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幸せの泉

今日書くお話は、おそらく私を構成するいくつかの事柄の中でも核となっている部分の話だと思う。

いつ頃からこんな感情が湧くようになったのかはハッキリと覚えていないが、「感謝してもしきれない」という感情が度々湧いてくる。
「度々」と書いてるけど、本当はいつ何時も湧いている。
自分の今置かれている環境のこと、生きていられること、制作できること、ご飯が食べられること、暑さ寒さを凌げる屋根の下で、暖かいお布団に包まれて安心して眠れること、たくさんの知人や友人や仲間がいること、目が見えること、耳が聞こえること、言葉が話せること、花や食べ物の匂いを嗅げること、風を感じられること、挙げればキリがない。
実際に関わる人の存在や目に映る全てのものに対する感謝というか、愛おしさというか、一言で表すとしたら所謂「愛」なのかな…と思う。
それが私の心の奥底から泉のようにこんこんと湧いてきて、溢れているのだ。

幼少期の私がやっていた行動について話そう。
小さな頃から自分の心の奥底から「愛みたいなもの(当時はまだハッキリとは認識できなかったから、あえてこう表現する)」が湧いていたことは認識していた。
幼い頃から「私は『幸せ製造機』なんだろう」と思っていて、自分にとって「幸せ」というものは常に枯渇することなく湧いてくるものだと思っていた。
もちろん、今もその認識は変わらない。
だから、常に心には幸せが溢れていて、それをどうにかして自分以外の人の元へ渡せないかといつも考えていた。
目の前で悲しむ人を見たら、「私の持っている幸せの半分を渡す」という儀式(あえてこの表現)をしていたし、目の前で痛みに耐える人を見たら、「私の持っている幸せの半分を渡す」という儀式をしていた(イメージの中で)
どれだけ渡しても私の幸せは減らないし、もしそれで相手の苦痛が少しでも減るのなら私はそれが一番嬉しかったからだ。
私だけ笑顔で過ごせてもそれは幸せじゃないし、そのどうしてあげることも出来ない現実を受け止めることの方が私にとって何よりも苦痛だったから。

大人になって、そして今。
幼少期からある「泉のように湧いてくる幸せ」はさらにその量を増したと実感している。
最初に書いた「感謝してもしきれない」という事柄全てに感謝が湧いてくるし、その存在が愛おしくて、溢れきったこの幸せという名の感情を「誰か」や「何か」に渡したくてウズウズしている。
ただ、こんなことにも気が付いた。
「その渡そうとする幸せは自分のエゴじゃないだろうか」
相手にも相手の人生があって、彼らに起こる所謂「不幸」や「試練」も彼らにとってとても大切な経験なのだと思う。
それを私のエゴで奪ってしまってはいけないし、幸せの押し付けも良くないのだと思う。
私はただただ純粋に「何かで返していきたい」という気持ちでいるが、果たしてそれが相手の望んだことなのかは常に考えていかないといけないとも思っている。
もちろん「助けてほしい」と声をあげる人のことは私なりの何かで変わらず助けるし、「惚気を聞いてほしい」という人のことは時間の許す限り話を聞いて一緒に喜びを分かち合いたい。

それでも使い切れない枯れることなく湧いてくる幸せの泉は「作品制作」という形に変換しようと思う。
そうすればきっとその作品を見た人が、その人のペースで「何か」を受け取ってくれるはずだから。
仮にスルーされてもそれもOK。
その人にとって必要じゃなかっただけの話だから。

この話を聞いて「偽善」とか「重たい」なんて、そんな風に捉える人もいるだろう。
だけど、誰がなんと言おうと私の心の奥底には枯れることのない「幸せの泉」が存在していることは紛れもない事実で、その存在のおかげでどこかの誰かの役に立てているもかもしれないと思うと、それもまた「幸せだな…」と思う。
今日の散歩道にそんなことを考えていた。

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