代・pixiv、Twitter併用時代
 ⇒SNSの目的別併用

これが新しい時代……!

GALLERIA

個人プロフィールのGallery画面。

 かつてtumblrに担わせていた余計な登録が不要で誰でも見られる絵の展示場──いわゆるポートフォリオサイトとしての役割を期待して登録しました。

 一覧表示のできるGallery画面は「タイトル」「タグ」「ユーザー名」だけのシンプルな構成。これが決め手になりました。評価・報酬系の数字は一切ないが、ソートで人気順にはできるので閲覧者にも優しい。

 Twitterのアカウントと連携する一手間はあるものの、連携のお陰でTwitterへの報告ツイートは本投稿と同時に行え、投稿自体も画像さえ登録すればキャプションやタグはおろかタイトルすら入力不要で投げることができる超ズボラ仕様。pixivのようなやたらと多い必須入力項目がないのはやはりラクで、手軽さはTwitter並です。

 それでいて投稿時だけでなく投稿後もライセンスや公開範囲まで詳細に設定できるのも魅力。

ポイピク

プロフィール画面。

 こちらは、GALLERIA掲載の絵を『本番』『本気絵』とするなら『練習』や『ボツ絵』など「本当に見てほしい絵じゃないけどせっかく描いたのでよければ」的なやつを整理する場として活用するために導入しました。僕という個人の裏側が見られるちょっとしたファンサイト(笑)的な位置付け。
 
 こちらもGALLERIA同様にシンプルですが、投稿時にプルダウンで選べるデフォルトのタグには「らくがき」「作業進捗」「過去絵を晒す」「リハビリ」「供養」「自主練」などがあり、公式的も「ちょっとした絵置き場に活用してちょ」感が出ています。今までだとそういうのは全部Twitterに投げ、気が向いたらpixivにまとめていましたが、写真やゲームのスクショと混ざらずこうやって並べられるのが一覧性としてもやっぱりいいです。

かべうち

個人画面がこれしかないという思い切りの良さも◯。

 ここは、もはやボツ絵ですらない過去のアレな絵や、Twitterにそのまま載せると文字数が真っ赤になる割に要領を得ない怪文書などを置いておく野積み倉庫的な運用を想定しています。僕という人間個人の黒歴史や思想に興味のない方には完全に無意味なコンテンツとなっていますね。つまりそれは「クソみたいな呟きはいらないから絵だけを見たい」という需要に応える為に設けたゴミ置き場でもあるわけです。

 前二つのサービスとは少し異なり、独特なレイアウトは一覧性こそ低いですが、二段階表示によりパッと見のスペースを圧迫しないようにできたり、ゴミ度が高いコンテンツはTwitterフォロワー限定にするなどして公共衛生に配慮できたり、使い勝手はかなり好みです。今までは結構思いついたことをTwitterの下書きに書き留めていたりしたのですが、最近ではここに直接書いたりもしています。それでいて文章的体裁はしっかりせずに、もう完全に書き殴って発散する為だけの場です。


 このように絵の発表スペースをTwitterから切り離して独立させたことで、Twitterは僕個人のポータルサイト的な立場になり、そこでどれだけフォロワーが増えようが減ろうが絵の評価などには関係しないし最悪Twitterが凍ったり止まったりしても創作発表に支障がない環境を構築できたのは、やはりかなりストレス軽減効果がありました。

 しかもTwitterに投稿しているのはあくまで元の作品ページへのリンクであって、ツイートそのものを評価軸と認知しなくなったのも大きいです(GALLERIAの仕様上、リンクのサムネイルという形でTwitter側に画像投稿されてメディア一覧に出てきてしまうが)。力作が伸びなくてももう凹まない! いやだってこれただの告知ツイートなんで!

 そしてなにより、純粋に絵だけを待ってくれているユーザー様(例えば日本語ツイートなんて読まない海外の方とか)がもしいらっしゃるなら、TwitterでなくGALLERIA等をブックマークして追いかけてくだされば、クソみたいな長文ツイートに煩わされずに済みます。ユーザーフレンドリーです。

 あと、どこか特定のウェブサイトへのリンクを貼ったツイートって、スパムを疑って踏まない方が多いのか、それともTwitterのアルゴリズムが同じような理由で弾いているのか、あまりバズらない印象があるので、不用意なバズり対策にもなることを期待しています。

 Twitterのアルゴリズム変更で他サービスへの脱出も画策されている中、不覚にも先鞭をつけた形となりましたが、いずれのサービスもTwitterやpixivのような大手の提供ではないことによる設備面や継続性などに不安があることも確かです。僕のような悩みを持って脱出を計画されている方の参考になれば、この35000文字(増えてる…)も僕も浮かばれます。

 あとは最後に。この記事を読んでもし僕の絵に興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、足を運んでくださると幸いです。


けっきょく引っ越しはすべきだったのか?

