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クライマックスを迎える、春

加速の季節

春だ。そろそろ、でもなく、待ち遠しい、でもなく、アメリカ・オハイオでは今まさに春真っ盛り。

それは、学校では5月末にEnd of the year(学年末)を迎えるためのテストシーズンであり、冬の間影を潜めていたサッカーや野球、フットボールなどの屋外スポーツが盛り上がる時期であり、夏=バカンスに向けて仕事を片付けていく、言うなればクライマックスとも呼べる季節だ。

長かった冬にできなかったことをしようと人々がこぞって動き始め、花を愛でる暇もないほど。新緑がみるみる芽を出し、葉が茂っていく。3月まで降ったり止んだりだった雪や雨に代わり、太陽が日差しを強める。陽が伸びて、いつまでも外で遊んでいられる。
春は年度の終わりでありながらも夏に向けて加速する元気さで溢れている。

私はなるべく住んでいる土地と親しい身体でいたいので、気温が高まっていくのを肌で感じながら、忙しさに身を投じたい。
仮住まいながらに現地のリソースを使わせてもらっている身として、存分にその土地を味わわせてもらうというのが、私なりの礼儀でもある。

4月は我が家で言うと子どもたちの所属する野球チームで週末は試合づくし、学校で学期末に向けてパーティーやら遠足やらの手伝いに駆り出され、近所の人からバーベキューに誘われる。
実際のところ、氷点下以下が続く冬の間に巣篭もりのような暮らしをするほかなかったのだから、動きたくて仕方がなくなってくるのだ。

4月のある日、長男は5年生で小学校卒業に向けてテストを受けたり、秋から6年生として通うことになる中学校の説明会に出たり。放課後は野球バッグを担いで、夜まで遠征チームの試合だ。
次男も2年目となった小学校で仲良しになった友達と遊び、夕方からは野球の練習。去年の夏に選抜試験を受けて通ったメンバーと冬の間屋内で練習を重ね、ようやく外のフィールドで練習できる喜びで駆け回っている。

春という季節の中で抱く感情や行事感覚が、そういうわけで、日本で生活しているのとは、だいぶ違ってくる。

日本というパラレルワールド

抽象概念を扱えるだけ歳を重ねた私の頭の中にはしかし、パラレルワールドがある。
それはただの4月のある日ではない。
12時間前に朝を迎えた日本では、かつて同級生だった長男の友達は4年生から5年生に進級し、放課後には中学受験に向けて塾に通う。読む本も、遊び方も、違っているだろう。
次男はこの日をなんの節目とも知らないが、日本にいたら幼稚園を卒業して小学校の入学式を迎えている日なのだ。リレーも、組体操も、縄跳びも、お手紙交換も知らないまま、この年齢をアメリカで迎えている。
もちろんこちらで違ったことを経験しているのだが、頭の中のパラレルワールドは、私にいつも、「日本のあれも教えられていないよ」「日本のあれも忘れているよ」と、囁いてくる。

言語の差、文化の差、学習内容の差、学年の区切りの差。新学期が始まる季節の差。
パラレルワールドが乖離していく。

私は計画を立てるのも、先の見通しを立てるのも苦手だ。親だからなるべく頑張りはしているけれど、依然、上達しない。
パラレルワールドを計算に入れて現在の生活を組み立てられれば良いのだろうが、このモノワールドにそれを組み入れて生活することが私にはうまくできない。
「今日の試合も精一杯がんばろうね!」と言いながら、子どもが通ったこともない日本の小学校の教科書を手渡して「音読の時間よ」なかなかそう器用にもいかない。

日本国籍で、日本企業の駐在員の家族でありながら、こんな私に育てられた彼らにどんな弊害が将来降りかかるか、考えるだけで自分に親である資格などないような気がしてくる。
失格かもしれないが、それでもクライマックスに向けて走る春のオハイオの空気に乗って動くのはシンプルに楽しい。
桜の儚さや、3月と卒業をセットにして感傷的になることや、4月で学年が変わるという概念を少しの間忘れてもいいかなと思うほど。
幼少期の海外経験では、どんな形を取ろうとも、きっと捨てざるを得ないものが出てくる。それが何になってくるのかは家庭によって異なるだろうが、置き去りにするほかないものが、必ず生じる。
だって彼らの体は、小さいのだから。
容積には、限りがある。

パラレルワールドにはきっと、いつかお世話になるものだ。モノワールドから逃げたくなった時、他者を理解したいと思ったとき、その二重の世界を引っ張ってこれたらいい。

今は太陽を存分に浴びて、人と関わり、自然の恵に感謝して、パラレルワールドはしばし、頭の中の税関に日本国籍のパスポートとともに差し押さえてもらおう。
置き去りにしたものは、時間ができる冬にでもまた、取りに戻ろう。

Makiko


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