 最後にいちおう今回の総括をしておきましょうか。

・フォロワー増えすぎて自意識過剰になっちゃった
⇒フォロワーをゼロに戻してみようかな。

 これは多少マシになったかな、と思います。以前ほど「上げた絵はどうなったかな?」と気になってTwitterを覗く頻度も減りました。また、そもそもフォロワー数非表示MODを入れているので、フォロワー数を他人を比較する行為を含め、フォロワー数という数値自体への関心は薄まりました。これは計画通りです。

 ただ、一年以上放置している旧垢には未だ9000人近いフォロワーがついています。死んだと思われてないかさすがに不気味に思い、少し前からBOTを活用して「もうこの垢死んでるが中の人は生きてるぜ、新しい垢見てくれよな!」と定期送信を行うようにしました。しかし仮にこれに従って9000人がごっそり引っ越ししてきたらそれこそアカウントを変えた意味がないのでは……と自己矛盾に突き当たりましたが、よもや、まさかそんなことは……

 定期送信後から明らかに新垢のフォロワーが増え始めました。それも、毎日の定期送信直後のタイミングに。

 ええ、引っ越し当初は思いましたよ。「ついてこられたのはこれだけか……」と。でもそもそも引っ越しに気付かれていなかった可能性大。告知ツイートも一発だけで、ほとんど思いつきでしたし。

 この点では、引っ越してわざわざフォロワー数を物理的にゼロにした意味はあまりなかったのかもしれません。結局気の持ちようですね。表示されているデータに惑わされてはいけない。

・聴衆が増えたと思い上がってお手軽に承認欲求を満たすべく求められてもいない要らんことを呟き過ぎた
→絵のアカウントとしての純度が低下し物申すアカウント化
→「こんなハズじゃねぇ」からの「おれはもうダメだ」化
⇒フォロワーゼロに戻したうえでフォローもゼロにして外部情報に触発された自分語りをしにくくしてみたよ。

・数字的なものが気になりだした →自分が思う「良い/悪い」が「数字が出る/出ない」という価値観に書き換わり始めた ⇒(自分からは)自他共に数字見えなくしてみたよ。フォローもゼロにして自分の絵が他人の絵と同じTLに並ばないようにして価値並列化の阻害も見込んだよ。

 フォローについては上でも言っていますが、旧垢からの繋がりを断ち切りたかったわけではなかったので、現在は旧垢で相互だった方で新垢もフォローしてくれている方へのフォローバックを行っています。

 絵のアカウント純度はそもそもそんな頻度で描いてないのでよく分かりませんが、物申したくなった場合はTwitterで文字数真っ赤になる前に壁打ちに行くように生活習慣を改めたので、症状としては寛解に近いのではないかと。

 ただ、外部情報に触発された自分語りをしない、となると、もう本当に「あつい」「さむい」「ねむい」「ねこ」以外なにも呟く事が無いんですよね。Twitterではみんな俺の知らない話題で盛り上がっているぜ畜生……と思っていましたが、よく観察してみると「知らない話題ではあるが話題としてはそもそも別物」で個々に盛り上がっているものの集合体がTLなのではないか、という認知に行き着き、結局は「好きに呟けばよくね?」というお定まりの結論に達した感はあります。

 数値系や価値並列化についてはフォロワー数と同じく「無視する→除外判定」に。表示されているデータに惑わされてはいけない。

・自意識をリセットするため目的別にアカウントを増やし、それぞれの目的に特化した運用を行う環境にした
⇒既存垢をROM専にしたから絵を上げてなくても生存報告にはなるでしょ。逆に絵垢は絵だけ上げるようにしていけばどうかしら。

 これはぶっちゃけ計画倒れに終わりました。

 新垢でフォローを行うようになると、当然旧垢とフォローが重複します。挙句、最近は新垢の方で新しくフォローしたり、一応は「閲覧用」だったはずの旧垢が文字通りの意味で未使用垢になりつつあります。
 
 きっちりやるなら、新垢でフォローした方のフォローを旧垢では外し、新垢は相互交流、旧垢は片思い閲覧用と使い分けるべきなのでしょうが、もうなんか、面倒臭くなってしまって。

 まぁでも今更「やっぱり旧垢に戻りまぁす!」なんてやってもますます何がしたかったのか分からなくなりそうなので、旧垢は新垢が使用不可になった場合のサブ垢程度にゆるく捉えてやっていこうと思います。

 あと「絵だけを上げる」環境としてはGALLERIAを用意しているため、そもそもTwitterは「絵を上げる場所」ではなくなりました。そういう意味ではきちんと本稿のタイトルは回収されました。ただ、相互フォロワーさんの子を描いたりなど「交流」にカテゴライズ可能な行動の延長で描いた絵はTwitterにのみ載せることで、「目的別使用」自体は継続しています。

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